2 智朗、変わり果てた妹を見てくずおれる。そして妹から拒否される。
「悠!」
妹の名前を叫びつつ、部屋へと飛び込んだ。
パイプ椅子に座る医者らしき男と目が合った。
医者の目の前にはベッドがあり、ベッドの掛け布団が盛り上がっていた。
まさか。
再び医者と目が合う。すると医者は申し訳なさそうに目を下へとそらした。
そんな馬鹿な。
どうして悠が。
悠には人の居ないところに行くなと教えたし、今学校は早めに終わるので夜遅く帰ることも無いはずだ。
それなのに。
……足りなかった。
見回りでは足りなかった。
アライグマが近くに来ていないかを見回るよりも、こちらから探しに行くべきだった。
そうすれば悠は助かったかもしれない。
悠を襲ったアライグマを見つけてさえいれば。
悔しさに強く拳を握る。
手からミシリと音がする。
滅してやる。
アライグマを。一匹残らず。
この世から滅してやる。
意を決し、部屋を飛び出そうとしたその時、ベッドの上の掛け布団が動いた。
もそもそと掛け布団が動き、その下から顔をのぞかせたのは――。
「……兄さん」
か細い声。
変わり果てた妹の姿を見て、俺はその場にくずおれた。
全身を覆うフワフワして手触りの良さそうな毛。丸い顔、くりくりとして大きな目。
鼻と口の周りや耳の先端、手の先端、胸は白く、その他は黒い。
長い毛が尖った耳の周りから生えている。体系は幼児。だが腕は細く、胸は少々、腰にはくびれもあるようだ。
いつも俺を睨みつける怖い妹はどこへいったのか、そこにいたのは”可愛い”であった。
神々しささえ感じるその”可愛い”に、恐る恐る問いかける。
「……ゆ、悠なのか?」
”可愛い”はコクリと頷いた。
可愛い。
「妹さんがここに運び込まれた時はこの状態ではありませんでした。 しかし、少し目を離したら……」
医者が申し訳なさそうに言った。
「悠が……、怪物に襲われたって……」
「ええ、ですが妹さんが襲われたところを私が見たわけではありません。彼女がそう言ったのです」
”可愛い”を見る。
すると”可愛い”はコクリと頷いた。
可愛い。
妹がこんなに”可愛い”姿になるなんて、あって良いことなのか?
果たしてこれは現実なのか? 信じがたい。
だが俺はほっぺたをつねってこれが現実なのか確認するなどという、古典的行動は取らない。
もしそれでこの素晴らしい夢から覚めてしまったらどうする。
「悠、一体何があったんだ」
ベッドの上で”可愛い”は襲われた時の状況について語りだした。
「道に迷って困ってるおばあさんがいて……、家まで送り届けてたら遅くなっちゃって……、その帰り道に……大きな影が見えて……、逃げようとしたら襲われて……」
”可愛い”がポツポツと少しづつ話すさまのあまりの可愛さに、悶えそうになったが堪えた。
悠の話によれば、学校の帰り道で怪物に遭遇し、逃げようとしたら襲いかかられて気を失い、気づいたらこの姿、”可愛い”になっていたとのことであった。
どういうことだろうか。
大きな影とは。怪物の正体はアライグマでは無かったのか。
いや、アライグマは二本足で立つ。光源の位置によって大きな影が生成されることもあろう。
やはりアライグマか。
いや、アライグマに人をこんな姿にする能力はない。
悠はアライグマではなく得体のしれない怪物に襲われて毒か何かを受けて、このような姿にされてしまったという事だ。
人をこのような姿へと変化させてしまうとは。
なんと……。
なんと素晴らしい……。
「元の姿に戻りたい」
シクシクと泣き始めた”可愛い”を見て悟った。
俺は悠を元の姿に戻さないために、生まれてきたのだと。
「安心しろ悠、何があっても俺はお前の味方だ」
「粘大さん、元に戻る方法はきっとあります。希望を捨てないで下さい」
「……」
”可愛い”は泣き止んだ。鼻をすすっている。非常に可愛い。
泣きそうな顔の”可愛い”が可愛くて仕方がない。
だがこの”可愛い”は悠なのだ。抱っこしたり撫でたりなどとてもできない。
もしそんなことをしようものなら、悠は一生口を聞いてくれなくなるであろう。
今は悠の容体を心配するべきである。
「そうだ悠、怪我はしてないのか?」
「大丈夫……」
「妹さんに外傷はありませんでした。
ここには妹さんの他にも怪物に襲われた方が居ます。
酷い怪我をされた方と体に異常が出た方がいまして、体に異常が出た方は妹さんと同じように外傷はありませんでした。
おそらく気絶させられた後に何らかの……。
ああそうだ、この症状に感染性が無いことは確認されていますので安心してください」
怪物に襲われた者が怪物化する。
ありえないと思って信じていなかったが、あの噂は本当だったのだ。
しかし、医者がどうやって確認したのかわからないが、”可愛い”に感染性が無いのは残念である。
世界中の人間がこのような姿になったとしたら、世界平和も夢ではないだろう。
そんなことより今は悠に怪我が無かったことを喜ぶべきである。
「っ…」
悠に「とにかく無事で良かった」と言おうと思ったが、果たしてこの状態は悠にとって無事と言えるだろうか。
そう思って言うのを止め、医者に向かって頭を下げた。
「悠を助けていただいてありがとうございます」
「いえ……、ところで妹さんには暫く入院していただきたいのですが、構いませんか?」
「拒否します」
「え?」
「悠は今すぐ家に連れて帰ります」
「し、しかし……」
このまま悠をここに残していったらどんな目に合わされるかわからない。怪物と言われて虐げられるかもしれない。何かの実験台にされるかもしれない。悠を家に連れ帰った場合、心配なことはたくさんある。人間と同じものが食べられるかわからないし、突然悠が我を失って暴れだす危険性もある。何かあった時を考えると、ここに居させた方が安心なのかもしれない。だが今の”可愛い”と化した悠に人間向けの治療が役に立つのかわからない。結局自力で治すしかないのなら、家に居させた方が良い。
何より、ここに悠を入院させたら”可愛い”を治療されてしまう可能性があるのだ。
「悠、家に帰りたいか?」
俺の問いかけに少し考えた後、”可愛い”はコクリと頷いた。可愛い。
「歩けるか?」
”可愛い”は首を横に振った。可愛い。
「体の変化のせいか妹さんは今歩けません。
まともに動けるようになるまで、暫くは介護が必要になるでしょう。
近くの親類はあなただけのようですし、大変ですよ?」
「介護なら俺がします」
”可愛い”を抱き上げようとベッドに近づく。
「兄さん待って」
「どうした」
「やっぱり家には帰らない」
「何故」
「……」
悠は黙ってしまった。
すると医者が近寄ってきて耳打ちした。
「粘大さん、妹さんは多分、デリケートなことを気にしているのです」
「デリケートなこと?」
俺の声が聞こえたのか、”可愛い”はうつむいた。可愛い。
図星のようだ。
「大丈夫だ悠。トイレではちゃんと支えるし、自分で拭けなければ俺が拭く。もし汚れたりしたらお風呂で洗うから」
「やだ」
「ここにいたって看護師さんが同じことするだけだろう」
「そっちの方が良い」
「オフッ」
”可愛い”に拒否されたことによる衝撃。脳天から入ったその衝撃は足のつま先まで一気に走り抜けた。
ちょっと快感だったので変な声が出た。