ヴレダ要塞……?
「勇者さま、カーンです」
扉の外から聞こえてくる声にイリスはあからさまに嫌な顔をした。
カーンはこの世界にやってきてから最初に世話になった王国の文官だが、正直あまりいい思い出はない。出会ったのはイリスがまさに殺されそうになっていた時だったし、彼に紹介された仲間に裏切られて死にそうになったこともそうだし、ここ数週間は顔を合わせるたびに王都に行けと面倒くさい要求をしてくるからだ。
イリスの功を労い、叙勲を行うという話だったが、人見知りで引きこもりの気質があるイリスにはそんな面倒なことはまっぴらごめんだった。
イリスは執務机に戻り大きく息を吸って気持ちを落ち着け、大きく深呼吸をしてから「どうぞ」と入室を促した。
少し経って執務室の扉が控えめに開けられ、扉の向こうから見慣れた痩せぎすの顔を覗かせた。
「おはようございます、勇者さま。本日もご機嫌うるわしゅう……」
「御託はいい。王都になら帰らんぞ」
イリスは嫌な顔を隠そうとはせず、カーンの言葉を遮り、ハエを追い払うように左手を振った。
しかし、カーンはイリスのそんな素っ気ない言葉に全く堪える様子もなく、
「いえ、今日はその話ではないのです……」
言いよどむカーンの言葉にイリスはこの日初めてカーンの顔をじっと見た。その表情はいつもの媚を売るようなものではなく、どこか憂鬱なものであった。
「嫌な予感がするが……」
イリスが言うと、カーンは懐からハンカチを取りだし流れ出す汗を拭いた。初夏とはいえ、北のこの地方はまだ涼しく、汗ばむほどの気温でもない。
「実は、その……」
カーンの顔から流れ出す汗はその量を増し、汗を拭く手が早くなっていった。
「ヴレダ要塞……?」
カーンから聞かされたその地名にイリスは記憶の糸を辿る。
この世界に勇者として召喚されてからまだ数ヶ月しか経っておらず、お世辞にもこの世界について詳しく知悉しているわけではないが、その地名には聞き覚えがあった。
「はい。西大陸と東大陸を繋ぐギガンティス山脈に帝国軍が建設した要塞です。王国侵略の橋頭堡となっている場所です」
「なるほどね……」
現在、イリスが勇者として召喚されたルーシェス王国は東大陸にある魔族が率いる帝国からの侵略を受けている。西大陸と東大陸を繋いでいるのは『世界の屋根』とも言われるギガンティス山脈であり、その天然の要害がこれまで帝国軍による大規模な侵略行為を防いでいた。
しかし近年、帝国第五皇子アガリアレプトが侵略軍の総司令官に就任した。戦略家として知られる皇子は一世紀前まで超えることすら困難だと言われたギガンティス山脈越えのルート上に巨大な要塞を建設したのだ。
もちろん、王国軍とて手をこまねいていたわけではない。
建設中から数次にわたるヴレダ要塞攻略戦を敢行してきたが、山中の高地に建設された要塞に近づくことすらままならず敗退に敗退を重ね、王国軍壊滅へと繋がっていくことになる。
要塞完成後は帝国軍の常駐部隊が置かれ、さらに攻略を困難なものにさせている。
「それをオレに落とせと?」
そう、カーンが持ってきた話とはこれまでの王都への帰還命令とは百八十度異なる敵軍最前線への攻勢命令だった。
「はぁ……。大変申し訳ないのですが、そういうことです」
カーンの汗は留まる所を知らず、もはや彼のハンカチだけではとても拭いきれるほどの量ではなかった。ついに揉み手を始めるカーン。
今まで訓練を受けた多くの王国兵が何度も攻略しようとして敗れた要塞である。その道のりは王国兵の血で塗りつぶされているとも言われていた。
「も、もちろんできる限りの協力は惜しまぬと王宮からは言付かっております。兵力も、資金も」
とはいえ、現在の王国軍は王宮を守る騎士以外ほとんど壊滅状態で、勇者の仲間として斡旋するごろつきに近い冒険者くらいしか戦力などは持ち合わせていない。
その勇者パーティーも先の戦いで過半数を遙かに超える六割強が失われていた。
こちらも壊滅状態と言っていいだろう。
つまり、これは失敗を前提とした王都への召喚命令を無視し続けているイリスへの懲罰だったのだ。
「そうねぇ……」
イリスは丸い顎を小さな手で撫でながら考える。これが懲罰であることなどとうにお見通しだ。
「ま、別にいいけど」
「おっしゃりたいことはわかります。しかしここは私の顔を立てると思って……え、いいの!?」
カーンの揉み手が止まった。思わず素が出てしまった。




