木枯しが、窓を叩く夜のこと。
「人を殺してみとうございます」
小説家であるお嬢は、筆を置いてそんなことを言った。大変麗しい唇から紡ぎ出された言葉は不思議な旋律を奏でてるのだから、どうぞ私を殺して下さい、なんて言ってしまいそうになる。
「それはまた、如何して」
平然を装い、お嬢の服などを畳みながら問うてみた。
「わたくしは人を殺したことがありません。では、殺人鬼の気持ちなど到底理解できよう筈もございませんから、わたくしは、書けないのです。きっと理解できれば、書けるはずです。ですから、人を殺してみとうございます。ずっと考えておりましたことです」
最近よく悩んでいるようだと思っていたのだけれど、まさかこんな内容だなんて。
大変驚いたのだけど、かの有名な彼女にお仕えする身として、この程度で驚くのは矜持に関わることだから尚も平然として言った。
「それなら、私をお殺しになると宜しい。私は、貴女の為に居るのですから。」
「それはいけません。わたくしには、お前が必要です。できぬのです。」
なんとお優しい。なんとか弱い。なんと人間らしいのでしょう、お嬢という人は。
人を殺したいけれど、近くに居る人は殺せないだなんて。
「そうしたら、誰を殺されるので?」
「それが、決まらないのです。」
「…なら、孤児でも拾って参りましょうか」
そこらに居る孤児ならば、拾って殺したところで誰も気付かない。気付いたとしても気にする者は居ないだろうから都合良い。
「そう、そうね。…子供を、わたくしは殺すのね。」
「えぇ、そうでございます。きっと殺人鬼の心を、理解できますよ」
畳み終えた服を横に置いて立ち上がる。お嬢の為に、殺人鬼が好みそうな孤児が見つかると良いのだけれど。お嬢は子供を殺すとなって少し俯いているけど、気付かないふりをする。これはきっとお嬢の成長に必要なことでしょう。そして今度生まれる作品は、身の毛もよだつ恐ろしい名作になるに違いない。
「では、行ってまいります」
「…ええ。行ってらっしゃい」
扉を開けて外に出ると、もう夏の香りは残っていなかった。数週間ほど前までは湿り気が残っていた空気も、木枯しと言える乾燥具合になっている。厠の匂いを誤魔化すための金木犀が香っている。鼻の中に甘ったるく残るこの臭いは実はあまり好きじゃない。冬の香りを楽しもうと吸い込んだ空気をさっさと吐き出して小走りに門から道へ出る。歩きながらもう一度、空気を吸い込んで水蒸気たっぷりの息を吐いてみるけれど、まだ白い息の季節ではないみたいだ。然し白い息は出なくても寒いものは寒いので、縮こまりながら貧民の多い所へ足を進めてみる。
しばらく歩いてみれば賑やかですれ違う人も多かった所から一気に人が減った。木枯しの鳴らす寂しさは彩りにはならず、ただ寂しいばかりの道。腐敗した建物の陰に潜む少年少女は痩せこけている。
「ごめんください。どなたか、うちの子になって下さいません?なにぶん、私は子を孕むことができなくって、それでも子供が欲しいのです。衣食住の保証は致します、どなたか、うちの子になって下さいまし」
此処には生きる為に生きている獣しかいない。死んでも良いと思っていたら、とっくに野垂れ死んでいる。だから殺させてくれと言って出てくる者も居ないだろうし、嘘をついた。どうせ直ぐに殺してしまうだろうし問題はないだろう。
「…それ、ほんとう?ほんとうなの?」
美しい白髪の少女が影から出てきた。着物はボロボロで、とても寒そうだ。見ているこちらまで寒気がしてくる。
「えぇ、本当のことですよ。うちの子になって下さるかしら」
しゃがんで目線を少女と合わせ、微笑む。なんとなく殺人鬼が好みそうな少女が引っかかってくれた。間近で見るとさらに寒そうだ。唇は紫になっていて、元々の白さもあるのだろうが肌は血の気が引いて真っ白を通り越し少し青くなっている。
「…うん。わたし、おばさんの子になりたい。あったかいご飯、あるんでしょ?」
