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3☆都合良く絶望に陥る

『よぉ、人間ども』


 蠱惑的な、妙齢であると感じさせる女性の声。

 ただその声のプレッシャーは尋常ではなく、脳に直接語りかけているのではないかと思わせられる程の重圧を抱えていた。


 聞こえてくる声に視線を向けると、その主は教壇の上、僕から見て黒板に重なる位置に、寝そべるように浮かんでいた。


『全員おるか?』


 金色の髪に、やけに露出の多い黒布の衣服。

 アラビアの踊り子ならばきっとあんな服装をするのだろうか。

 実際のとこは知らないが、二次元の話であればそんな立ち位置の格好だった。


 その姿は非常に扇情的ではあったが、欲情するような余裕の持ち主は誰一人として居ない。


 代わりに感じるのは命の危機だ。

 腰が抜けているクラスメイトも、既に何人か現れていた。


『全員おるのか、と妾は聞いたのだが』


 威圧感が教室を満たす。

 見えない掌に心臓を握られているかと思うほどに息苦しく、手先が冷える。


 彼女の言葉が頭に入ってこなかった。

 質問と思われる、その言葉に答えなければ不味い、とは分かるのだが、頭が全く回らない。


 ヘドロみたいに重い空気が、僕の耳を塞ぎ、脳を犯してくる。


 質問が、言葉が、理解できない。


『おい。誰か喋れよ』


 僅かに怒気を含むその声が聞こえた直後。


 唐突に僕の背後で、まるで巨大な槌を振り落としたような、低く響く衝撃音が空気を切り裂いた。


――こんな音を工事現場で聞いたことがある。


 何故そんな音がこの至近距離から鳴り響いたのか、という疑問と、何がその音を生み出したのか、という疑問が同時に頭を支配した。


 だがそれ以上にその音の中に混ざった、何か柔らかいものを引き潰す不快音の正体が、僕には気になって仕方がなかった。


 その音を聞いて思い出したのは、昨日食べた鶏肉の味と、咀嚼の度に脳に伝わる振動だ。


 恐る恐る振り返ると、そこには。


 平らに潰れた肉塊と、鮮血、不自然に集まった黒い糸状の何かが落ちていた。

 その真下の床には円状の罅が入っている。


――誰かが死んだ。


 身体の原型は全くなく、顔の判別など微塵もつかない。ただ肉に混じって真っ赤に染まる制服は、男のものだった。


 誰かが吐く。

 胃酸特有の、鼻をつく臭いが教室を満たす。


 状況は悪化は悪化する一方だった。


『――無視しているのか?妾の問いを。答える価値が無いとでも言いたいのか、ヌシら』


 黒板の前に浮くその女は、面倒、とでも言いたげな表情を作った。

 その顔を見て、この女は全員を殺すことになんの躊躇いもないと、ハッキリと自覚させれる。


――理不尽が過ぎるって。


 奴が微粒子レベルで僕らに向けていた興味が消えていく。

 この女の認識の外に追いやられたときが、僕らがこの世から捨て去られるときだと、身体が勝手に理解した。


『妾とて忙しい。会話も出来ぬ脳無しの猿に使う時間は無い――「いますよ」


 一人のクラスメイトが、答えた。

 青い髪の女の子だった。


「全員、います」


 心臓が煩い。

 呼吸が荒くなる。


『…………』


 間。


 その一瞬が、僕には永遠にすら感じられた。


『……ふむ。次は一度で答えよ』


 どうにか、赦された。


 泣き出している人間すらもいるこの状況で、彼女の肝の据わり方は普通ではないが、とにかく今この瞬間は救われた。


『さて、妾がこの場を訪ねたのは他でもない。貴様らを妾の世界に招待しようと思い立ってのことじゃ』


 妾の世界――という言い回し。

 この女はどこかの世界を所有しているのだと察しがつく。


 理解は出来ないが、嘘にも思えない。

 今の状況自体が僕の理解の範疇を大きく超えている以上、奴の言葉の真偽を判断するのは難しかった。


 今僕に出来るのは、奴の怒りを買わないように、情報を集めて、生き残ることだけ。


『良いところじゃぞ、妾の世界は。争いは絶えぬが――まぁ退屈はせぬだろうて』


――争いの絶えない場所に行きたいわけ無いだろうが。


