あの夏の日の卒業
バス停を降りて、すっかり以前と様子が変わった美容室の扉を開けると、中から男性の美容師が出てきた。
「学生さん?」
「はい。予約なんてしてないから、無理ですね。」
夏希はそのまま帰ろうとした。
「いいよ。こっち。」
夏希を鏡の前に案内し、結んでいた髪を美容師はほどいた。
「どうする?」
「たくさん切ってください。」
「これくらい?」
美容師は肩に手をあてた。
「もっと。」
「じゃあこれくらい?」
今度は顎に手をあてた。
「もう少し。」
美容師は耳に手をあてる。
「もっと。」
「それなら坊主になっちゃうよ。」
美容師はそう言って笑った。
「髪の毛って、1日どれくらい伸びるんですか?」
「人にもよるけど、1ヵ月で1センチは伸びるって言われてる。」
「じゃあ、3年分切ってください。」
「3年分?」
「そうです。3年分。」
「変わった子だなあ。わかったよ。いらない思い出の分、みんな切ってあげるから。」
美容師はそう言って髪を切り始めた。
「何年生?」
「高3です。」
「じゃあ、高校の思い出、みんな切ってしまうんだ。いい思い出だけ残してあげようか。」
夏希は鏡の中の美容師と目があった。
「いい思い出なんて、何もないです。」
「ずいぶん、淋しい事いうね。」
美容師は夏希の顔を前に向けた。
サラサラと流れるようにハサミを使っている手が止まり、美容師が時々鏡を見ると、切れ長のキレイな目をした、今まで見たこともない、凛とした顔が鏡に映った。
「シャンプーするからこっちに来て。」
再び鏡の前に戻り、髪を乾かすと、美容師は夏希と一緒に鏡を覗いた。
「ありがとうございます。すごく軽くなりました。」
山になって捨てられていく自分の髪を見ていると、夏希は急に胸が痛くなった。
「はい、どうぞ。」
髪を結んでいたゴムを手渡されると、涙がポロポロ溢れてきた。
「もしかして切り過ぎた?」
夏希は首を振った。
「思い出はみんなゴミになりました。」
「それはよかった。忘れたくないものは精一杯残したからね。」
美容師はそう言って笑った。
「名前、なんていうの?」
「城田夏希です。」
「俺は岡嶋潤。嫌な事があったら、またおいで。」
「ありがとう。」
夕暮れの道を早足で歩いていた。風が夏希の肩を通り抜けると、押さえつけられていたものがやっとなくなった様な気持ちがした。