プロローグ きっと僕らに救いはない
春の夜は青かった。
くすんだ灰色の立体駐車場。僕は走っていた。
動いているはずのない心臓が、必死に息をしている。
悲鳴をあげる太ももは今にも引きちぎれそうだ。
僕はなんでこんなことをしているんだっけ?
シニガミとして生まれて1ヶ月。
気付けば僕の日常はシニガミ業一色。慌ただしい毎日だ。
生前の記憶はないが、いわゆるブラック企業と言われる業態で働くということは、こういうことなんじゃないかと最近強く思う。
場内の蛍光灯が不気味にちらつく。その刺激的な光に群がる虫たちは、踊っているように見えた。
駐車スペースの削れた白線を何本も走り跨ぎ、角を曲がる。
「追いついた……」
僕の目は捉えた。素足に白装束姿をした男の背中を。
僕が走り回っている理由。それはこの男を捕まえるためである。
「待ってくださいっ!」
僕はその背中に呼びかける。
息苦しい。貴重な酸素を吐き出してしまった。
息ができるのが、こんなにも煩わしいとは思ったことがない。
「い、いやだぁっ! オレはまだ逝けないんだぁっ!」
こちらを振り向くことなく、男は言い放つ。
背中越しでも分かる。絶対に捕まりなくない。
こちらの要求には、断固として応えてくれない意思。
「……くそったれめ」
僕はそんな小言を漏らす。
首元を締める黒無地のネクタイを緩める。
シニガミの正装が喪服なんて誰が決めたんだ。
革靴は馬鹿みたいに走りにくいが、スピードが落ちないように足を上げ続ける。
彼の息切れが近づくにつれ、ジワジワと距離が縮まっていくのが分かる。
霊体とは言え、彼の足にも体力にも限界はある。
そして、長かった彼とのチェイスに終わりが近づく。
「待ってって、言ってるでしょうがっ!」
背中に手が届くと確信したとき、僕は彼の背中に飛びついた。
当然ように、バランスを崩した僕と彼の体は転げ回る。
二回転半ほどして、地面に打ち付けられた。
僕らは立てないまま仰向け状態になる。
肺は激しく上下している。僕は息を整えることに専念した。
「くっ、くそっ……。ま、まだだぁっ」
男はまだ逃げようとしている。
おいおい、勘弁してくれよ。少しは休ませてくれ。
白装束を身に纏い、頭には三角の布を巻いた男。
見た目は「うらめしや~」のそれである。彼がこの世の者ではないことは、一目瞭然だ。
目つきの悪いその男は、ふらふらと立ち上がった。
「逃がすかっ」
僕は咄嗟に、男が走り出す前に捕まえることにした。
両脇の下から腕を通し、羽交い締めに成功する。
「お、おいっ! 離せよっ! おいっ!」
「だからっ! は、話聞いてくださいって、言ってるじゃないですかっ!」
「いやだぁっ! 死にたくないっ! オレはまだ死ねないんだっ!」
「いやだから、もう死んでるって言ってるでしょうがっ! ちょっとは落ち着いてくださいよっ」
ジタバタと暴れて回る男。無駄に長い髪が僕の顔に張り付き、とてもうざったい。
気が動転しているのか、僕の話をまったく聞く気がないようだ。一体どうしたらいいんだ?
すごく泣きたくなってきた。
『ナナシ君、聞こえるかい? 対象者は捕まえられたかな?』
その時、頭の中に直接声が届いた。
よく通る男の人の声。ハジメさんだ。
僕は安堵する。
『ハジメさん、遅いですよ。もう、暴れちゃって。僕だけじゃどうしようもないですよ』
『いやー、ゴメンゴメン。ちょっと道に迷っちゃってさ。でも、そろそろ見えてくると思うよ』
僕が男を抑えながら、流れてくる声と会話していると、バリバリと乾いた音が場内に響き、それは近づいてくる。
そして次の瞬間、角からけたたましいドリフト音とともに、ヘッドライトが飛び出してきた。
こちらに向けて真っ直ぐに、エンジンを掻き鳴らしながら近づいてくる。
月夜に映える真っ赤な切れ味のあるフレーム。バイクの上に、人影は2つ。
前にはビーチサンダルを履いたフルフェイスにラフな格好の男。ひらひらとこちらに手を振っている。
そして、後ろには二つ結んだ横髪をたなびかせ黒服に身を包んだ銀髪の女。ヘルメットは被っていない。
正面から見たそれは、まるでバイクから翼が生えているかのようにすら見える。
『……ナナシ。そのまま、動かないで。』
芯の通った綺麗な女性の声。メイだ。
随分、無理なことを言ってくれる。
『動くなって言ったって、こんなに暴れられたら……』
『―――大丈夫。』
僕の弱音をバッサリと切り捨てるように、彼女は告げる。
『一瞬でいい。一発で、決めるから―――。』
目と目が合った。気がした。
多分気のせいだ。この距離がそれを物語っている。
でも、彼女がそう言うからには、そうなのだろう。
それを信じる根拠はない。ただ、僕が一秒時間を稼ぐのに迷う理由はなかった。