「えぇ、えぇ、ありますとも。あったかいご飯と、あったかいお布団が、ありますとも」
然し想定外だった、もっと多くの者が出てくると思ったのだけれど出てきたのは彼女一人だ。他はこちらを警戒した目で見ている。
「わぁい。…行こう?」
「はい、行きましょうね」
拾い物の少女の手を引いて家路を歩く。今晩のご飯は何にしましょう。人を殺すのだ、食欲がわかないかもしれないから、お粥かうどんにしようか。何も要らないと言われるかもしれないけれど、何か食べていただかないとお身体に障る。
それに血などが飛び散るなら掃除もしないといけない、これは大変なことになりそうなものだ。いいえ、掃除はお嬢がやるのかもしれない。だって殺人鬼は片付けまでしそうだもの。
色々と考えながら歩いていると案外早く家につくもので、もう門の前だった。
「此処が、今日からあなたのお家です。改めて宜しくね」
設定を忘れてはいけない、怪しまれて抵抗でもされたら面倒だ。
「うん…」
相槌を打っただけで恥ずかしそうに俯いた。人見知りなんだろう。人付き合いが上手くないから、誰も彼女に『コイツはあやしい』と伝えてやらなかったのかもしれない。なんなら邪魔者が連れて行かれて良かったなどと思われているかも。だとすれば、不憫な少女である。
外よりも幾分か暖かい部屋に入ると、お嬢は驚いた顔でこちらを見た。
「本当に、連れてきたのですか…?」
「えぇ、本当に、連れて参りました」
お嬢の反応に違和感を覚えたのだろう。拾い物が首を傾けて、不安そうにしている。私が羽織っていた羽織をかけてやり、私はお嬢の側に行って耳打ちをする。
「うちの子になって欲しいと連れてきたので、殺されるとは思っておりません。ですから、そのおつもりで怪しまれないよう、お願い申し上げます」
「…わかりました。どれもこれも、わたくしの言い始めたことです。責任を持ちます」
お嬢の返事を聞いた後、不安そうに私が掛けた羽織を握り締めている少女の側に戻った。
「この方は、この家の主です。ですからご無礼のないように」
「ん。…わかっ、た」
物分かりは良いらしく。頷くと直ぐにお嬢に向き直りお辞儀をした。
なんとなく、お嬢がこの少女に情を移してしまうのではないかという心配をして、その少女の手を引いて部屋を出た。
「どうかしたの?」
「いいえ。…ただ、今の装いは綺麗ではないので、お嬢にお見せするのは如何なものかと思いまして。しっかり用意できるまでは別の部屋で待機しておいて頂きたいのです」
「…そっか」
嘘ではない。この汚らしいものをお嬢の前に置いておきたくない。物置に案内し、そこへ放り込んだ。
「此処で待っていて下さいまし。じきにお料理と、着物を持ってきますから」
そんなことを物腰柔らかに言って硬く扉を閉めた。痩せっぽっちの少女にこの固い扉を開けることは出来ない。お嬢の部屋とも離れているから会話を聞かれることもないだろう。殺すのはいつかだとか、どうやって殺すのかだとか、聞いておかなければ用意できない。
「お嬢」
お嬢の部屋の扉を開け、声をかける。
「何かしら」
どうやら小説の続きを書いていたらしく、筆を取ったままでこちらを見ることはない。
「どうやって、お殺しに?」
「…ほんとうに、殺すのでしょうか」
「何のために私が、あれをご用意したとお思いですか」
それは、貴女に殺させる為でしょう。
「そうですね…はい、わたくしが、人を殺したいと申しました。本を書くために、命を一つ、手にかけたいと、申しました。しかと覚えています」
今のお嬢はとても苦しそうにしていらっしゃる。けれども、私は彼女になんとしてもあれを殺してもらわねばならない。彼女の小説を、世界が望むのだから。私が、望むのだから。きっと身の毛もよだつような小説を書いて下さる。
「では、どのように殺されるので?道具を揃えましょう」
私は彼女を援助する。その為に此処にいるのだから。
「では…」
よく見れば拳を握りしめている。緊張しているのだろう、当たり前だ。人を殺すのだから。けれど私は背中を押すことしかするつもりはない。
