エディの長い一日 -2
前回のあらすじ
パン屋さんに来ました。とてもいい香りがします。
パン屋さんの匂い、いいよね。
「よう、いらっしゃい。お、そっちのおちびがお前の新しい弟子か」
「おはよう、アントン。ほらエディ、ご挨拶」
「は、はじめまして。ニベル村から来ました。エディです」
ぺこりと、エディが頭を下げる。
ヴィムの視線はすでに、店内のパンの上をさまよっていた。
籠に刺さった細長いバケット、積み上がった丸いカンパーニュ、整然と並んだデニッシュに、籠に山ほど盛られたクロワッサン。
日持ちを考えるならバケットかカンパーニュだが、焼きたてを食べるならヴィムはクロワッサンが好きだ。
エディは子供で甘いものが好きだろうから、干しぶどうが練り込まれているものも捨てがたいし、いや、ジャムを買って帰ってもいいか。
「エディ、食べたいものを選んで。毎日買いに来るのは面倒だから、明日からしばらく食べられるように、多目に買って帰ろう」
多目に、とはいっても二人暮らしで、明日の昼からはエディに弁当を持たせるにしても、今日はサッと外で済ませるつもりだ。カビを削り落としてまで食べたくもないから、まあ、持って帰れないほどにはならないだろう。
そのうちエディが一人で買いに来るようになったら、失敗を一度はするかもしれないが。アントンが止めてくれるかもしれないが、一回は失敗するのもいい経験になりはする。王都にいったら、寮とはいえ一人暮らしになるのだし。
「今日の朝飯にするなら、この辺の出来立てを俺はすすめるぞ。ヴィムはいつものようにクロワッサンだな?」
「もちろん。あと、ライムギの四角いパンとカンパーニュも貰おうか。エディ? 決められないなら二つ買っても構わないよ」
「え、で、でも」
アントンとヴィムが買うものを決めている横で、エディはつやつやとしたデニッシュから目を離せなくなっていた。一つはバターの良い香りがして、もう一つにはふんだんに砂糖がまぶしてあるようだった。
どちらもエディにとっては高級品だ。
それは間違っていないが、アントンの店はそれほど高級店ではない。毎日のパンはそれほど高くないライ麦パンや黒パンを皆買うが、ひとつだけ贅沢としてデニッシュやクロワッサンを買う。ヴィムも、明日からの食事のためにライ麦パンや黒パンやカンパーニュを購入したが、パンを買いに来た日はバターたっぷりの焼きたてクロワッサンを買うことにしていた。
なに、ほんのちょっとした、日々を生きる自分へのご褒美だ。
そういったものは、あった方がいいと、その祖父の美味しい教えをヴィムは忠実に守っているに過ぎない。
「それじゃあ今日はそのどちらかを買って、次に来た時にもう一つを買ってみればいい。食べたことがあるから言うが、どちらも美味かったよ」
「ヴィム、言わせてもらっていいか」
「なんだい」
「うちのパンはどれも美味いに決まってるだろう」
「アントン、うちの弟子を困らせるようなことは言わないでくれ。まあ、不味かったらここまで買いには来ないけどな」
げらげらと、大人たちは笑う。
とてもとても真剣にパンを選ぶ子供を見つめて。
そうだ、自分にもあんな時があったと。それはとても楽しい時間で、それを繰り返して、彼等も大人になったのだ。
「しょうがないな、お弟子さん。こっちの砂糖がけの方は、俺からのお祝いだ。頑張って勉強して、立派な魔法使いになってくれよ」
「あ、あ、ありがとうございます」
いつまでも悩むエディにしびれを切らし、アントンは両方のデニッシュを、トレーに乗せた。エディは困惑していたけれど、それでも、とても嬉しそうに笑った。
帰り道、エディは志願して荷物を持った。布の袋に入れられた沢山のパンは、とてもいい香りがする。早く食べたいと、エディの腹の虫が声を上げた。
ヴィムの店には、竈がある。とはいっても、パンを焼いたりグラタンを焼いたりできるほどの火力の強いものではなくて、肉や卵を焼いたりできる程度のものだ。今日買ったライ麦パンは薄く切って、焼いて、チーズとハムを挟んだサンドイッチにすると美味しいから、明日はそれを弁当にもっていけばいい。何故明日かと言えば、現在それらの食材がないからで、今日の午後はそれらの買い出しだと、ヴィムはエディに告げた。
店に戻って、ヴィムはエディに手を洗うようにという。台所にも水が貼られた瓶があり、そこから柄杓で水をすくって手を洗う。外から帰ってきたら、それからうがいもするようにと、ヴィムはエディに手本を見せた。
エディが手を洗い、うがいをしている横で、ヴィムは竈に手を突っ込んだ。火の消えた炭を指先で軽く叩くと火が熾きる。エディはそれを、驚いたように見つめた。きっとこれも、初歩の魔法なんだろう。
竈の中をエディがキラキラと見つめていたけれど、ヴィムはそこに鍋を置く。中身は、昨夜ベッティの店からもらってきたスープだ。
角切りのじゃがいもに、人参、ベーコン、キャベツ。野菜の味を、胡椒でまとめたさっぱりとしたスープだ。昨夜夕飯の時にも飲んだけれど、一晩たって更に美味く感じられる。
「昨日の夜はスープまで芋か! って思ったけれど、朝飯としては具沢山でこれ、いいな」
木製の椀にたっぷりよそって、テーブルに置く。たっぷりよそったのに、それでもまだおかわりがある。酸っぱくなったライムギのパンを浸して食べても、きっと美味いだろう。
「ぼく、このスープ好きです。でも、貰っちゃってよかったんでしょうか」
「構わないさ。新しい弟子が来た祝いと、後はやっぱり、多かったんだろうな。芋」
エディの育った村でもそうだが、朝食はパンにサラダ、ハムやチーズなど、そこそこの量を食べる。
ヴィムが買ったクロワッサンは、端をちぎると中からふんわりとバターの香りが立ち上る。歯を立てると、ざくりと口の中で音を立てて崩れた。
エディもわくわくしながら、デニッシュを二つに割った。こちらもふわっとバターが香り、割る時に指がパンに沈み込んだ。こんな柔らかいパン、食べるのは初めてだ。口一杯にバターが広がって、二口で食べ終わってしまった。もう半分を食べる前に、味が染みて美味しくなったスープを食べる。飲む、というよりは、食べるといった方がいい。
「こんな豪華な朝ごはん、初めてです」
「確かに焼きたてのパンは贅沢だけどな、エディ。私たちの今日の朝食は、パンと、残り物のスープだぞ。豪華ではないと思うが」
バターをたっぷり使った焼きたてのパンと、とても美味しい具だくさんのスープなんて、エディのこれまでの人生の中では、十分に豪華な朝食だった。
アントンの店のデニッシュはこれから何度も食べることになるし、エディはよほど美味しかったのか、具材を小さく四角く切って一晩寝かせたスープをよく作るようになるが、それでも。この最初の日の朝食を、彼は生涯忘れる事は出来なかった。
20190804 一部加筆修正。