第六話 深淵との邂逅
衝撃の土下座から30分。
僕と杠葉さんは、公園のベンチに座っている。
互いに黙り込んだまま、30分経ってしまった。とても気まずい。
出鼻をくじかれたと言ってしまえば、彼女のせいにしているみたいだ。
雨の匂い。夜空は僕の気持ちを表したように、今にも泣きそうな顔している。
チラつく公園の街灯には、羽虫たちが群がっている。
僕も輝きという目的に向かって飛ぶあの羽虫たちのように、真っすぐ素直に自分の気持ちを彼女に伝えられたら、どれだけ楽なんだろうと思う。
僕は首を横に振る。
僕は昨晩の失礼を謝りに来たんだ。彼女が謝る必要は何もなかったはずだ。
ここは素直に言おう。というか、そろそろ楽になりたい。この沈黙には耐えがたい。
「……杠葉さん。その、昨晩はすみませんでした。勝手なことを言ってしまって」
彼女は隣でピクリと肩を揺らした。
こちらに耳を傾けてくれているようで、少し安心した。
胸につっかえていた小枝のような思いが流れ出すと同時に、その波に任せて言葉は自然に後を追う。
「苦しいことも怖いことも全部自分で抱える杠葉さんを見てられなかったんです。ボロボロになって壊れてしまう前に、休んでほしかった」
話すことはなにも考えてなかったけど、言葉は割とすらすらでてきた。でも、妙に喉が乾く。
彼女に動きはない。
「でも、僕は何も知らなかった。だから、杠葉さんを傷つけてしまった。一生懸命なアカリさんやそれを支えるファンの人たちを悪く言ってしまった」
本当にごめんなさい。
そう言って僕は頭を下げる。これが精いっぱいの謝罪だった。
何も取り繕えなかった。
取り繕えるはずもない。だって僕が言ったことは本当に最低のことなんだから。
「……ナナシさん。顔を上げてください」
杠葉さんの静かな声。こんな謝罪ではダメだっただろうか。何を言われるだろうか。
そんな一抹の不安を抱えたまま、顔を上げる。
その口元は柔らかに笑んでいた。
予期せぬ表情に僕は戸惑ってしまう。
「あの……わたしこそ、本当にごめんなさい」
彼女は頭を下げた。さらりとした黒髪が重力に逆らうことなくうなだれる。
「やめてくださいよ。どうして、杠葉さんが謝るんですか? 悪いのは僕なのに」
「……」
彼女は黙ったまま、頭を下げ続ける。
どうして、そうやって全て自分で抱えてしまうんだ。
僕は苛立ちから、彼女の肩を掴むとその顔を上げさせた。
その潤んだ瞳と焦点が合う。こんな時なのに不思議と思ってしまう。やはり彼女には涙が良く映える。
「す、すみませんっ」
はっとして、慌てて掴んだ肩を離す。
「いえ……」
杠葉さんは指で涙をすくう。それから咳ばらいを一回。
「……わたしもごめんなさいなんです。わたし、ナナシさんに当たってしまいました」
「当たる?」
小さく頷く。彼女の髪が覆い隠し、横顔から表情は読めない。
膝の上で右手を抑えている姿に、僕の頬は疼いた。
もしかして彼女は僕をぶったことを気にしているのか?
「いやいや、僕が馬鹿だったんですっ。ぶたれて当然ですって」
彼女は頭を左右に振る。
「……本当はわたしだってわかってるんです。わたしのセンターに否定的なファンがいること」
僕は何も言えなかった。
握手会の会場で聞こえた声を思い出した。そして、ハジメさんの言葉も。
ペンタグラムにはリーダーであるアカリさんが不動のセンターだった。しかし、6枚目のシングルにして初めて、それを塗り替えて杠葉さんがセンターになった。
一番人気でもあったアカリさんには太いファンもいる。その人たちからしたら気に食わないことだったのだろう。
「それでもそれを応援してくれている人たちがいました。仲間がいました。アカリさんだって自分のことのように喜んでくれました。わたしはその声に笑顔に応えたくて、弱みを見せたらすぐに全部壊れてしまいそうで。頑張っているつもりでした。でも……」
ナナシさんには無理してるのバレてたみたいですね。
彼女は照れたように笑った。細めた目の端は少し濡れていた。
「あの時それを見透かされて、本当のことを言われて、ついかっとなっちゃって。ナナシさんを叩いちゃいました。本当に、ごめんなさい」
彼女はもう一度頭を下げた。
ようやくお互い素の状態で分かり合えた気がした。
恐怖や苦痛を隠して笑うアイドルに、自分の名前も記憶もないしがないシニガミ。
案外僕らは気の合う同士なのかもしれない。
「僕のことなんて、いくらでも叩いてくれていいですよ?」
「え?」
杠葉さんは顔を上げた。
「ストレス発散に使ってくださいよ。体が丈夫なことだけが取り柄なんですから」
嘘は言っていない。シニガミは死なない。たぶん。
僕は精いっぱいの笑顔を作る。うまく笑えているかな?
