第2章: 「光を受けとめる掌(てのひら)」
直樹が市民センターの写真講座に参加してから、数週間が経った。
最初は戸惑い、足を引きずりながら参加していたその場所に、今では少しずつ居心地の良さを感じるようになっていた。もちろん、まだ完全に心が解けたわけではない。それでも、毎週の講座を受けるたびに、少しずつではあるが、何かが戻ってきているような気がしていた。
栞の言葉が、いつも柔らかく、でも確かな力を持っていた。「手は、心の一部です」と彼女は言う。直樹はその言葉が頭に残り続けていた。
手を使って誰かと繋がることができるのだろうか?その答えが、少しずつ明確になってきている気がした。
講座の日、直樹は自分でも驚くほど早く家を出た。いつものように時間ギリギリではなく、余裕をもって出かけた。気持ちが少し、軽くなった気がした。
外は春の陽気で、空気が新鮮だった。柔らかな風が、髪を軽く撫でる。まるで、全てが新しい世界に変わったかのように感じられた。歩く足取りが、少し軽くなっていた。
市民センターに着くと、いつもよりも人が少ないように思えた。少し遅れて来たのかもしれない。直樹は受付を済ませ、講義室に向かうと、もうすでに参加者たちは席についていた。栞は、いつものように温かい笑顔で直樹を迎え入れてくれる。
「おはようございます、真柴さん。今日もよろしくお願いしますね」
その言葉に、直樹は少しだけ安心したような気持ちになる。栞の言葉は、まるでおそるおそる心に触れてくれるようだった。
今日は、何を撮るのだろう?
栞は、参加者に向かってゆっくりと話し始めた。
「今日は、皆さんが最も大切にしているものを撮影してみましょう。物でも人でも、あなたにとって特別なもの。自分にとって大切なものを、あなたの視点で切り取ってみてください。手のひらで光を受け止めるように、優しく、その大切なものを見つめてください」
直樹は自分の手を見つめる。それは、何度も何度も見てきた自分の手だった。だが、以前と違う点があった。それは、手のひらが少しだけ、自然に広がっていることに気づいたからだ。
あのとき、栞が撮ってくれた写真のことを思い出す。「綺麗な手ですね」その言葉が、何かを変えたのだろうか。直樹の手は、少しずつ世界と繋がる準備をしていた。
栞が指示を出す。「では、撮りたいものを決めたら、カメラを構えてみてください。自分の心に従って、そのものを写真に収めてください」
直樹は、カメラを手に取る。シャッターを押す前に、少しだけ深呼吸をする。周りの音が少し遠くなり、静かな集中が生まれる。目の前のカメラのレンズを通して、世界が少しずつ違って見えてくるような気がする。
そして、直樹は自分の手を、そっとカメラの前に差し出した。
「今度は、もっと近づいてみて」
栞の声が優しく響く。直樹はその指示に従って、手のひらをレンズの前に持っていく。自分でも驚くほど、その手が自然に動いていった。硬くなった自分の心が、少しずつ緩んでいくのが分かる。手が、カメラ越しに少しずつ「何か」を伝え始めているような気がした。
「そう、それがいいですね。真柴さん、すごく良い感じですよ」
その言葉に、直樹は思わず顔を上げた。栞の笑顔が、そこにあった。少し恥ずかしくなったが、それでも、その言葉には不思議と安心感があった。
今日は、少しだけ自分を信じてみようと思えた。
何も言葉を交わさなくても、少しずつ心が繋がっていく。手を通じて、何かを表現することができる。そしてその先に、やっと少しだけ「光」が見えてきた気がする。
直樹はカメラのシャッターを押す。その瞬間、自分が少しだけ前に進んだ気がした。
直樹はその日、帰り道に少しだけ足を速めた。
いつもなら、講座を終えた後は家に帰ると、すぐにベッドに横たわって無為に時間を過ごしてしまうのが常だった。しかし、その日はなぜか、足元が軽く感じた。町の景色が少しずつ鮮明に映り、空気の冷たさが、心地よく感じられた。
「光を受け止めるように…」栞の言葉が、じわりと心に残っていた。その言葉が何故か、今までの自分に対して一種の許しのように思えた。自分の手、手のひら、そのすべてが、自分の一部として受け入れられる感覚。それが、少しずつ広がってきたような気がする。