 まだ舌も喉も乾ききってぎこちないが、どうにか声は出せるようになった。

 僕はまず、対話を試みようと考える。

 このままだと、僕らにとって良い方向に話が進むことは無い。


「……一つ、お聞きしたい、のですが。構わないでしょうか」


 彼女の瞳がギョロりと動き、僕に向いた。

 プレッシャーが増したのが分かった。

 全身の産毛が沸き立つ。


『…なんだ、貴様も喋れるのではないか。あぁよい、よい。話せ』


 身体の震えを押さえ込み、無理やり喉を震わす。


「は、い。その、世界に招待というのは、強制なのでしょうか?残りたい者は、残れるのですか?」


『残りたい、とな。ヌシは妾の世界に来たくない者がこの中におると、そう申すのか』


「……いえ、そんなつもりは」


――不味い。


 いきなり地雷を踏んだか、という焦りが僕の背中を這いずり回る。


 女は空に浮いたまま身体を動かすと、脚を組んだまま背を反り、座るような姿勢を取った。


『とはいえ強制ではないがな』


 背伸びをしながら伝えられたその言葉に、皆が安堵するのが分かる。


『では問うとする。ここに残りたいモノは手を挙げよ。そのモノらはこの場から除いてやろう』


「除く」、というその言い回しに不穏なものを感じたが、それを尋ねる程の勇気は僕にはなかった。


 手を挙げたのは約半数。

 僕もまたその中の一人だ。


 だがこれで無事に家に――


『ふむ。では汝らは屍としてこの世界に残るとよい』


――は?


『一秒やる。心の準備を済ませよ』


――は?


『一秒経った。では死ね』


「ま、、待て!!!」


 咄嗟に出た一言だった。

 何が何だか分からない中で、喉の奥から漏れ出すように溢れた叫びだ。


 だがこの一言は絶望的に、圧倒的に、救いようもないくらいの「ハズレ」だったのだと、すぐに思い知らされる。


 女の首がほんの一瞬で、僕の方へと向いた。

 女から目を離したつもりなど全く無かったのだが、いつの間にか、気付いた時には僕らの視線は交差していたのだ。


 血走った赤い瞳。

 大きく開いた瞳孔。


 明らかに、僕は女の逆鱗に触れていた。


『「待て」……だと?今の言葉、ヌシか?妾に「待て」と、命令したのか?……人間。おい、お前だ人間』


 頭がふらつく。焦点が定まらない。


 その怒気に、僕はつい顔を逸らしてしまっていた。


『妾の目を見て話せ』


 しかし次の瞬間には、僕の目前に荒れ狂う二つの眼球が現れた。

 鼻先がぶつかる程近くに、女の顔。


――瞬間移動?


「ヒ、ハ……?」


『妾は先も言うたはずだ。妾の問いには一度で返事をせよと』


「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」


 冷静、などという概念は僕の中に1ミクロンも残されておらず、ただどす黒い恐怖の色だけが濃密に心を蝕んでいた。

 ごめんなさいと叫びつつも、僕の言葉に文字通りの反省の意思は込められていない。

 ただ許してくれ見逃してくれという、ひたすらの懇願だった。


『ふむ、失言対して速やかに謝罪。実に良い。その態度に免じてヌシの手相を見てやろう』


――手相?


『なんだ、随分と立派な生命線を持っているではないか。ゴキブリか何かか?ヌシは。んん、それに女と添い遂げるのはまだ先だが、出会いは近くに転がっていると出ているのう。あぁ実に残念じゃ、妾と出会わなければ、ヌシは幸せな未来を歩めただろうに』


 まだ俺は手の平を見せたつもりはないのだが、女はつらつらと結果を述べていった。

 一体どうやったのだろう――と、疑問は疑問として完成するまでもなく、解決した。


 奴は既に右手を持っていた。

 手首で切り落とされた、()()()()を。


「え?」


 僕の下の方から、ボタボタと液体の落ちる音がした。水にしては重い音。跳ねた液体がズボンに張り付くのが分かる。


 ほんの少しの時間見つめただけだったが、女は満足したのかその右手を『ほれ返す』と言って投げ渡してきた。

 それが床とぶつかり、また僕の足元に鈍い音をたてた。


――え?