「鉈を。切れ味の良くない、鉈を、下さいな」
「えぇ!えぇ、ご用意致しますとも!」
やっと腹を括って下さった。殺人鬼になることに決めたのだ、だから態々切れ味の悪い鉈を選んだのでしょう、そうでしょう?小説家のお嬢を見た時の胸の高鳴りを、どう形容いたしましょう。これほどにはない恍惚を、今感じています。
私は早々に近所を周り、新しい鉈を買った。そして切れ味の悪くなった鉈のある家を探して交換してもらう。少し骨の折れる作業だったけれど、お嬢のお手伝いだと思えば苦しみなんて何処にもあるはずがない。
「鉈を、お持ちしました。どうぞお嬢、使って下さいまし」
「はい…どうも、ありがとうございます。」
布に包んで落ち帰った鉈を、お嬢の前に差し出す。受け取ろうとするお嬢の手は小刻みに慄え、血の気が引き真っ白になっていた。お嬢は鉈を落としてしまわないだろうか、心配ではあるけれどじっと見守るだけ、余計な手出しはしない。
「わたくしが、殺すまで…部屋の外で待っていて下さいませ」
「はい、わかりました。私は、お夕飯の準備をして待っております」
お嬢の成長する瞬間を直接みることができないのは残念だけれど、そう言われては仕方がない。私は大人しく台所に赴きお粥の材料を広げた。
お粥の用意が出来上がっても、まだお嬢は部屋に帰って来なかった。これではお粥が冷えてしまうのではないだろうか、作るのが早すぎたのかもしれないと一人反省している。
「殺せました。それはもうきっちり、殺しましたよ。」
やっとお嬢が帰ってきた。お召し物は血で汚れ、ついでに何かわからない液体もついていた。表情は見たことがないくらい暗く、これが成長か、と歓喜を覚えた。
「お疲れでしょう、お粥の用意が出来ていますから、お召し上がりになってお待ち下さい。お着替えをお持ち致します」
血で汚れたままでは汚い。早く用意しなければ。
「…ごめんなさい、食欲が、わかないのです。ですから、今日の晩ご飯は遠慮します」
「それはいけません。お身体に障ります」
「…申し訳ないのだけれど、今は放って置いて下さいませ」
お嬢はこれまでにないくらいに頑なだった。たまには我儘も聞いて差し上げるべきかと思い、引き下がる。
「わかりました。では、明日は食べて下さい」
「わかりました」
次の日にはお嬢はちゃんとご飯を食べて下さった。結局部屋の片付けは私がして、その間にお風呂とお着替えを済ましてもらった。部屋は見るに耐えない有様で、押し切られた肉片からは黄色い脂肪が見えたし、頭が割られ脳味噌かもしれないものが飛び散っていた。残酷な殺し方をしたこと、死んだ後も切り続けたことを物語る部屋であった。
これを掃除したのだ、書かれたものをいち早く読むくらいの報酬があっても良いんじゃないだろうか。今日も今日とていつも通りに、小説を書くお嬢の斜め後ろで洗濯物を畳んでいるけれど、完成したら掛け合ってみることにする。
「書けましたので、これを、中身を見ずに届けて下さいませ」
茶封筒に入れた小説を手渡された。中身を見ずに、そう言われてしまった。掛け合うのは諦めるべきだろう。
お嬢に言われたお使いをこなし、家に帰る。お嬢はいつもの部屋で切れ味の悪い、あの鉈を眺めていらっしゃった。
「お嬢…?どうかしましたか?」
声を掛けて引き留めでもしなければ、すぅっと消えてしまいそうな、そういう雰囲気をしているので、思わず声を掛けた。するとお嬢は、
「えっ、あぁ。どうもしないのです、どうもしないのですけれど、…」
肩をふるわし、驚かれてしまった。そしてお嬢は何やら思い詰めたように言い淀んでいらっしゃる。
「……また、人を拾って来て下さいな」
ふ、と何か糸が切れたようであった。感情の何処かの糸であろう。苦悩の様子が消え、笑っている筈なのに表情がなく、幽霊のようだった。これは、お嬢の成長の瞬間ではなかろうか。その瞬間に立ち会えたという恐悦が背筋を駆け上がり、口角を釣り上げた。
