第1章: 「沈黙の部屋」
朝が来たのを、音ではなく光で知るようになったのは、いつからだっただろう。
窓の隙間から射し込む淡い光が、壁の時計のフレームをぼんやりと照らしている。針の音は聞こえない。そもそもその時計は、数ヶ月前から動いていない。単三電池を替えようと思ったこともあったが、それすら思考の途中で霧のように消えた。
真柴直樹は、ベッドの上で体を起こすことなく、天井を見つめていた。カーテンは閉じられたままで、部屋の中は夜とも昼ともつかない中途半端な薄明かりに包まれている。まるで時間がそこだけ止まっているようだった。
音がない。声もない。人の気配も、予定も、通知もない。
しんとした静けさに包まれているのに、頭の奥ではずっと何かが鳴っている気がする。あの日からずっと。辞めます、と言った日から。いや、それよりずっと前から、何かは壊れ始めていたのだろう。
携帯電話は枕元にあったが、画面を見る気にもなれなかった。未読のメッセージは、母からのものだけだと分かっている。内容も想像がつく。体は大丈夫? 食べてる? お母さん、心配してるよ。“心配”という言葉は、どうしてあんなに重いのだろう。受け取った瞬間、責められているような気がしてしまう。
かつての自分は、朝一番の会議に向けて、スーツを着て電車に飛び乗っていた。満員の車内、上司の圧、クライアントからの理不尽な修正指示。それでも“仕事ができる自分”でいることに酔っていた。そうすることでしか、自分の存在を確かめられなかった。
でも、もうあの頃の自分は、どこにもいない。心がある日、突然立ち上がるのをやめたのだ。
午後になって、ようやく直樹はベッドから身体を起こした。
とはいえ、すぐに何かをするわけではない。足を床に置いたところで、しばらくは動けず、視線はただ空中を彷徨っていた。薄手のカーテン越しに差す光が、フローリングの床に淡い模様を描いている。それがゆっくりと角度を変えていくのを、彼は茫然と見ていた。
かつての習慣で、寝室の扉の先には小さなダイニングテーブルがある。冷蔵庫も、電子レンジも、使おうと思えば使える。だが、使わない。使えないのではなく、「使う理由が思いつかない」のだ。
食欲はもうずっとない。口に何かを運ぶのも、億劫だった。たまに食べるカップスープやコンビニのパンも、ほとんど「体を壊さないため」に食べているだけで、味を感じた記憶はほとんどない。
スマートフォンの通知がひとつ、震えた。直樹は眉をわずかに動かしたが、手は伸ばさなかった。着信ではなかったことだけを確認して、再び視線を落とす。どうせまた、母からのLINEだ。
「たまには外に出てみたら?」 「買い物ついでに寄っていい?」
悪気がないことはわかっている。心配してくれているのも、知っている。それでも、返信する気にはなれなかった。
――誰にも会いたくない。――でも、ひとりでいるのも苦しい。――でも、誰かと一緒にいるのは、もっと苦しい。
その矛盾が、まるで足元の沼のように、彼の意志を動けなくさせていた。
リビングの隅には、以前の仕事で使っていたノートパソコンが置かれたままだった。広告代理店に勤めていた頃は、毎晩のようにそれに向かって深夜まで資料を作っていた。完璧な構成、キャッチコピー、ブランドとの整合性。膨大なクライアントとのやりとり。スピードと正確さと、時に忖度と、少しの運。
それをこなすことで、自分は“存在していた”。
けれど、ある日、画面の前で指が動かなくなった。頭は空白。呼吸が浅く、胸が締めつけられるように苦しかった。ほんの一行の文章が、どうしても打てなかった。
「ごめんなさい。ちょっとだけ、休みをください」
最初はそう言ったつもりだった。でも、“ちょっとだけ”は、“ずっと”に変わった。
もうあの職場には戻れなかった。メールの返信ができなくなった。電話に出ることができなくなった。誰かに見られるのが怖くなった。言葉が怖くなった。自分の顔ですら、鏡の中で見るのが苦しくなった。
窓を少しだけ開けると、春の匂いが流れ込んできた。草の匂い、土の匂い、どこかで焼かれたパンの匂い。誰かが生きている匂いだった。
でも、その匂いの向こうに、自分はもういないような気がした。世界から、ひっそりと置き去りにされたような感覚。誰かが迎えに来てくれるわけでもない。ここから動くには、自分で足を一歩踏み出すしかない。
それが、どれほど難しいことかを、直樹は知っていた。
