部屋の中に壺があったらためらいなく割ったもんだ
「……………………」
カールトン市庁舎の執務室でイリスはいつものように執務を行っていた。
大きな机の上に詰まれた多数の書類に埋もれているほど小さな身体は見るからに子供のそれで、事実体格も体力も十歳相当のそれしかない少女のものだったが、その正体は異世界から召喚された勇者である。
見た目は幼女以外の何物でもないが、その中身は多人数シューティングゲーム(MMOFPS)で指揮官として何度も世界一に輝いているプロゲーマーである。
戦術や戦略に優れるイリスの特性を生かし、今はこのカールトンの街で市政を担っている。その成果はめざましく、イリスが執務に就いてから市の財政はV字回復を示している。
この日もイリス自身が策定した予算の割り振りの執行状況を確認していた。
俗に言う『カールトンの戦い』から一ヶ月。戦場跡では遅い夏を前に草花が芽吹き始め、王国有数の穀倉地帯では種付けが始まろうとしていた。
机の上にはそれに関連する報告が山と積まれていた。イリスはそれに目を通し、次々サインしていった。
抜群の集中力を誇り、仕事を続けていたイリスだが、ふとした瞬間に集中力が切れた。
顔を上げ、部屋の中を見渡してみる。
石造りの市庁舎の一室である執務室。この部屋でただ一つの、しかしかなり大きな窓を背にするようにイリスが仕事をする机が備え付けられている。
左右の壁には壁全体を埋め尽くすように本棚が備え付けられていた。部屋の中にはほとんど飾り気がないが、唯一、正面のドアの左右には棚が置いてあり、その上に白磁の壺が置いてある。
普段は全く気にすることもないその壺をじっと見ていると、ふとある想いに取りつかれた。
イリスは立ち上がってその壺を掴む。そのまま頭上にかかげ、それをそのまま床にたたきつけ――
る事はなかった。
ため息をつき、壺を元の位置に戻す。
「昔は部屋の中に壺があったらためらいなく割ったもんだけどな」
イリスは右手を挙げた。人差し指を突き出し、頭の高さからまっすぐ下へと下ろすジェスチャーをする。
フルダイブVRゲームでほぼ標準と言っていいメニューを出すジェスチャーだ。自分の様子を確認したり、装備を変えたり、そしてログアウトする時に使う、イリスにとって馴染み深い動きである。
しかし、イリスの目には何も映らない。ただ元の位置に戻した壺が見えるだけだ。
神を自称する老人はあの時「これはゲームではない」と言った。
イリスはそれを信じていなかった。異世界などフィクションの出来事でしかないと思っていたからだ。
しかし今目の前にある壺の存在感、毎日食べる料理の味、起き抜けの顔に差し込んでくる朝日、敵と対峙したときの緊迫感、そして何より仲間たちの面倒くさくも微笑ましいキャラクター。すべてが作り物とはとても思えなかった。
「認めるしかないのかもな。ここはゲームじゃなくて本物の――」
独り言を遮るかのように執務室の扉がノックされた。
「勇者さま、カーンです」