「―――ふふっ。本当にいいんですか?」
そして彼女の表情に数えきれない星が弾けた。初めて彼女の本当の笑顔を見れた気がした。
涙が良く映える顔だというのは訂正しよう。
やはりアイドルは、女の子は。笑っている時が一番輝いている。
そして、タイミングを見透かしたように空はぽろりぼろりと雨粒を落としてくる。
「降ってきちゃいましたね」
彼女はそれに気付くと両手で粒を受け止めている。
ずっと降りそうな匂いはしていた。空気の読める雲でなによりだ。
「杠葉さん。とりあえず、今日は帰りませんか?」
僕はベンチから立ちあがると彼女に手を差し伸べる。
その手を握ると、彼女は驚いたように眉を上げた。
「ナナシさん、手冷たいですね」
「え、そうですか? 冷え性なんですかね」
少し焦った。すでに死んでいる僕は多分体温が低いのだろう。
手を取り彼女を立ち上がらせる。
「ナナシさん、わたしより年上ですよね? わたしのこと下の名前で呼んでくださいよ」
「え、いや、でも。依頼人ですし」
「じゃあ、依頼人からのお願いです」
「いや、でも……」
「ヒヨリって、呼んでください」
下から僕を覗き込む。彼女のその期待に満ちた視線に顔を背けた。
依頼人がそういうなら仕方ないか。
「……ヒヨリ、さん」
「ヒヨリ」
呼び捨てにしろと?
「ヒヨリ、ちゃん」
「ふふっ。それで許してあげます」
彼女は楽し気に笑う。悪戯好きな泣きぼくろ。
なんだろうこの言いようのない、こみ上げる恥ずかしさ。
僕は握手会でデレデレしてたファンの顔を思い出す。僕今だらしない顔してないだろうか。
彼女といるとどうもリズムを崩される。
やはりアイドルというのは末恐ろしい。惹きつけられるのは人もシニガミも変わらないということか。
【空気が凍った―――。】
降り出した雨の粒が、宙で停止。
悪寒。違和感。背筋をなぞる感じたことのない寒気。
その灰色の視線に気付く。
街灯の下に黒い影。いや、黒いローブを着たナニか。
フードの奥にある表情は見えない。黒い煙のようなもので靄がかっている。
当然、影もない。足も見えない。浮遊している。この世ならざる独特の気配。
その一瞬だけは呼吸さえできなかった。
止まった時が動き出す。
雫が砂を打ち付ける。雨脚は強くなる一方だ。
「なんだ……こいつ?」
口からそんな疑問が零れる。
僕はこんな存在を知らない。明らかにナキカゲとは異なる存在。何より、ナキカゲは白装束だ。
じゃあ、この異様な気配を漂わせるこいつは何者だ。
「ナナシさん?」
隣でヒヨリちゃんが僕を心配そうに見つめている。
僕は息を呑む。彼女の肩を抱くと僕の体へと引き寄せる。
「あ、あのあの、な、ナナシさんっ。どうしたんですかっ?」
その様子からするに彼女に多分、あいつは見えていない。
「ヒヨリちゃん。僕から離れないで」
僕は懐からマグナムを取り出す。その銃口を黒ローブに向けた。
隣で言葉を失う彼女の表情をちらりと見た。
人に見せていい代物ではないかもしれないが、背に腹は代えられない。
それにこいつはすんなり帰してくれない。
初対面だが、そう思わざるを得ない。肌にピリピリと伝わる憎悪。
シニガミとしての本能が言っている。こいつに容赦する必要はないと。
僕は撃鉄に指を掛けると、ゆっくり起こす。黒ローブはまったく動く気配がない。動かない的なら僕にだって当てられる。
迷わず引き金を引く。
乾いた音がこだまし、黒ローブは打たれた衝撃でよろける。
少し待つ。だが、何も起きない。
どういうことだ? 弾丸は確かに命中したはずだ。
二発目、三発目。続け様にお見舞いする。
しかし、何も起きない。
「なんで……」
僕は呆気にとられる。弾丸が効かない?
