水の回想・前編
素直に意識を手放すと、頭の痛さは薄らいでいった。その代わり、昔の記憶が少しずつ蘇っていく。
これはずっとシグナが守るように持っていた記憶で、同時にシグナの支配が途絶えたことを表す。それがとても悲しかった。
ああ…そうか
ジュリの代わりにシグナが持っていてくれたもの
そうだったの…
霧の校舎で見た少女も、審判で聖女が現身としていた姿も、今ならよくわかる。
シグナは…
幼い頃、ジュリには兄の他に姉がいた。
兄と同じくジュリの事をよく構ってくれていた。同性という事で、姉とはとても仲が良かったと思う。
「ジュリ!アンタはまたやられっぱなしで!やり返しなさいよっ」
「そんな事出来ないよ…」
薄汚れたジュリの姿を見て、姉が自分の事のように怒る。この村では厄介者扱いのジュリは、水汲みに行っただけで虐められて帰ってくるのが日常茶飯事だった。
「もう!じゃあ私が一緒に行ってやり返してあげる」
もういいから、と言う暇もなく手を取られて家を出てきた。しかしいじめっ子たちの姿はすでになく、姉が喧嘩するのを避けられて内心ほっとした。
「姉ちゃんもういいよ。帰ろ?」
「でもせっかく出てきたんだから、少し散歩して帰りましょ」
二人は手を繋いで少し回り道しながら姉妹の会話を楽しんだ。途中誰かに会っては顔を伏せるジュリを姉が窘める。
「堂々とするの。私達は散歩してるだけでしょ?」
「でも…みんな私が嫌いだから、私の顔なんて見たくないと思うよ?」
「一番そう思ってるのはジュリ自身でしょ。私はジュリが好きだよ、可愛い妹だもの」
確かにジュリは自分が好きではなかった。姉のように利発で優しい、普通の女の子に生まれたらどれだけ良かっただろう。
「ジュリはもっと自分を好きになる努力をする事」
「ええ…?」
「返事!」
「う、うん」
「約束だよ」
ふふっと笑った姉の顔を見ながら、少し困った顔をした。けれどそんな姉の強引な所に助けられている事もあって、どこか嬉しい気持ちもあった。
湖の近くを通り過ぎた時、姉が足をとめて誰かいると呟いた。ジュリもその方角を見ると、確かに誰か水辺に立っているのがわかった。
遠目から見てもすらっとした体型に服装からして男の子のようだった。
姉が無言で近寄って行くので、ジュリも渋々後ろの方からついて行く。男の子は近くまで来るとこちらに気づいたようで、振り返った姿は水色の髪に綺麗な顔立ちの少年だった。
そのまま関わり合いになりたくないようにすぐに去って行ったが、姉はしばらくその場に立っていた。訝し気に見上げたジュリが話しかける。
「姉ちゃん…?」
「かっ…こよかったねえ」
え!?
「見かけない顔だけど療養にでも来たのかしら?こんな田舎、いいとこなんて空気くらいよね。明日も来たら会えると思う?」
どうやら姉はその男の子が気に入ったようだった。
それから姉はひとりでもその男の子に毎日会いに行っていた。大体その湖の近くに座ってぼーっとしているらしい。
「彼ほとんどしゃべらないのよ。名前も教えてくれないし…まあ、そこがいいんだけど」
そこがいいの?
恋する乙女の思考はななめ上過ぎてジュリにはよくわからなかった。
明日はジュリも一緒に会いに行こうと言われたが、正直あまり外を歩きたくなかった。村人と会いたくなかったし、何よりあの男の子がジュリはあまり好きじゃなかった。
なんか…仮面をかぶってるみたいなんだよね
ジュリは顔色で人の気持ちを判断できる特技を持っているが、少年からは何も感じ取れなかった。たまにそんな人間もいるが、何を考えているかわからないので余計怖い。
それでも姉が気に入ったのならそれほど悪い人でもないのだろうなと思った。彼女は正義感の強い女性で、理不尽な事は大人にも食って掛かる。
それで酷い目にもあってきたが、それで改めるという事はなかった。そしてそんな実直な姉がジュリも好きだった。
次の日湖に行くと、あの少年がぼーっと湖面を見ていた。
「こんにちは、今日はサンドイッチを作って来たの。良かったら一緒に食べない?あとあっちの方で、貴方と同じ髪色の花を見つけたの。綺麗だったから後で摘んでくるね?」
姉が一方的に話しているが、彼は特に興味を示さない。目線だけをこちらに向けて、一応話は聞いている様だった。
姉ちゃんはこの人の何がいいんだろ?