家に帰ると、無意識にいつも通りソファに腰を下ろしたが、今日は携帯を手に取ることなく、そのまま窓の外を眺めた。外の光が夕焼けに染まり、部屋の中に温かな色を運んでくる。それが心地よかった。
何も考えなくてもいい。ただ、今、目の前にあるものを感じているだけでいい。久しぶりに、心が穏やかな感覚を取り戻した気がした。
次の週の講座でも、直樹は少しだけ自分を解放することができた。以前は無意識に周囲の視線を気にしていたが、今日はカメラを手にして、自分のペースで動くことができた。栞が静かに見守る中で、彼の指先は自然と動き、シャッターが切られる音が、まるで自分を励ますように響いた。
そして、再び栞が声をかけてくる。「真柴さん、今日はいいですね。手のひらが、すごく生き生きしています」
その言葉に、直樹は少しだけ照れたが、同時に心の中に小さな温かさが広がるのを感じた。それは、過去の自分にはあまり感じられなかった、ほんの少しの誇りのようなものだった。
栞のカメラに向けて手を差し出すとき、直樹はほんの少しだけ、意識的に指を開いた。指先に光を集めるように。まるで何かを受け取るように。
その瞬間、自分の手が、何かを伝えようとしているような気がした。
帰り道、直樹は少し遠回りをして歩いた。いつもの道を少し外れて、商店街を通り抜けてみる。陽が沈みかけ、街の灯りがぽつぽつと灯り始めた。人々の顔が、夕焼けに染まっていく。何気ない日常の風景が、昨日までとは違って見えた。
街を歩いていると、ふと目に留まるものがあった。それは、少し古びた花屋の前に飾られた一輪の花だった。白いチューリップ。無造作に飾られているその花が、急に心に響いた。どこか儚げで、でも力強さを感じさせるような花。
直樹はその花をじっと見つめた。
「これは…」何か、心の奥深くから言葉にならない感情が湧き上がってきた。そして、気づくと、足がその花屋に向かっていた。
店内に入ると、店主の女性が微笑んで迎えてくれる。「いらっしゃいませ。チューリップですか?」直樹は頷き、少しだけ言葉を選ぶようにして話す。
「この白いチューリップ、一輪ください」
店主は軽く微笑んで、花を包んでくれた。その包みを手に取ると、直樹はまたしても自分の手を見つめていた。不思議とその手が、少しだけ誇らしく感じられた。
この花を、誰かに渡したくなったわけではない。ただ、自分の手で大切に抱えていることで、何かが少しずつ、変わってきていることを感じた。
その夜、直樹は花を窓辺に置いた。白いチューリップが、部屋の中に静かな光を持ち込んでくれる。その花を見つめながら、直樹は深く息を吸い込む。この一輪の花に、自分の中にある不安や重さを預けてもいいのだろうか。
だが、少なくとも今は、この花のように、静かに光を受けて生きていける気がする。
眠る準備をしながら、直樹は栞の言葉を思い出していた。
「手のひらで光を受け止めるように。」
手のひらが、心の一部であるならば、今、何かが少しだけ確かに繋がったような気がした。ほんの少しの余白が、少しずつ広がっていく。それが、直樹にとって、確かな一歩のように感じられた。
彼の心には、まだ遠くに広がる闇があった。だが、今はそれでも、少しだけ歩みを進めた気がしていた。
そして、その手のひらには、これからの未来を受け止めるための、光が少しずつ集まっていくのだろう――。
次の週、直樹は再び写真講座に足を運んだ。毎回、講座に参加するたびに、何か新しい感覚が芽生えるのを感じていた。それは、たとえば他人の視線を気にすることなく、自分の手のひらに意識を向けることができるようになったことや、何気ない風景をカメラ越しに切り取ることの楽しさを覚えたこと。言葉ではなく、手を通して表現することが、自分の心に新しい息吹を与えてくれているような気がした。
「今日は、少し違った視点で物を見てみましょうか」栞の穏やかな声が、教室に響いた。直樹はカメラを手に取り、栞の指示に従う。「目の前にあるものを、その形や色、質感だけでなく、感情に落とし込んでみてください。何かしらの物語を感じ取るように」
