あじさいの咲く庭で20
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「思ったより、遅くなった…正幸くん大丈夫かな」
助っ人の仕事が終わったこまりは、店の裏口から出ると、離れの家に視線を向けた。
気づけばすっかり夜を迎え、空には星々が瞬いている。こまりの家は近所ではあるが、帰りは危ないからと、一雄が車を出してくれるそうだ。
帰る前に、正幸に声を掛けて帰ろうと思ったこまりだが、離れに向かおうとしたその時、建物の周りをうろついている人物がいる事に気づき、こまりは咄嗟に建物の影に隠れた。
「まさか、あれって…」
暗くなった空の下だが、家の前や門、塀の周囲にも点々と灯りが灯してある。お陰で、その人物の姿が、暗い中でもはっきりと見る事が出来た。
その人物は、襟足を結って、夜だというのに黒いサングラス、黒いスーツの下からは派手な色のシャツが見える。男は、離れから門に向かう間、門の外と内側と、その辺りを執拗に警戒しているように見える。見るからに不審者だ。こまりは例の変質者だと思い、すぐに店に戻って一雄に助けを求めようとも思ったのだが、それでは取り逃がしてしまうと思い、再び男へと視線を向けた。
ここは一つ、自分の力で解決してやる。正幸くんを守らなくちゃ。
こまりは、立て掛けてあったほうきを手に、勇ましく男の後を追いかけた。
「あんた!人ん家の周りを何嗅ぎ回って、」
男が門の外に出たのを見て、こまりは逃げられると思い、咄嗟に大声を上げて門の外へ飛び出したが、その足は目的を見失い、呆然としてしまう。
たった今、男が敷地を囲う門の外へ出たばかりなのに、そこに見えたのは、一羽のカラスが羽を羽ばたかせ飛んでいく姿だけだった。
「え……あ、」
そこで頭を過ったのは、店の助っ人に向かう前、正幸と話したこと。
ずっと、正幸が待ち焦がれていた妖は、確かカラスに似た姿ではなかったか。
まさかと思い、こまりは飛んでいくカラスを追いかけようとしたが、空を行く鳥に追いつける筈もない。そこで、再びはたと思い至ったこまりは、その足を今度は慌てて引き返し、離れの家へと向かった。そのまま、インターホンを鳴らす事もなく、合鍵を使ってばたばたと慌ただしい足取りで家に上がっていく。部屋の電気を片っ端からつけながら、居間を開け、キッチンに目を向けつつ縁側へと向かい、それから正幸の寝室を無遠慮に開けた。
「入るよ、正幸くん!今、」
勢いよく口にして、こまりは正幸の姿を目に止めると、慌てて口を手で覆った。部屋は暗く、正幸はベッドに体を横たえ、ぐっすりと眠っているようだった。廊下から入る明かりを頼りに見ると、その額には、冷却シートが貼ってあるのが見える。
「正幸くん、寝てる…?」
あの冷却シートは、自分で貼ったのだろうか。こまりが出ていく時は、熱があるなんて言ってなかったのだが。そんな風に首を傾げたこまりだが、ベッドサイドのテーブルを見て、ぱっと瞳を輝かせた。
そこには、水差しとコップがあり、その横には、紫陽花の花があった。
「あ…!」
思わず声を出しかけて、こまりは慌て口を塞いだ。
会いに来たのだ、あの人が。そう思ったら、喜びが体を駆け巡ったが、はしゃいで声を上げるわけにはいかない。正幸は眠っているのだから、さすがに起こしてしまうのは申し訳ない。
この様子だと、正幸を看病してくれたのは、恐らくその人、その妖。先程、空に飛び立ったカラスは、やっぱり彼なのだろう。
こまりは改めて眠る正幸の顔を見て、笑って脱力した。
「全く、幸せそうな顔しちゃって」
そのまま部屋を出ようとしたこまりだが、ふと紫陽花の側に、メッセージの書かれたメモ用紙がある事に気づいた。勝手に盗み見るのはいけないと思いつつも、好奇心には抗えない。こまりが、こっそりそのメモ用紙を覗き込むと、思わずその顔には笑みがこぼれ、泣きそうにすらなった。
これは、感慨深いというのか、なんというのか。彼を目の当たり出来なかった悔しさも込み上げてくるのだが、やはり胸にじんわりと広がっていくのは、良かったという安堵の思いだ。
それから、紫陽花に再び目を向けると、こまりは満足そうに微笑んだ。
「やっぱりね、その紫陽花は最高だと思ったんだ」
毎年、トガクは、庭の紫陽花を正幸に贈っている。それが分かるのは、花が縁側に置かれた後、庭を見てみると、そこには一輪切り取られた跡があるからだ。
庭に咲く紫陽花は、どれも自分達で手入れをしたもの、どんな色の紫陽花も、最高以外のなにものでもない。それにと、こまりはもう一度メッセージを盗み見る。
二人にとって大事な花なら、どんな花言葉だって霞むのではないだろうか。愛をこめて贈れば、それは愛のメッセージでしかない。
紫陽花の庭の手入れに力を入れていたこまりにとって、それに愛のメッセージを込めてくれるのだから、何だか二人を繋ぐお手伝いが出来たみたいで、つい嬉しくなってしまう。
「起きたら色々と問い詰めなくちゃ」
こまりはそっと寝室を後にして、それから戸締まりを確認しようと、縁側へと向かった。
縁側にはガラス戸がしっかりと閉じられてる、鍵を掛けようと手を伸ばし、ふとこまりはその戸を開けて空を見上げた。見上げた空は、すっきりとした夜の空気に満ちていて、夜空には星が瞬いている。
紫陽花の側に置かれたメッセージには、“また明日”という、なんてことない一言が書かれていた。少しぎこちない文字だったが、それは正幸には何よりも特別なものになったのではないだろうか。
だってそれは、正幸が長い間待ち焦がれたもの、何よりも特別な明日が、これからやって来るのだから。
こまりは、ガラス戸を閉めて戸締まりをすると、離れを後にした。
紫陽花の咲き誇るこの庭にも、新たな夏が訪れようとしていた。
了




