反射する僕は誰?
幼い頃の僕は、鏡に映る自分の姿を疑いなく「僕」と認識できていたと思う。無神経に吐く言葉が誰かを刺すナイフになることなんて知らずに、華麗に舞っていた。失敗なんてしなかった。ガラスや水溜り、液晶に反射する僕はいつ見ても「僕」そのものだった。しかし、文字で鋳造されたナイフで足を切られたとき、僕は「僕」であるという感覚が崩れ始めた。踊ると痛みが走り、傷口に血が滲んだ。僕は存在自体に意味がないように思えた。
傷ついて初めて、傷つけていたと知った。
そこからは僕はどこか乖離する「僕」と向き合い続けている。「誰かが不用意に傷つかないように」と何周も遠回りしてやっと吐き出した言葉は、面白みのない空虚な言葉に変わった。そうやって計画された台本のような会話はコミニュケーションとは言えず、誰とも深い関係になれなかった。しかし偶に、心を覗き、考えてることを理解してくれるような「乖離する自分」を持つ人間に出会えたとき、少しだけ昔のように踊れた気がした。心が熱を帯び、胸が騒ぎ出す。そんな感覚だった。
僕と似たような人間と関わることで思想はより一層鋭くなった。「誰かを傷つける人間」を異常な程に嫌悪した。正義感とかそんなお飾りな感情ではなく、人間がゴキブリのような害虫を嫌うような、抑えのない拒絶だった。特にレイプや痴漢といった女性が被害にあうような、「持たざる性」への攻撃がある描写に強い嫌悪感を抱いた。女性に対して何か特別な思い入れがあるわけではない。ましてやフェミナチやミサンドリストなどでもない。「与えられた性が与えられなかった性(ここでの"与える"は優劣を意味するものではない)を踏み躙るという構図」が耐え難く不愉快だった。それを人々は「優しい」とかそんな生温い、湿った梅雨のような空気を纏った言葉を投げかける。その度に「優しい僕」が形成され、また乖離した「僕」が生まれていった。
誰と何を話したかを記憶し、相手が投影した「僕」のセーブデータを探す。それ故に「僕」のセーブデータは、関わった人間の数だけいる。これは誰にとっても普通のことで、相手には合わせた自分というのは勿論存在する。しかし他人と違うのは、僕は僕が分からないということだった。今何を望み、これから何を望むのか。心に問うても、答えは空白だった。「Aさんに投影された「僕」の願望は?」という、人によって投影された僕の何通りもある一問一答なら、全問正解必至の優等生なのに、それが僕自身になると、見当違いな回答すら書けない。部分点すらも諦めるような劣等生へと成り下がる。
僕の見えないところで「僕」の噂をされると、人による「僕」に相違が生まれる。楽観的な人間と評されたり、根暗な人間だと言われたり。多種多様な形をした「僕」は次第に自分が何者か分からなくなる。だから僕は、「僕」という一人称すら、使うたびに躊躇してしまう。それは本当に僕なの? それとも誰かに見せるために最適化された「誰か向けの僕」なのか? 気づけば、日常の中で何度も自分の発言を心の中で反芻し、削り、意味を曖昧にし、感情を薄めてしまっている。
「理解されたい」と「誤解されたくない」の間で、言葉はいつも不自然にねじれていく。それが習慣になってしまった今、僕はもう、自然に言葉を吐けなくなっている。
それでも、言葉を綴ることだけは、どうにか続けている。少なくとも、誰かに合わせて整形された声ではない、僕だけの文字でなら、ほんの少しだけ、自分に触れられる気がする。
こうやって記すことが、我彼にとって正しいのかなんて分からない。だけど、書き続ける。いつかの僕にとって大事な人が言ったことを心に留めて。そんな言葉に救われた貴方が、僕を救い、君を救うかもしれない。まだまだ青い僕が、熟れそうな君に届けたい。
「善悪なんて図れないけど、判断したいの。笑って許してよ、過ちくらい」