あじさいの咲く庭で1
その時、ここに心があることを、あなたが教えてくれたんだ。
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とある山の近くに、オレンジ色の屋根が印象的な洋館のレストランがある。敷地内には、塀と門に沿うようにぐるりと紫陽花の花が咲いており、紫陽花に囲まれたその店は、“紫陽花レストラン”と呼ばれ、長年、地元の人々に親しまれていた。
その敷地の中、洋館の裏側には平屋建ての離れがあり、そこは、このレストランのオーナーである正幸が生まれ育ち、今も住まいにしている場所だ。
そして、この離れにある小さな庭は、正幸にとって大切な場所だった。
その離れの居間から、しとしとと雨が降り続く庭に、正幸が目を向ける。庭と室内の間には縁側があり、今はガラス戸が閉められていたが、それでも庭の様子を見る事は出来る。この庭にも紫陽花が咲き誇り、雨に打たれる色とりどりの花達は、雨の滴を乞うようでいて、その姿は、誰かを待っているようにも見える。
正幸は、そんな受け止めをしてしまう自分に、静かに溜め息を吐いた。
今年、四十歳を迎えた彼は、年齢よりも幾分若く見えるだろうか。整った顔立ちに優しげな目元、柔らかな黒髪を耳にかける仕草はどこか雰囲気がある。仕事柄もあるのか、服装はきっちりとしたシャツ姿が多く、そのシャツも、いつもパリッとアイロンがかかっていて爽やかな印象だ。
だが、この日はいつものしゃんとした服装ではなく、ゆったりとした部屋着姿で、力なくソファーに背中を預けて座っている。今日は体調不良で、仕事も休みを貰っていた。
長く雨が降り続くこの町も、予報ではもうすぐ梅雨明けとなるらしい。
正幸がぼんやりと庭を眺めていると、ローテーブルの上に、湯気を立てたカップが置かれた。少し甘めのカフェオレの香りに視線をやれば、テーブルの向こうを横切った人物が、庭へと続くガラス戸をカラリと開けた。むっと蒸した空気と、濡れた土草の匂いが流れ込み、地面や草花を叩く雨音が大きくなる、彼女は庭を見渡し、それから室内を改めて見渡すと、正幸を振り返り、残念そうに呟いた。
「あの人、今年はまだ来てないんだね」
栗色の短い髪に、カジュアルなパンツ姿。彼女の名前は、こまり。正幸の幼馴染み、一雄の娘で、今年、十七歳になる。こまりとは、彼女が生まれた時からの付き合いで、血縁関係はないが、互いに親戚のような、はたまた友人のような間柄で、今では店にとっても大事な戦力だ。こまりは、正幸が体調を崩すと、時折、こうしてお見舞いがてら話し相手にもなってくれている。
因みに、こまりの父親の一雄は、今ではこのレストランの料理長をしてくれている。子供の頃から、何かと正幸を気にかけてくれる、大事な友人だ。
正幸は、「ありがとう」と、カフェオレの礼を伝えながら、再びこまりが立つ縁側の向こう、雨降る庭に目を向けた。
確かに、もうすぐそこに夏が迫っているというのに、あの人はまだこの家を訪れていないようだった。
居間のソファーの背に凭れて座る正幸は、重怠い体を起こそうとしたが、すぐに気分が悪くなり、諦めてソファーの背もたれに頭を預けた。子供の頃から体が弱く、大人になってからは、この体とも上手く付き合えるようになったと思ったが、それでも無理がきかない時がどうしてもある。この時期は、特にそうだ。
そして、こんな辛い日々に思い返すのは、あの人と出会った日のこと。
「…そうだね」
そう返す正幸に、こまりはしかめっ面を浮かべた。正幸の表情は、いつものような柔らかな笑顔だったが、長い付き合いであるこまりには、それが表面上のものであるのは明らかだった。
正幸は、その物腰も柔らかく、いつも穏やかな笑顔を絶やさないが、ふとした瞬間、その笑顔の中に、どこか儚さや憂いを滲ませる時がある。
幼い頃から体が丈夫とはいえない、そんな正幸を知っている人々からすれば、また体調を崩しているんじゃないか、無理をしているんじゃないかと心配になるだろうが、その表情が、体調不良だけが引き起こしているのではない事を、こまりは知っている。
正幸が拗らせているのは、体調だけではない。恋しい人への想いを抱え、その人をずっと待っている。
ただ待つばかりの恋は、重く苦しく、終わりの見えない思いに、追い詰められる事もあるのかもしれない。それでも、単なる一方的な想いではない事を、こまりは知っている。
だってあの人は、毎年必ず、正幸に会いに来ているのを知っているからだ。
「もうさ、情けない声出さないでよ。まだ、分からないでしょ?なんたって、運命の出会いなんだから!」
にやにやした笑顔に、正幸は苦笑いを浮かべた。
「…そんなんじゃないってば」
「はい、ウソー。ねぇねぇ、そういえば、あの人とはどんな出会いだったんだっけ?」
「白々しいな、知ってるだろ?それに、僕、一応病人なんだけど」
「どうせ退屈してたとこでしょ?」
「……」
正幸は、思わず言葉を詰まらせた。確かに、今の正幸は、まともに動けないだけで、お喋りが出来ない訳ではない、正直、退屈はしていたので、こまりが話し相手になってくれるのは嬉しかった。
だが、それも話の内容による。
しかし、さぁ話を聞かせてと言わんばかりの、きらきらした眼差し、というよりも笑顔の圧力に、断る労力を思えば頭痛がしそうで。
正幸は小さく溜め息を吐いて、再び紫陽花の庭へと目を向けた。
思い返すのは、二十年前、この庭で。あの日も、朝からしとしとと雨が降っていた。