だから今日も、カーテンは半分だけ開いたまま。沈黙の部屋の中で、彼はまだ、音のない日々を生きていた。
それでも。
その夜、眠れずにスマートフォンを眺めていた直樹は、母の送ってきたメッセージの中に一行、目にとまった文を見つけた。
「近くの市民センターで、写真講座があるみたい。気分転換にどうかな?」
特に意味もなく、彼はその文をスクリーンショットして保存した。理由はなかった。ただ、なぜか、それだけは指が勝手に動いた。
それが、彼の「沈黙の部屋」に最初に差し込んだ、ひと筋の光だった。
翌日、直樹は少しだけ早く目を覚ました。
いつものように何も変わらない部屋の光、動かない時計、鳴らない電話――けれど、昨日と違うのは、彼のスマートフォンのメモアプリに保存された、たった一枚のスクリーンショットだった。
「写真講座、市民センター、水曜午後1時から、全5回、初心者歓迎」
それを見ても、心が弾むことはなかった。ただ、「何もしない」よりも、「誰かの言葉に乗っかってみる」ことの方が、少しだけマシかもしれないと思っただけだった。
自分の意志で動くには、まだ力が足りなかった。でも、誰かの言葉に引かれるままなら、もしかしたら――。
市民センターの建物は、少し古く、木の匂いがした。直樹は玄関のガラス戸の前で立ち止まり、小さく深呼吸をする。胸がぎゅっと締めつけられる。足が鉛のように重かった。
「やっぱり、帰ろうか」
そんな声が心の中で何度も囁いた。けれど、それでも彼は、そっと扉に手をかけた。冷たくも、優しくもない、その中間のような感触だった。
受付の女性は明るく、「写真講座ですね」と笑顔を見せた。直樹はほとんど声にならない返事をしながら、言われるがままに名簿に名前を書いた。手が少し震えていた。それに気づかれないように、書き終わったあとすぐにペンを置いた。
教室の中には、すでに十人ほどの参加者が集まっていた。ほとんどが中高年の男女で、カメラを肩から下げたり、楽しげに話をしていた。
直樹は部屋の隅の椅子に腰を下ろした。会話の輪には入らない。入れない。ただ、椅子に座って、無心に周囲を見ていた。世界の音が、少しだけ戻ってくる。それが不思議だった。こんなにざわざわとした空間に、自分がいる。
時間になると、講師が入ってきた。長い黒髪を一つにまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「皆さん、こんにちは。今日から写真講座を担当する藤原栞です。どうぞ気軽に参加してくださいね」
その声は穏やかで、静かで、まるで水を含んだようにやわらかかった。
声を聞いた瞬間、直樹はなぜか無意識に、息を小さく吐いていた。
講座は、構図の基本、光の捉え方、シャッターのタイミングなど、やさしい内容で進んでいった。栞は、話し方にも教え方にも、無理がなく、押しつけがましさもなかった。まるで、こちらの呼吸に合わせて話してくれているようだった。
「では最後に、今日は“手”をテーマにして撮ってみましょうか。身近にある手。自分のでも、誰かのでも。スマホでもいいですよ」
直樹は、ふと自分の手を見下ろした。痩せて骨ばってはいたが、爪は清潔で、皮膚は白く、血管が淡く浮いていた。この手で、かつては広告のアイディアを何十本も書き出していた。この手で、パソコンを叩き、資料を作り、眠る時間を削って働いていた。
そして今、この手は、ただここに置かれているだけだった。
「すみません、少し撮らせてもらってもいいですか?」
声をかけられたのは、講座が終わる少し前だった。目の前に立っていたのは、講師の栞だった。
「すごく、いい手をされていますね。表情があるというか……たとえば、こう、柔らかく指先を開いてもらえますか?」
直樹は何も言わず、言われたまま、指先を開いた。光が、その手に当たっていた。まるで、掌で光を受け止めるように。
「……うん、いいですね」
カメラのシャッター音が数回響く。直樹は驚いていた。この数ヶ月で、初めて「自分が誰かに見られている」感覚があった。その感覚は、不安ではなく、かすかな安堵を伴っていた。
帰り道、春の風が少し強く吹いた。
真柴直樹は、スマートフォンの画面に残った写真講座のメッセージを、ふと削除した。もう、それがなくてもいいと思えたからだ。
代わりに、今も掌に残っている、あの光の温度だけを覚えていた。
そしてその日、久しぶりに夜が深くなる前に、眠りについた。
彼はまだ沈黙の部屋にいた。けれど、その指先には、小さな“余白”が生まれ始めていた。