この銃と弾丸は、魂を成仏させるために僕らシニガミが愛用している物だ。
今まで一度だって不良してたことはない。
死者でも魂でもないというのか?
こいつは、この化け物は。本当に何者なんだ。
『――――――っ!!』
ヤツは言葉にならない慟哭を発した。
次の瞬間感じた殺気。こちらに向けられた攻撃の意思。
砂をかき上げ、雨を押し除け、凄まじい勢いでこちらに向かってくる。その姿は獰猛な獣のようだった。到底受け止めることは不可能。
咄嗟にヒヨリちゃんの体を抱きしめると、真横に飛び込む。
まるで電車が隣を通ったような風圧。ベンチが歪み軋んで形が崩れる音。
彼女の頭を守りながら受け身をとる。間一髪で回避に成功した。
宙を舞ったベンチは地面に叩き叩きつけられた。
一体どんな物理法則ならそんな歪み方するのかわからない。ベンチはただのプラスチックと鉄の塊へと変化していた。
こんなものをまともに受けてたら、僕らはきっと跡形もなく潰れていただろう。
その様を見たヒヨリちゃんは口元を押さえている。ようやく自分の置かれた立場を理解したらしい。といっても、理解したところでヤツの姿は見えていないのかもだけど。
黒ローブは僕らの方を見ると、ふらりふらりと近づいてくる。
とにかく、今は逃げるしかない。
そう判断した。というか、その一択しかなかった。
僕のジャケットを力一杯握る彼女を引き起こす。じわりと近づいてくるヤツに背を向けないように、公園の中央に向かい、ゆっくり距離をとる。
かちかちと弾倉は空回り。弾切れだ。
牽制のために残弾三発を打ったが、よろけるばかりでちっとも役に立たなかった。
どうする? 考えろ。
最悪僕はどうなってもいいが、ヒヨリちゃんだけはどうにかしてでも逃さなくてはいけない。ならば、僕がとる行動は一つだけになる。
「ヒヨリちゃん、僕がヤツを押さえてる間に逃げて」
「え、ヤツって?」
「ヒヨリちゃんには見えてないだろうけど。悪霊が襲ってきてる。だから逃げてっ」
彼女は戸惑った表情。当然だ。こんなこと言われたところで理解は追いつかないだろう。まあ、分かってもらえるとも思ってはいない。
「でも、ナナシさんを置いてなんていけませんっ」
「大丈夫っ!」
僕は珍しく声を張った。虚勢でもなんでもいい。彼女を守ることが最優先だ。だったら、勝ち目のない勝負にだって笑ってコールするさ。
「僕は死なない。君のボディーガードを信じて」
僕は力の限り口角をあげる。彼女の瞳をまっすぐ見る。
そして、彼女は頷いた。だから僕は決意した。
ヤツがもう一度ふらりと距離を縮めたその瞬間、僕は彼女の背中を押し出した。
それと同時に僕は走り出す。
黒ローブの胴回りに抱きつく。やはり中身はないらしく、抱きついてるのに肉を掴んでいる感覚はない。
『――――――っ!!』
言葉にならないヤツの叫び。
煩わしい僕を振り解こうとしているのが分かる。
右に左に体を何度も何度も振る。終いには自ら回転し始めた。
僕の体は遠心力に支配され、足は体は浮き上がる。物凄い勢いで回転するジャングルジムにしがみついてるようだ。
次第に弱まる握力。とうとう僕は手を離すことを余儀なくされ、吹き飛ばされた。
地面に打ち付けられ背中を強打する。呼吸は一度止まる。
シニガミなんだから痛覚ぐらい取り除いててくれよと本気で思った。
瞬きした合間。ヤツは目の前に居た。
僕の顔を覗き込んでいる。やはりフードの奥に表情はない。呑み込まれそうな深淵が覗いているだけ。
「ぐっ―――!」
首を締められている感覚。
僕の首元には黒い煙のようなものが渦巻いている。
足掻くがその手は振り解けない。なんて馬鹿力。
首を締められたまま、僕の視界はどんどん高くなる。足も地面を離れ宙ぶらり状態。軽々と僕を持ち上げている。
息が、できない。
僕は死んでしまうのか? というか、シニガミなのに死ねるのか? 窒息死は未だに体験してない。
意識が遠のいていく。顔に触れる雨粒が心地良い。
視界が霞む中、幻覚が見えた。ヤツのうしろ。
ウサギだ。
僕は唇を強く噛んで、意識を呼び戻す。
鈍く細く光る、決して色褪せない銀の毛並み。
どこまでも透き通った寂しがり屋な紅玉が二つ。
「―――ったく。遅せえよ。先輩」
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