夜の明けぬ内に
彼女に呼び出された。ゆっくりと目の前の引き戸を開ける。
窓の外では、太陽が顔を隠そうとしていた。彼女の横顔が金色に輝く。僕の顔には影が落ちる。戸を後ろ手で締めると、現とは隔たれてしまったかの様な、奇妙な閉塞感を僕らに与えた。
「人はなぜ死ぬのだと思う?」
彼女が尋ねる。
「生きているからだ」
「では、なぜ人は生きるのだと思う?」
「死にたくないからだ」
その答えを聞くと、彼女は微笑んだ。
「なら、人生は惰性だと?」
「あぁ、そうだ」
僕は言う。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
「そうかもな。君らしい」
彼女は外を見る。何を考えているのかは分からない。
「でも、少し寂しいな。私からすれば、川じゃなくて、森であって欲しい、と思うんだよ」
「森?」
「泡は消えるだけかもしれない。だけど、木は朽ちれば、新たな木への養分になる。そうして、バトンを繋いでいく」
「人は何かを成す為に生まれてくる、と?」
「別にそんな大層なことは望んじゃいないさ。だけど、せめて生きた爪痕を、いいや、傷跡を世界に残していきたいだけ」
太陽が沈みゆく。陽は翳り、蛍光灯の光が目立ち始める。作り物の光がこの部屋を満たしていく。
「もうじき、夜だな」
「あぁ」
僕は呟く。
「夜は怖い」
その言葉に彼女は驚いた様な顔を見せた。
「それは君らしくないな。どうして?」
「夜という物の本質は闇だ。如何に、電球で明るく取り繕っても、その根源には闇がある。闇とは、死だ。夜からは死の匂いがする」
彼女は、笑わなかった。神妙な面持ちで、僕の言葉の続きを待つ。
「人は、夜になれば寝る。それは、夜から逃げたいからだ。闇を耐え忍ぶ為に、瞼を閉ざし、光を待つ。そうして、人は、騙し騙し、今日を生きている」
「死ぬのは怖いか?」
「当たり前だ。誰だって死にたくなんてない」
僕の言葉に彼女は俯く。
「そうだな」
そして、再び、外を眺める。
「私は、夜に無限の奥行きを感じるよ。眠りさえしなければずっとこの一瞬が続いてくれる、そんな気がする」
「確かに、闇は宇宙とも言い換えられる。だが、夜には、限りがある」
「分かっているよ、そんなこと。全く、君にはロマンがないな」
彼女は僕の瞳を見つめる。僕は堪らず目を逸らす。
暫くそうしていると、彼女は徐に呟いた。
「天国はあると思う?」
「ない、と僕は思うことにしている」
「どうして?」
「死んだ先があると認めてしまえば、生きている今を蔑ろにしてしまう気がするから」
「なるほど。ロマンはない。だが、良い答えだ」
彼女は口角を上げる。そして、続きを述べる。
「私は天国という概念以前に、生者と死者の違いなど些末なものとしか思っていない。人の心に残り続けるのなら生きていると言えるし、孤独に過ごすのは死んでいるのと変わらん」
「そうかもな。人との関わりで自分の存在を証明する。それも答えの一つだろう」
「だから私は生き続けようと思う。例え、望むものが手に入らなかったとしても、私以外が手に取らないように滅茶苦茶に壊してから」
そこで、彼女の纏う雰囲気が変わった。そんな彼女は、薄闇の中、儚げであった。指を触れればそこから崩れ去ってしまうかのような危うさは、しかし同時に可憐さを呼び起こす。そんな彼女に見惚れていると、彼女の薄紅の唇から言葉が紡がれた。
「月が綺麗ですね」
彼女は言った。その言の葉は、風に運ばれて、鼓膜の奥で弾ける。
彼女の顔は良く見えない。眩いからだ。月か、それとも、あるいは。
それは、とても魅力的な相談だった。だが、下賤な僕なんかが彼女の隣にいて良いはずがない。完璧な彼女という存在に傷をつけることを、他ならぬ僕が許すことが出来ない。スッポンは月に手を伸ばしてはいけない。
「まだ、僕は、死にたくないな」
僕はそう答えた。その答えに彼女は静かに、ゆっくりと、瞼を閉じた。俯いた。月光は髪を艶やかに照らすが、顔には影を作った。彼女が何を考えているのか分からない。否、何かが少しだけ分かる様な気がした。
彼女は、目を瞑ったまま、その場を後にした。
夜の明けぬ内に。
翌朝、首を吊った彼女が発見された。提灯の様にぶら下がっているそれを見て、僕は少しだけ安堵してしまった。彼女は何にも毒されることなく、傷つけられることなく、その完璧な存在のままで去っていった。
なるほど。確かに、これは、傷跡だ。




