外見による差別とは
ルッキズムとは外見に基づく差別や偏見のことを指す言葉ですが、人は往々にしてルッキズムの支配下にあります。
例えば同じ性能、同じ価格の商品があったとして、あなたは美しく包装された物品と、薄汚れたように見える物品のどちらを選びますか?
店舗にて会計時に、美しく整った容姿の人物と、不細工で醜い人物のどちらに接客して欲しいですか?
恋愛対象にするなら、美人と不細工のどちらを選びますか?
テレビのドラマやニュース、アイドルグループなどで不細工ばかりの画面を見たいですか?
とにかく人類はルッキズムの支配下にあるのですから、ルッキズムをやめろというのは「人間をやめろ」というに等しい暴言です。
私もなるべく美しい言葉や旋律を好みます。
ここ「なろう」でも描写の美しさが競われていると思いますし、物語の面白さというのは「如何に設定や展開が美しいか」「言葉の選び方が美しいか」が評価されてのことでしょう。
美しさを否定する考えは酷く差別的な考えと私は思います。
自然はそのままで美しい時もあれば、恐ろしいほどに醜い面もあります。手入れがされた森林や庭園は美しいですが、それも手入れを怠れば時を経ずして荒れ果てた姿に変貌します。
外見的な美しさも、内面的な美しさも日頃の手入れが必要です。
そうした手入れを怠る人々が他人を羨み、嫉妬して醜い言葉を連ねて罵る様は心底から軽蔑に値しますし、とても醜いと感じます。
人類が美しさを希求して来たからこそ芸術や技芸が磨かれて伝統芸能、美術品、工芸品が産み出されて来たのです。それを否定するのはまさに「人間をやめろ」というに等しい暴言と私は感じます。大事なことなので二回繰り返しました。
美的感覚は個人差があり、そこには多様性が秘められています。
同じ人物を見ても「美しい」と感じるか「醜い」と感じるかは、十人十色です。それを個人的な感想そのままをむき出しにして「偏見」だの「差別」だのと騒いで感情を押し付けてくる浅ましい行為は、とても醜く不愉快極まりない行為と私は感じますし、大多数の人々からも不快感を突きつけられるでしょう。
外見的な差別や偏見を解消するには、まずは解消しようとする人から外見的な差別や偏見を捨て去る努力が必要です。
例えば往年のテーブルトークロールプレイングゲーム(以下TRPGと略す)では、ルッキズムむき出しのやり取りが頻繁に行われていました。
GM「君たちに少女が助けを求めているよ」
P1「美少女以外の依頼は受けない」
GM(おい)
P2「そういう差別はよくないぞ、しかし15歳以上はババアだ」
GM(このロリコンどもめ、地獄に落ちろ)
P3「僕はエルフだから20歳までは大丈夫だよ。けど黒髪がいいなぁ」
GM「ご要望通り、黒髪の美少女が瞳を潤ませて懇願しているよ。なお、見た感じ14歳ぐらい」
P1「どうしましたお嬢さん、俺でよければ何でも力になりましょう」
P2「抜け駆けは許さんぞ、私が力になります」
P3「いやいや、ここは僕に任せなさい」
こんな感じのやり取りですね(笑)
まあこの後、冒険者御一行はこの美少女に騙されてダンジョンの奥深くへと転落させられるのですが、それはまた別の話です。
TRPGの話もそうですが、童話や寓話などでも美貌に騙されて不幸な境遇に陥る教訓話がありますので、人々が如何にルッキズムに支配され、そしてそれを戒めていたかも明らかです。
慣用句としても「美しい薔薇にはトゲがある」と表現されます。
また相手を判断する材料として外見を重視しているのは、第一印象が強烈に作用しているのもその顕れです。自然界でも繁殖行動の一つに美しさを競い合う動物が存在する事実が、現世がルッキズムに支配された世界であると端的に物語っています。
重要な事柄は「美しいものを排除するのが差別解消ではない」、「美醜で善悪好悪を決定する差別的な考えを捨て去る努力こそが差別解消に繋がる」と理解することです。
物語やゲームの登場人物から美男美女を排除したとしても、美男美女の排除を願う人物が美男美女になるのではありません。結局はその醜い性根が表に出て内面的な醜さを助長するだけですから、美しい存在を認めて己自身の品位を保つ行動こそが、内面的な豊かさを外面に醸し出して雰囲気としての美男美女に近付くと理解する必要があります。
心が醜い人は、それが表情に出て次第に外見も醜くなります。劣等感を抱えて背中を丸めた姿勢と、常に堂々と胸を張っている姿勢のどちらが美しく見えるか感じるか、物事は単純なのです。
お隣の国には「ヨルボク」という言葉があります。「劣等感爆発」を略して「劣爆」と表現するのですが、興味のある方は検索して見て下さい。劣等感を爆発させる行為が第三者や周囲からどのような視線を浴びるのか。
そうすればルッキズムにヨルボクしている人物の評価がどのようなものか理解できると思います。