仲直り
冬の冷たい水の中のはずなのに、ぬるま湯に浸かっているように心地いい。シグナといるからか息も出来るし、静かな音のない世界に安らぎも感じた。
何だか眠いな…
そしてどこか懐かしいのはなぜだろう?昔誰かと一緒にこうやって眠っていた微かな記憶がある。それはシグナだったと思うのに、なぜだが違うような気もする。
ジュリは昔から、誰かと抱擁するととても安心する。だから自分も信頼する相手を抱きしめてしまう癖がある。
それが親愛の情だと教わったから…、誰から…?
頬を撫でる手にまどろみを感じながら、必死に眠気に抗って目を開けた。
「シグナ…戻らなきゃ」
「どうして?怖い事も悲しい事もここにはないよ。僕が側にいるからずっといよう?」
ずっとここに?
「このままジュリが苦しむかもしれないのが嫌だ。人間は悲しみで簡単に命を捨てるおかしな生き物でしょ?」
何の事?
ここにいれば確かに心は穏やかに過ごせるが、新しい喜びや楽しみも生まれない。それはきっと人との関わりの中で感じる事だから。
「でも辛い事があっても私は人の世界で生きていきたいよ。帰ろう?」
「…」
「なら私一人で帰るよ。お願い、帰して」
自分を撫でていた手が止まったような気がした。
喧嘩したいわけじゃないけれど、ずっとここにいるわけにいかない。ジュリの必死な叫びにシグナはとても悲しそうな顔をした。
どうして…
「シグナは何でそんなに、私を気にかけてくれるの?」
いつも側にいてくれて、それこそ人間よりも思ってくれる彼の優しさに、ジュリ自身ずっと疑問を感じなかったわけじゃない。記憶がないから余計気になるのかもしれない。
「…僕はジュリの…を…ったから」
え?
その言葉と同時にジュリの身体を誰かが持ち上げてくれるように感じた。一瞬シグナの姿が消えたと思ったら、ジュリは中庭の池から浮上していた。
「ぶはっ」
目の前には師長やカルロ達が池を見下ろし、後ろには師長の水の精霊らしき女性がジュリを支えてくれていた。
「え?え?みんな何してるの?」
「それはこっちの台詞なんだけど!?」
カルロが怒りながら手を貸してくれて、師長はいつも通りおかえりなさいと笑っている。
「春とはいえ、まだ肌寒いでしょう?早く上がって下さい」
「…春?」
シグナと話していたのは入学式前、まだ冬が終わっていなかった。けれど水に滴る自分を見ながら、なぜかそこまでの寒さは感じなかった。
春になったの?いつのまに?
「貴方は二か月行方不明だったんですよ」
「二か月!?」
確かにシグナと長い時間一緒にいたと感じていたが、少し眠っていたとしても一日か二日くらいだったと思っていた。不思議と空腹や疲労も感じていないが、時間だけが経っていたらしい。
嘘でしょ…
三年生の事件以降、目立ったことはしたくなかったのに、また噂の的になっていたと思うと気分が沈んだ。
とりあえず救護室で検査を受けて特に健康に問題はなかったので、そのまま師長のいる部屋に呼び出された。迎え入れてくれた師長はいつも通りの笑顔で椅子を勧めてくれた。
「さて、貴方は自分がどこにいたのか覚えていますか?」
「水の中としか…」
直前にシグナと精霊の話をしていた事などを話すと、なるほどと師長が少し考えながら話を続けた。
「きっと貴方の身を案じて、そんな行動をとったのですね」
「それはやっぱり最後の精霊の契約に関係してるんですか?危険を伴ったり…?」
「あるいは…。こればかりは実際にやってみなければわかりません。今までの高位精霊との契約も危険な事はなかったとは言えないでしょう?」
高位精霊はこちらに試練を持ちかけてくる。それは一歩間違えれば命の危険すらあるものだったとジュリは無言で肯定した。
「それに二か月も経っているなんて、思いもしませんでした。感覚では数日だったから」
「人外の世界は人間の生きる時間の外側にあるのでしょうね」
あのままずっとあそこにいたらと思うとぞっとする。いつの間にか何年も経っていそうだ。
「師長が助けてくれたのですか?」
「貴方が精霊と一緒にいるのはわかりましたが、流石に精霊の固有空間には入っていけません。貴方が水の中から姿を現したのは、精霊自身が解放したからでしょう」
シグナが…?私が人の世界で生きたいって言ったから…?
