桜の国チェリンと七聖剣【五十四】
これまで入念に仕込んできた二の太刀朧月が、セバスさんとバッカスさんを呑み込んだ。
(よし、うまくいったぞ……!)
朧月を仕込んだ空間には、わずかなズレ――『空気の断層』が生まれてしまう。
通常ならば、超一流の剣士である二人がそれらを見逃すことはない。
(だけど、今はかなり特殊な環境での戦闘だ)
摩擦の少ない、水に濡れた床。
鉄製の剣とは異なり、軽くて長い木製の得物。
サウナと水風呂、長湯によってふやけた体。
こんな環境じゃ、普段通りの鋭敏な感覚を発揮することは難しい。
(そして極めつけは、温泉から絶えず立ち昇るこの水蒸気だ)
これが空気の断層を覆い隠し、そのおかげでかなりの数の斬撃を仕込むことができた。
(……やったか?)
目の前で吹き荒れる『斬撃の嵐』は――突如内側から放たれた極大の斬撃により、斬り裂かれてしまった。
「――ふぅ、さすがに肝を冷やしたよ。時間稼ぎに徹すると見せかけて、まさかこんな手を仕込んでいたとはね……。アレン、君は本当に油断ならない男だよ……。実は案外、性格が悪いんじゃないのか?」
「空間に斬撃を仕込む、か……。湯屋という特殊な環境を十全に活かした、見事な攻撃じゃった! 後『三十』ほど斬撃が多ければ、やられておったかもしれんのぅ。若いのに、老獪な戦いをしよるわぃ……!」
セバスさんとバッカスさんの体には、いくつもの浅い太刀傷が刻まれている。
しかし、その手に握られた二振りのモップは――未だに健在だ。
(くそ、仕留め損ねた……っ)
残念ながら、朧月は後一歩というところで破られてしまったようだ。
(……手札はもうない)
後はセバスさんとバッカスさんの猛攻を耐え凌ぎ、『時間切れ』という勝ち筋を追うしかないだろう。
(あ……。どうしてこんなことになったんだろうな……)
ふと冷静になった俺は、チラリと右方向へ視線を向けた。
そこには男湯と女湯を分ける絶壁の壁がそびえ立っている。
この先ではリア・ローズ・会長・リリム先輩・フェリス先輩が、気持ちいい天然温泉で温まっていることだろう。
(……リア、君は楽しんでいるか?)
こっちは――男湯は地獄だよ。
修業の疲れを癒すためにここへ来たはずが、何故か皇帝直属の四騎士と元世界最強の剣士と死闘を演じるハメになってしまった。
正直、修業よりもずっとキツイ。
(だけど、泣き言は言っていられないな……)
残された時間は、後ほんのわずか。
後もう少しだけ踏ん張れば、リアたちは温泉から上がる。
そうなれば、セバスさんとバッカスさんの邪な企みは全て水の泡だ。
俺が大きく息を吐き出し、正眼の構えを取れば、
「さて、残された時間は後五分と言ったところか……まさに最終局面だね」
「小僧、そろそろ終わらせるぞ……?」
二人はこれまで見せたことのないほど真剣な表情で、モップを中段に構えた。
「あぁ、来い……!」
こうして俺はリアを守るため、最終決戦に臨んだのだった。
 




