あじさいの咲く庭で12
「…なら、鳥の姿でここにいようか」
「…え?」
「カラス以外でも、鳥の姿にはなれる。小鳥の姿なら、人の目にも俺の姿は見える。俺は、お前のペットでも構わない」
「そ、そうじゃない、そんな事が言いたいんじゃない!僕は、トガクさんを閉じ込めてまで一緒にいたいんじゃない!僕は、トガクさんと一緒に居られたら何でも良いとは思ってるよ、でも、それは、あなたの自由を奪うのとは違う、」
どうして、そんな悲しいことを言うの、どうしようもなくなるようなことを言うの。
正幸は、視界が涙に溺れそうになる感覚を覚え、唇を必死に引き結んだ。どうして、こんな日に限って雨は降らないのだろう、雨で視界も滲めば、少しは気持ちも和らいだのだろうか。瞳から溢れるのは、涙に変わりないけれど、それでも、もし、今日が二人が出会った日のような雨空であれば、二人の世界はもっと小さく閉ざすことが出来たかもしれない。雨に囲われたこの庭の中ならば、この涙は、トガクの気持ちを少しは引き寄せる事が出来たかもしれない。けれど、雲ひとつもない空の下では、トガクの気持ちをどうやって引き止める事が出来るだろう。
自由な鳥に憧れたのは、他でもない自分なのに。
俯いた正幸に、トガクはそっと視線を地面に落とした。
「けど、誰も信じない。目に見えないものを、どうやって信じればいい。お前の頭がおかしくなったって思うだけだ、俺はそれが耐えられない。俺がいるせいで、お前の日常も儘ならなくなるかもしれないんだぞ。この時代で、どこで隠れて暮らすんだ。アサジ達は、この土地がまだ山の中にあった時でさえ、この場所を追われたんだ」
トガクは、正幸の手をぎゅっと握り直すと、それから正幸の顔をその手で上げさせた。その拍子に、はらと、正幸の瞳から堪えきれない涙がこぼれ、それは正幸の頬に触れたトガクの手をゆっくりと伝った。
その様を見て、トガクは苦しそうに眉を寄せる。重なるように泣きそうな表情を見て、正幸は頬に触れるトガクの手に手を重ねた。
「…僕が、アサジさんみたくなれないから?」
「アサジは関係ない、お前にアサジを重ねて見た事なんてない。初めは確かに、アサジと同じ事を言うと思って気にはなったけど、それでも、こんな気持ちになったのは、正幸だからだ」
その優しい声色に、正幸は胸がぎゅっと苦しくなる。これ以上、言葉にしないでと、声にならない思いがまた涙を押し出してくる。だって、この先の言葉を聞いたら、トガクの思いをこのまま聞いたら、もうそれを突っぱねるなんて出来ないと予感がしてしまう。
だって、トガクはまっすぐと心を伝えてくれる。
正幸は、どうしようもなくて、頬に触れるトガクの手を両手で包むように、その頬をすり寄せる。
「…俺が嫌なんだ。お願いだ、ちゃんと力をつけて帰ってくる、人目にも、この人のような姿が見えるように、力をつけるから。だから、待っていてほしい」
見上げた視界に、トガクが映る。ゆらゆらと、涙に濡れるその視界の中でも、トガクの必死な様子が、切に願う思いがどうしたって伝わってきて、正幸はもう堪らなくて、頷くしかなかった。これ以上、駄々をこねて、トガクを苦しめたくはなかった。
そのまま抱きしめられた腕の中は、いつも以上に苦しい。優しい体温に愛情は溢れているのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。
離れていく翼の、その柔らかな音に、正幸はただしゃがみこんで、トガクの残した温もりを抱きしめるばかりだった。
*
トガクを見送ってからの正幸は、暫くの間、彼と出会う前のように、無気力な日々を過ごしていた。
心がなければ、こんなに悲しむことはなかったのだろうか。
それでも、トガクとの日々を無感情に塗りつぶすなんて事は出来なかった。トガクと過ごした日々は夢みたいだったけれど、それは夢なんかではない、夢になんて出来る筈もない、だって、こんなにも彩りをもってこの胸に溢れている。忘れたりなんてしたくない、出来る筈もない、雨粒の落ちるその一瞬だってきらきらと煌めいて、優しく悲しみを包んでいく。
この悲しみを包んで埋めてくれるのも、トガクなのだ。そう思ったら、この悲しみすら愛おしいもののように思えて、思わず笑ってしまった。トガクと交わした約束が、ぽっと暗がりの中で明かりを灯すようだった。それは、小さくて頼りないものだったかもしれないけれど、正幸の顔を上げさせるには十分だった。
トガクとの約束があるなら、それが叶うまで、この庭を、この店を守っていかなくては。大げさかもしれないが、正幸にとってトガクとの約束は、明日へ生きる希望だった。
その希望が二十年もの間消えなかったのは、トガクが毎年、会いに来てくれていると信じる事が出来たからだ。
実際、その姿を見ることはなかったけれど、毎年、二人が出会った雨の季節に、庭に咲いた紫陽花の花一輪とって、それを縁側に置いてくれていた。正幸にとっては、その一輪の花が、共に置かれた彩り豊かな黒の羽が、希望を持ち続ける力となった。
トガクはまだ約束が果たせないだけ、だから、約束を忘れたわけじゃないと、きっと、待っていてほしいと思ってくれていると。トガクがいつかのように、こっそり雨宿りに来てくれているのだと思うと、胸は溢れる温もりに、正幸の心を癒してくれた。
辛かったけど、ここに彼の思いが見えた気がしたから、だから、待つことなんて苦ではないと思い直すことが出来た。
でも、それももう終わりかもしれない。
雨が上がった、まもなく梅雨が開ける。今年はもう、この庭に来ないのかもしれない、そうしたら、これで全て、終わりになる。




