あじさいの咲く庭で2
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二十歳を過ぎたあの日、その体は現在よりも脆弱で、正幸は、離れの部屋から庭を眺めるばかりの日々を過ごしていた。
この日も、朝から雨が降り続いていて、そのせいか、考えるのは暗い事ばかりだった。
ろくに体を起こす事も出来なくて、このまま自分は、ただ部屋の中で生涯を終えるのだろうか。雨のせいで外の音も聞こえない、空には鳥の姿もない。ここには何もない、空っぽの頭と体があるだけの、無感動で無感情な世界。
正幸は、終わらない鬱々とした世界に閉じ込められているような気がして、この世界から出る気力も、最早失っていた。
そんな風に、庭に咲く、ただ濡れる紫陽花を見るともなしに見つめていれば、その庭に、一羽の黒い鳥が降り立った。カラスだろうか、たが、カラスにしては一回りもふた回り、いや、それ以上に大きく感じる。雨に濡れた翼は、黒が滴り落ちるようで、広がる黒は、この庭をその内に飲み込んでしまうのではないかと思うほど。
どうして、こんなにも邪悪なもののように感じてしまうのだろう、あんなに黒くて大きな鳥を見た事がなかったからだろうか、普通のカラスだって黒くて怖いのに、それ以上に体が大きくて、あの鋭い嘴も大きく、その目だって。
しかし、そう考えて、その鋭い瞳がどこか虚ろにも見える事に気がついた。バサリと広げた翼は思いの外大きく、どこか感じる異様さに、正幸はびくりと肩を跳ねさせたが、それもよく見て見ると、濡れた翼は黒ではなく濃紺のような、深い緑のようにも見え、それだけじゃない、細やかな宝石のような煌めきが、まるで虹色さえも思い起こさせる。異様だと思ったその奥に眠る美しさに、正幸はますます困惑した。
あの鳥は、本当にただのカラスなのだろうか。
とはいえ、カラスの他に選択肢が見つからない。妙だと思っても、カラスはカラス、そして、カラスにはあまり良い印象を持たない。黒くて大きくて怖い。そうでなくても鬱々とした窮屈な世界だ、現れた黒い存在は心を重くしかしなかった。
だが、そんな正幸の思いは、ほどなくして一変する。
カラスは紫陽花で囲われた庭の中央に降り立つと、どういう訳か、人の姿へと変わってしまったからだ。その様に、普通の人ならば、ぎょっとして腰を抜かしたり、悲鳴を上げて逃げ出すとか、そんな反応を示しそうなものだが、正幸には、臆病になる暇も、その不思議な現象について深く考える余裕もなかった。
のし掛かるような雨雲、そこから降り注ぐ雨粒すら、きらきらと輝き舞い上がるような。光を受けて煌めくガラスの瞬きを、優しくシャボンが包んでいくような。
見えている世界は、あの窮屈な庭の筈なのに、この目に映る世界がまるで変わってしまった。
どくりどくりと、強く胸が打っているのは、その衝撃故なのか、それとも、そこに現れた、彼のせいなのか。
黒く長い髪に、黒い着流し。端正な横顔から見える瞳は切れ長で、どこか近寄りがたい雰囲気を感じるというのに、どうしてこうも神秘的にすら見えてしまうんだろう。その美しさは、この庭の全て、降り注ぐ雨粒の一つだって彼の為にあるようで、正幸はすっかりその人に釘付けだった。
彼は、雨が降る中で腰を曲げ、紫陽花を見つめているようだった。彼の視線を受けた紫陽花も、心なしか生き生きと輝いて見える。彼の見つめる眼差しは柔らかく、紫陽花に対して何か声を掛けているように見えたが、その声はこちらには聞こえてこない。
正幸と彼の間には、ガラス戸と、その先に降り続く雨がある。
彼がどうにも遠くに感じてしまうのは、自分が、ガラスの箱にでも閉じ込められているかのように感じてしまうからだろうか。強固なガラスの中は、鬱々とした日々を詰め込んで、正幸の足や体にまだしがみついている。このままでは、彼に近づく事はおろか、彼のいる世界から引き離されてしまうような気さえして、正幸は堪らずに、どうにかソファーから体を起こしてガラス戸を開けると、紫陽花の庭に向けて声をかけた。