昼食には手を付けず、姉とジュリがサンドイッチをもぐもぐと食べているのを横で見守っていた。その後姉が花を探してくると言ってどこかへ走って行った。
え!?待って、二人きりにしないで!?
強制的に二人きりにされて、沈黙が続くとジュリは思い切って話しかけてみた。
「…貴方はどこから来たの?村の人じゃないよね?」
しかし少年は石像のように湖面を見ているだけで、ジュリの問いに答えようとはしなかった。
うう…まあ村の人だったら私の側にもいてくれないだろうから、良かったのかな
ジュリも一緒にぼーっと湖面を眺めていると、会話はなかったが穏やかな時間が過ぎていくのがわかった。
そういえば魔力の事、この人が都会の人ならわかるかな
村人の中に魔力を持った人はいなかった為、偶発的に起こる暴走の制御の仕方を誰にも聞く事は出来なかった。むしろ魔力の事自体、大半の村人は周知すらしてなかった。ジュリの事を魔物憑きなんていう人もいたくらいだ。
「どうして私だけ魔力なんてあるんだろ」
「…魔力」
それは小さな独り言だったが、唐突に少年が反応してこちらを見つめた。そしてずいっと距離を縮めるように近寄ってくる。
「え?あっ…」
「…じっとして」
そうして一定の距離で彼がジュリの手をとると、なぜか両手を合わせてくる。少年の手は冷たくて、間近で見る顔は陶器のようだ。
作りものみたい
手の先からすうっと何かか抜けていくような、何だか気持ちいい。なんで?
身体が軽くなったような、少し疲れたような、けれどどこか心地よいような不思議な感覚に、ジュリは自分の両手をまじまじと見た。
「魔力を循環させて、君の魔力を少し貰ったんだ。その小さな身体に魔力を溜めこむのは負担になりそうだったから」
ジュリは目を大きく開いて、彼を見返した。
「…なに?」
「貴方ちゃんとしゃべれるじゃない。さっきまでずっと無視してたの?」
「答える義務を感じなかったから」
「何それ」
ジュリも普通ではないと思っていたが、彼は根本的に何か欠けているように感じた。つまり彼にとって魔力の事以外は興味なかったようだ。
「貴方も魔力を使えるの?私はこの力の事全く知らなくて、出来れば教えて欲しいの」
「魔力を教える…て?生まれた時から備わってる物だろう?」
うーん…教えてもらう事は無理そうだな
「魔力を減らせば突発的な暴走は防げる。それでよければ協力してあげる」
それでも十分有難かったので、ジュリは彼を見上げてお礼を言う。
「ほんと?ありがとう」
「…いや」
何か言いたげな少年の顔を見ながら、遠くから姉の声が聞こえた気がして後ろを振り返った。
「おまたせ…二人で何か話してたの?」
姉が少し驚いて覗き込んできたが、ジュリは言わない方がいいかなと思った。少年にも魔力がある事が村に広まったら、自分のように虐められるかもしれない。
あんなの、私だけで十分だよ
せっかく会えた同士として、出来れば村の陰湿な虐めに巻き込みたくなかった。
「ううん、何でもない」
「…そう」
ジュリは隠し事があまりうまくないので、家族である姉にはバレたかもしれない。けれど無理に聞き出そうとはしなかった。
ただ少し面白くなさそうにこちらを見ていたような気がした。