「はい、また、拾って来ましょう」
そうして拾って来たのは少年だった。一人ではやはり寂しそうなので、来てはくれないかと言ってみたら来たのだ。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい。…前と同じように、お願いします」
「かしこまりました」
前と同じように。
言われた通り、前と同じく物置に放り込んだ。痩せているとはいえ少年である、もしかすると扉を自力で開けれてしまうかもしれない。だから鍵までつけてみた。
そして前と同じように、お嬢が殺してる間にご飯を作ったが、お嬢はやはり“気分が悪い”そう言って晩ご飯を召し上がらなかった。部屋の片付けは当然、私だ。
それから頻繁に子を拾ってくるように言われるようになった。
人を殺すようになってから書かれたお嬢の小説は、予想を超えた恐ろしさがあるように思える。一つは殺人鬼の話。もう一つは、幸せな家族が、娘を強姦された事によりその幸せが崩れてゆく過程の物語であった。
どちらも強姦や殺人の描写にリアリティがあり、素晴らしく恐ろしい作品だった。そんな素晴らしい作品に関わっていることに満足感を覚えるが、最近では子を拾うことが難しくなっている。場所を変えてみても、もう拾える子は居なかった。それがどうにも不穏な気がして、引っかかっている。今日はお嬢に子を拾うように頼まれているのに。
でも、まぁ、お嬢はお優しい。帰って来てありのままを伝えると
「そう、それならば仕方がないですね」
と言って笑って下さった。あの感情の糸が切れた笑みで。笑って許して下さった。
ゆらり、不思議に身体を揺らし、立ち上がった。座っている私よりもずっと高くなる。振り子のように弧を描き腕が振り上げられた。その腕の先には、あの鉈。
「今までわたくしに仕えて下さって、ありがとうございました」
今まで?これからも私はお嬢にお仕え致しますのに。そう伝えるために口を開こうとすると、それよりも先に肩がぱっくりと開いた。
叫びが聞こえています。地獄が鼓膜を叩くような、彼女の叫びが。
肩をぱっくりと切り裂かれ、のたうちまわる様子はさながらひっくり返された虫でしょう。
どうして?そう問い掛ける瞳に写るわたくしは、嬉しそうに笑っています。わたくしは笑っているつもりなぞありませんのに。頬は吊り上がってるらしいのです。誕生日を祝われた時よりも嬉しそうな顔で、笑っているらしいのです。
どうして?なんて瞳で問いかけられましても、それが当然の事だから、としか答えようが有りません。
そう、当然だ、わたくしにあんなことをしておいて、今更何かされたから“どうして?”巫山戯るのも大概にして欲しいものだ。貴女は何をしてきた?わたくしに。わたくしが、強姦される少女が書けないことに苦悩しているのを勝手に覗き込み、そして、沢山の男供を連れてきて襲わせた。わたくしが怪我人の描写に悩めば、突然切りつけてきた。暴力的な描写に悩む度に殴り、切りつけ、水に沈め、殺されかけた。何度幸せな物語を書こうと思ったか。然し、それでは売れなかったのだ。売れなければ、生きていけない。
わたくしは味わってきた痛みの分だけ、彼女を切りつけていきました。脚の筋を切り、膝小僧を繰り抜き、時には腹を叩いて。
毎晩々々悪夢に浮かぶ破瓜の痛み、彼女に小説を書いているのを見られること、また突然強姦でもされるのではないか、殴られるのではないか、切りつけられるのではないか、水に沈められるのではないか、そういった恐怖。
感情をぶつける度に彼女は肉片と化していった。わたくしは今、狂喜に満ち満ちています。
鉈を振り下ろす度聞こえていた叫びはいつの間にか、わたくしの笑い声に変わっていて、目の前の肉片はもはや痙攣するだけ。
こうすれば良かったのだ、もっと早くに。
少女は笑い声を響かせながら、死体になった仕いの者を切り続け、最後には雄叫びのような笑い声を上げて死んだ。
木枯しが、窓を叩く夜のこと。