足に腰に腕に奥歯に。僕は残り少ない余力を込める。
横目でちらりとバイクの方を確認した。
メイがエモノを構え、スコープを覗き込んだのが分かる。
小柄な女性には似つかわしい銀色のマークスマンライフル。
その銃口はこちらに一直線に向けられた。
『―――きて。』
彼女の小さくも力強い声を合図に、僕はバイクの方へ男の体を向ける。
それからたった一度だけ、銃口の先が瞬いた。
月明かりがその軌道を照らす。点と点が繋がり、直線上に存在する男の眉間を、脳天を撃ち抜く。
そして、乾いた銃声だけが、僕の後ろを通り過ぎて行った。
彼女は見事に一発で仕留めてみせたのだ。
先ほどまで暴れていた男は、嘘のように静かにぐったりと僕にもたれかかってくる。
頭からは血なんて無粋なものは流れてこない。
当然だ。彼はもう死んでしまっているのだから。
刹那、男の体は白い光に包まれる。
「……そうか、オレ。死んだのか」
唐突に。自分に言い聞かせるように。全てを悟ったように。彼はぽつりぽつりと言葉を落とす。
さっきまでは、想像できなかったほどの落ち着きっぷりだ。
「ええ、残念ながら」
僕はそう返す。
随分と寂しい感じはするが、何度もこの光景は見てきた僕には気の利いた台詞なんて出てこなかった。
ただ何度味わっても、この瞬間だけは未だに慣れない。
ヒトが本当に消えてしまう瞬間。
「なあ、アンタ。一つだけ、聞いてほしい頼みがあるんだ」
「……」
僕は黙りこくる。
冗談じゃない。死人が最後に頼むことなんて、どうせロクなものじゃない。
自分勝手なことを押し付けてくるに決まっている。
「オレさ。彼女がいるんだわ」
男はぐったりと僕にもたれかかったまま、勝手に話し始めた。
僕は頼みを聞くなんて、一言も言っていないのに。
「プロポーズしようと思ってた。指輪も買ったんだ」
彼は俯きながらそんなことを言う。
やはり、ロクでもない頼みだ。
どうせ、代わりに伝えてくれとか渡してくれとか、そんな類。
僕に頼んでも仕方のないことだというのに。
「あのさ。指輪、捨てといてもらっていいかな?」
男はそう吐き捨て、僕に振り返り微笑みかけた。
急に彼の体が重くなったように感じた。眉間にシワが寄るのが分かる。
「自分の惚れた女には幸せになってもらいたい。女々しい男の、ただ一つだけの願いなんだ。頼むよ」
僕はそれでも何も答えられなかった。
唇を噛み締める歯に力が加わる。
その願いを叶えることは多分、出来てしまう。
でも、あまりに自分勝手な願いだ。好きな人の幸せを願い、消えていく。アンタ本当にそれでいいのか?
自分の口で伝えなくていいのか? 残された人はどうなるんだよ。
そんな残酷な願いが、願いであってたまるかよ。
言いたいことは腐るほどあった。
それでも……。それでも。
それでも。それは、できないんだ。
なぜなら、死んでしまっているから。
「跡形もなく、粉々にしておきます」
精一杯絞り出した言葉がそれだった。もっと優しい言い方もあっただろうに。
僕は優しくない奴だ。
『ありがとう、優しいな。アンタ』
酷く目の奥が痛んだ。喉が焼けそうになった。
男を包んでた光は、淡く深い青色へと変わる。
その光はやがて、無数の蝶々へと羽化した。
僕を包む優しいその青は、僕の中に彼の記憶を流し込んでくる。
なんの不自由もない家庭に生まれ、思春期には普通にやさぐれ、仲間とバンドをやっては売れない日々。
そんなアスファルトみたいな人生に、咲いた一輪の花に恋をして、それを守るためだけに奮闘した賭け替えのない人生。
その尊くも儚いありふれた人生に、一体誰がケチを付けられるだろう。
これからも続いていくはずだった物語。その一部始終を僕は垣間見た。
無数の羽ばたきは僕の手のひらに収束し、一つの薬莢に成り果てる。銀色だ。
ふわりと僕の横を白い蝶が通り過ぎる。
その羽ばたきは、暗い夜空の星たちの中に溶けていってしまった。
手のひらで冷たく横たわっている薬莢に目を移す。
魂とその記憶を分け、まっさらな魂を輪廻転生の輪に返す。
これが、僕らシニガミの仕事。
ヒトが死んだ後にしかできない、死事。
迷える魂に救いを与える僕らに、きっと救いはない。
『ナナシ君。干渉に浸っているところ、ごめん』
ふと、ハジメさんの声で呼び戻される。
そういえば、ハジメさんとメイにはお礼を言わな―――。
僕の世界は逆転する。視界は上下左右を繰り返していた。体は宙を舞っている。
『なんか、ブレーキ調子悪いんだよね。止まれなかったわ』
うっすらとそんな声を拾ってしまう。
そして、僕は静かな春の夜にそっと目を閉じた。
絶対、化けて出てやる。
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