あじさいの咲く庭で5
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「そうだったそうだった、それで、恋に落ちちゃったんだよねー」
時は戻り、現在。
にやにやとこちらを見やるこまりの顔を見て、正幸は言葉に詰まり、僅か熱くした頬を隠すように咳き込んだ。
「心がぎゅっとしちゃう出会いに、今もその人を待ってるなんてねー、あ、人じゃないのか」
こまりは当然のように言い直し、言い直しついでに、また、にやにやとしてこちらを見る。正幸は、困ったように頭を掻いた。
こまりにこの話をしたのは、彼女がまだ幼い頃。一雄と一緒にこの家に遊びに来た時、どうして紫陽花がこんなに咲いているの、と聞かれ、この庭でトガクと出会った事を話したのが始まりだ。それも、過去にこういう事があったらしいんだと、自分の身に起きた事ではなく、おとぎ話に聞こえるように話したのだが、こまりはその話にえらく食いついてしまい、こまりが成長するにつれて、それがいよいよ作り話ではないこと、正幸自身の話であるとバレてしまった。
「…君は、相変わらずだね。それに、こんな話をいまだに信じてくれるのも君くらいだよ。やっぱり、幼い君に話すべきじゃなかったか…」
「は?何言ってるの!正幸くんがこの話をしてくれたおかげで、私は妖怪に興味が持てたんだから!」
胸を張るこまりに、正幸は「それが、まずかったかな…」と、苦笑いを浮かべた。
信じてくれるのは嬉しいが、あまり人には言えない話だ。妖なんてものは存在しない、空想上の存在だと思う人がほとんどの世の中で、妙なものに興味を持たせてしまったと、正幸はどうにも責任を感じてしまう。
しかし、そんな正幸に対して、こまりは憤慨する。こまりにとって妖とは、好奇心を満たす推しだ。もう好きになってしまったのだから、それを否定されるのは、それも、この素敵な存在を教えてくれた本人に否定されるなんて、信じられないし、受け入れ難い思いのようだ。
「何よ!この庭の紫陽花がこんなに綺麗なのも、私のお手伝いのおかげじゃない?トガク様が毎年欠かさずに紫陽花の花を置いていってくれるのもさ、まだ会えないけど、正幸くんを思ってくれてる証でしょ?私にとっても、トガク様が一番綺麗だと思う紫陽花がどの花なのか知るのも楽しみなんだし!それにさ!トガク様はちゃんといるのに、そんな余計なものみたいな風に言わないでよ!そんなの聞いたら、絶対悲しむじゃん!」
その、まっすぐに見つめる瞳に詰め寄られ、正幸ははっとして、申し訳なく視線を俯けた。
確かに、そうだ。トガクの存在を否定したつもりはなかったが、そう思われたとしたら、トガクにも、トガクの存在を信じてくれているこまりにも失礼だ。
「ごめん、そんなつもりはなかったんだ…」
「…ううん、私もごめん。熱くなっちゃった。好きなもの否定された気がして…あ、違うよ!恋の好きじゃないから!推しだから!正幸くんの彼に、会えたら良いなぁとは思うけど」
「…はは、僕も信じてくれて嬉しいよ。この庭の手入れも手伝ってくれて…こまりちゃんには感謝しかないよ」
そう感謝を伝えれば、こまりは照れたように笑って、紫陽花の庭に目を向けた。正幸も、それにつられるように、再び庭に目を向ける。
雨はまだ、しとしとと降り続くけれど、ここに彼の、トガクの気配はまだない。
毎年、雨の時期になると、縁側には必ず紫陽花の花が置いてあった。庭から一輪切り取ったもののようで、それがトガクのした事だと分かったのは、傍らに彼のものである羽根が一枚添えてあったからだ。
黒いその羽根は、やはり、ただの黒一色という訳ではなく、それは光に照らさずとも、時に濃紺のような、深い緑に煌めく宝石のようにも見えた。そんな美しい羽根だが、どうやら正幸以外の人の目には見えないようだ。その事から、この紫陽花の花は、トガクが置いていったものだと確信を得る事が出来たのだが、こんな綺麗なものが他の人の目に見えないというのは、なんだか惜しいような気がするが、結局は自分だけの特権のような優越感も少し感じてしまう正幸だ。
正幸はその花を見つけると、花瓶を用意して、なるべく庭からも見える場所にその花を飾るようにしている。トガクがいつそれを目にするのかは分からない、見に来ないかもしれない、それでも、彼の思いを受け取ったという意思表示を込めて。
自分も、あなたと同じ気持ちだから、だから忘れてしまわないで、という念のようなものもこっそりと忍ばせているのだが、トガクはそれをどう受け止めていたのだろう。
毎年、疑いもせずにその花を飾っていたが、今になって心配で胸が苦しくなるのは、今年はまだ、彼からの花がないからだ。
「…だけど、もう潮時かもしれないな。こんな風に待ち続けて、向こうもいい加減迷惑かもしれないよ」
この部屋は、あの当時と何の代わり映えもないが、人は変わるし、その気持ちも、いつだって同じとは限らない。妖だって、同じだろう。自分がどれだけトガクを思っていても、トガクも同じ気持ちかどうか、その目を見て、言葉を交わして確認した訳ではないから分からない。