シグナはいつだってジュリの為にならない事はしない。けれどこれだけ強引な事をするのは珍しく、彼が何に対してジュリを守ろうとしたのか不思議だった。
何だか精霊の事に対する不安だけじゃないような気がしたけど…
そんな事を考えていると、少しだけ厳しい口調で師長は口を開いた。
「精霊の行動は全て契約した主の責任になります。制御できなかった貴方の過失扱いになりますので、前回のような特別授業は行えません。終了した課題は周りに聞くなり、調べてその都度教えを請うなり、自身で学ぶ姿勢を示してください」
「はい…すみませんでした」
しょぼんとしながら項垂れるジュリを見ながら、少しだけ固い表情を崩して精霊召喚についてですがと師長が続けた。
「四年生の精霊召喚の授業は先日終わりました。貴方の精霊探しは昇級試験の前にしましょう」
昇級試験っていうと四年生の終わりくらいかな?
そしてはっと気づいたように、ジュリは目の前の師長に問いただした。
「終わったって事は聖女候補はみんな四属性の精霊と契約が終了したんですか?シェリア様は何もなかったですか?」
「ええ、彼女は元々三年生の時点で四属性の精霊との契約は完了してますからね。今回は皆と共に森に行ったようですが、新たな精霊との契約は出来なかったようですよ」
元々高位精霊はそんな頻繁に会えるものでもないらしい。何事もなかったと聞いて、ジュリはほっと息をついた。
シェリアは魔闘をした時に二体の高位精霊を見せてくれた。その後に龍の湿地帯で別の精霊と契約したとしたらそれで三体だ。あと一体はいつ契約したのだろう?
あっ一年生の精霊召喚…!
ジュリはシグナと契約してたから、最初から高位精霊を探して契約しなければいけなかったが、クラスの皆は違うはずだ。
じゃあシェリア様は普通の精霊一体と高位精霊三体で四属性を揃えたって事なのかな
とりあえず四属性を揃えても何もなかったと聞いて、良かったと思った。
「精霊に関して僕からは特に咎めはありません、あれは貴方の精霊ですからね」
ジュリは頷いてシグナと話をしなければと思った。
師長の話が終わって退出すると、急いで中庭に向かった。春の日差しが降り注ぐ中、ジュリはペンダントに魔力を注ぐ。
「シグナ?」
きょろきょろと周りを見るが、シグナは姿を現してくれない。けれどどこかにいるような気がして、ジュリは再度呼びかけた。
「シグナ!話したいの、出てきて?」
それでも出てきてくれないので、ジュリはむっとして中庭の池に走り寄ってそのまま飛び込んだ。目を閉じて水面に叩きつけられる衝撃に備えたが、濡れる気配もなくなぜか宙に浮いていた。
え?
「…何してるの」
後ろから腰に手を当てて落ちないように、シグナに支えられていた。逃がさないようにそのままジュリはシグナにしがみ付いた。そしてそのまま地面に足をつけて、お互いに正面を見据える。
「だって出てきてくれないんだもの。そんなに顔をあわせづらかった?」
シグナが怒られた子供のように顔をやや斜め下に向けているので、ジュリが下から見上げる形で両手で顔を抑えて目線を合わせた。そして安心させるように笑うとやっとシグナがこちらを見てくれた。
「シグナがいつも私の心配をしてくれてるのは知っているよ?私の為にやってくれたんでしょ?」
「ジュリが助けてと言ってるように見えたから…」
辛いと思う事は村にいた頃の方が多かったが、それを言葉に出す事はなかった。言っても何も変わらないと知っていたから、ただ自分を保つのに必死だった。
今回弱音を言ったのはそれだけ心に余裕が出来たとも言える。けれどシグナはいつだってジュリの言葉を本気で叶えようとしてくれるのを忘れていた。
私が不安な事を言ったから…
「私ね、少しずつ思った事を言えたり、顔に出したりする今の自分がそんなに嫌じゃないの。私は強くないから、これからもシグナに甘えるような事言っちゃうかもしれないけど、一緒に逃げるんじゃなく向き合えるように背中を押してほしいの」
「…わかった」
最初からちゃんと言えば良かった。シグナはちゃんとわかってくれる
「でも二か月も経ってたなんてびっくりしたんだけど!外の世界と時間の流れが違うなら先に言っててよ!?」
「そうなの?僕たちにとって時間はそんな気にするものじゃないから」
わからないというように首を傾げるシグナを見ながら、ジュリは小さなため息をついた後に笑顔で自身の精霊を抱きしめた。