『次は、そうじゃのう』


 だがそれで終わりではなかった。

 気付けば女は右手とは別の肌色の物体を手にしていた。

 今度は細長く、大きな手羽先みたいな何か。


『ヌシ相当鍛えておるな。人間にしては良い肉をしている。ただ普通に鍛えたと説明するには違和感のある肉の付き方じゃが、一体普段何をしておるのだ?』


 それは手首を失った、腕だった。

 肩口から手首まで、たった一つの関節を含む、僕の右腕。

 息をつく程に綺麗なその切り口は、どんな業物を使えば成し得るのか想像もつかない滑らかさを持っていた。


「あ、、あ……」


 身体のバランスが取れない。

 世界が傾いていく。


『かかっ、脆いな人間。苦しいか?それとも何も感じんか?』


「ハッ、、ハッ…ヘ…」


『どうせすぐに死ぬだろうが、今すぐに楽にしてやってもよい。選ぶか?』


 床に這う僕を見下すように、しゃがんで僕の顔を覗き込んでいる女の姿が見えた。

 視界がボヤけるが、その貼り付いたような笑い顔だけはよく見える。


 動揺のせいか、痛みはなかった。


『喋る余裕も無いのか……つまらん』


 そう呟くと女は僕の腕を捨て立ち上がり、僕から視線を外して他の人達に目を向けた。

 既に倒れ伏す僕に、興味は無くなっていた。


『おいそこの人間。女』


 奴が声を掛けたのは葉々下さんだ。


「は、はい。なんでしょ、なんでしょうか」


 彼女もまた恐怖に飲まれている。


『妾も少し飽きてきた。一々尋ねるのも気が滅入る。もうヌシが決めろ。全員来るか、全員死ぬか』


 女のその言葉を聞いて、僕らには初めから拒否権など無かったのだと気付いた。

 わざわざ希望をチラつかせた無意味な発言に、心底イラつかされる。


 葉々下さんは周りを見渡した。皆の意志を聞くように、あるいは了承を得るように。

 葉々下さんと目を合わせる人は居たが、誰も明確な意思表示をする余裕はなかった。

 そして最後に、葉織さんの視線が床に倒れ伏す僕に向いた。


 僕は頷いた。「行け」という意味を込めて。

 彼女のその眦には、今にも溢れだしそうに涙が溜まっていた。


「……全員、行きます」


『よかろう』


 暴風が吹き始めた。


 それはまるで唐突に台風が現れたかのようで、その風圧と轟音に僕らの声は届かなくなる。

 教室の中心に巻き付く風が、机と椅子を跳ね上げた。


 僕自身もまた、机椅子と同じように浮き上がりそうになるが、何か不思議な力で床に押さえつけられ、何故かその場に留まることが出来た。


『ヌシらを連れ出す理由は、あちらに着けば分かるじゃろう。あの世界では誰もが求めていることがある。だがそれに従うかどうかはヌシらの自由じゃ。妾も特に手を出さぬ。好きに過ごせ』


 床に、白銀に輝く魔法陣が現れた。


『せいぜい良き旅路を歩め。各々楽しむことじゃ』


 僕らの視界は真っ白に――――


――――――――――――――


「あ、ちょっと待ってください。ストップです」


 荒れ狂う風が、眩い程に輝く魔法陣が。何もかもがその場で停止した。

 宙を舞う椅子は一切の力を失ったように空に固まり、風に靡く女生徒の髪は針金と見紛うくらいの違和感を持って、上に毛先を向けている。


 ようするに時間が止まった。


――いやいや、私の主人公を勝手に異世界に連れていかれたら困りますから。


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