直樹は少し考えた後、自分の手を再びカメラに向けて差し出した。その時、ふと気づいたことがあった。自分の手が、過去を背負ったものでもあり、同時に未来へ向かって伸びるものでもあるのだということ。それは、他の誰の手でもない、自分の手だった。
「こうして、何も考えずに手を撮っているだけで、少しずつ自分が解放されているのかもしれない」
そんな思いが胸の奥で静かに芽生える。以前のように「自分が何をしているのか」を過剰に意識することなく、ただただその瞬間に身を任せることができている自分に、少しだけ誇りを感じた。
その日、直樹がカメラで撮った写真は、普段見過ごしてしまうような物や瞬間を切り取ったものだった。レンズを通して、自分の周りに広がる世界が、ひときわ美しく感じられた。その写真の中に込められた感情は、直樹自身がまだ言葉にできない、繊細で温かなものだった。
帰り道、直樹は花屋の前を通り過ぎると、ふと足を止めた。あの白いチューリップが、まだ飾られている。彼は少し迷った末、再びその花を購入した。今回は、何の躊躇もなく。
「一輪だけでいいです」
それを手にし、直樹はゆっくりと家へと帰った。部屋に花を飾り、そのままソファに腰を下ろす。窓から差し込む夕陽の光が、花を包み込み、まるでその存在を輝かせるようだった。直樹はしばらくその光景を見つめていた。
その瞬間、彼はふと気づいた。自分が手にしたチューリップの花が、どこか栞の目を通して見た世界に似ていると感じたのだ。栞が言った言葉が、どこかで響いていた。
「手のひらで光を受け止めるように。私たちは、日々その光を見逃しているかもしれませんが、それでも、どこかに確かに存在しているんです」
直樹は静かに息を吐きながら、花をそっと手に取った。手のひらの温かさを感じながら、その一輪の花が持つ意味を少しずつ噛みしめる。無理に理解しようとせず、ただ、その存在が自分に何かを伝えようとしているような気がした。
そして、今はそれを感じ取るだけで良い。言葉ではなく、触れることで。
翌週の講座の日。直樹はいつもより少し早めに教室に到着した。静かな教室の中、栞が席に着いている。直樹はカメラを手に、栞の方に近づいていく。
「真柴さん、今日はどんなものを撮ろうと思っていますか?」
栞が尋ねると、直樹は少し考えてから、静かに答えた。
「手を撮りたいんです。自分の手だけでなく、誰かの手も、撮ってみたいと思っています」
栞はその言葉に、優しく頷いた。「いいですね。手には、たくさんの物語が詰まっていますから」
直樹は、その言葉が胸の中で静かに響くのを感じた。「手には、物語が詰まっている」――その言葉が、彼の中で新たな意味を持つようになっていた。そして、直樹は決意を新たにする。自分の手、そして他の誰かの手を通じて、もっと深く世界と繋がりたいという思いが、自然に湧き上がった。
講座が進む中で、直樹は自分のカメラを通して、他の参加者たちの手を撮るようになった。その手のひらの温もり、指先の微かな動き、そんな一瞬一瞬が、彼にとって貴重な瞬間となっていった。それは、誰かと心を通わせるような感覚だった。言葉は必要なく、ただ手と手が交わることで、何かを感じ取ることができるような、そんな感覚。
次第に、直樹の心は少しずつ、でも確実に軽くなっていった。自分の手を通じて世界と繋がり、他の人々と繋がることができるという感覚。触れることで、言葉以上に深く理解できることがあるのだと知った。
そして、その日、講座の終わりに栞が直樹に言った。
「真柴さん、あなたの手は、もう光を受け取る準備ができていますよ」
その言葉に、直樹は驚くと同時に、深い感動を覚えた。栞の言葉が、心の中で静かに響く。
その瞬間、直樹は自分の手に、確かに何かが宿ったことを感じ取った。そして、それが新たな始まりであることに気づいた。彼は、もう一歩踏み出す準備ができていた。
その夜、直樹はベッドに横たわり、目を閉じた。栞の言葉と、自分の手に集まった光が、静かに心に広がっていく。そして、直樹は確信する。次の一歩を踏み出すことが、もう恐くないと。
彼の心の中に、再び光が差し込んでいた。