桜の国チェリンと七聖剣【四十九】
温泉につかってから三十分ほどが経過し、手の皮が少しふやけてきた頃。
「――さてと、僕はそろそろ上がらせてもらうよ」
セバスさんはそう言って、湯船に波を立てないようにゆっくりと立ち上がった。
「あの……いろいろと教えていただき、ありがとうございました」
彼は『世間話』と称して、様々な機密情報を教えてくれた。
皇帝直属の四騎士は、バレル=ローネリアから与えられた任務――『幻霊』の捕獲に手一杯であり、しばらくの間は他へ手を回す余裕がないこと。
その反面に神託の十三騎士は手空きの者が多く、何やら怪しげな動きも見られるため、要注意すべきだということ。
俺のことを偏執的に狙うドドリエルは、現在『真装』の習得に励んでいることなどなど。
どれも有益な情報ばかりだった。
「ふっ、気にするな。命懸けで会長を守ってくれたことに対する、ちょっとした礼だ」
彼がそう言って優しく微笑むと、
「セバスとやら、またいずれ楽しい剣戟をしようではないか!」
バッカスさんは湯船から右手を突き出し、ニィッと口角を吊り上げた。
「あ、あははは……。その機会がないよう願っていますよ」
セバスさんは苦笑いを浮かべながら手を振り――何故か、脱衣所とは正反対の方へ足を向けた。
(……ん?)
その先にあるのは、背の高い木の塀。
男子風呂と女子風呂を分かつ、絶壁の壁だけだ。
(まさか、な……)
嫌な予感を覚えながらも、そのまま少し泳がせることにした。
すると次の瞬間、
「――よっと」
セバスさんは絶壁の壁に手を掛け、すいすいと登り始めた。
「ちょ、ちょっと……いったい何をするつもりなんですか!?」
俺が慌てて声を掛ければ、
「何って……決まっているだろう? 会長の美しい裸体をこっそりとのぞくのさ」
彼は涼しい顔をして、最低なことを口にした。
「の、のぞくって……っ。そんなことが会長に知れたら、嫌われるどころじゃすみませんよ!?」
きっともう二度と口を利いてくれないだろう。
「その点については、安心してくれ。僕は気配を断つのが得意でね。絶対にバレたりなんかしないよ」
セバスさんが頓珍漢なことを言って、壁登りを再開させたそのとき、
「――待てぃ」
バッカスさんの低く重々しい声が響いた。
「その先には、儂の可愛い孫娘がおるんじゃ。そんな馬鹿な真似を見過ごすことはできんのぅ……」
彼はゆっくりと立ち上がり、その大きな瞳を刃のように尖らせた。
「「……っ」」
尋常ならざる怒気と殺気が空間を侵食していき、俺とセバスさんは思わず息を呑む。
そして次の瞬間、
「それに何より、あのべっぴんたちの裸体をのぞくのは――この儂じゃあ!」
女好きのバッカスさんは信じられない言葉を口にした。
「……いくら『不死身のバッカス』とはいえ、会長の裸を見せるわけにいきませんね」
「ほぉ……。儂に歯向かうというならば、痛い目を見るばかりでは済まんぞ?」
「残念ながら、僕にも引けない一線というものがありましてね……」
二人は『どちらが女子風呂をのぞくか』という最低なことで、真剣勝負を始めようとしていた。
(凄まじい殺気……この人たち本気だ……っ)
超格上の剣士たちのぶつかり合い。
普通ならば、どこか安全なところへ避難してやり過ごすべきだけど……。
(今回ばかりは、俺も戦わなくちゃいけない……っ)
あの壁の先には会長やローズだけでなく、リアがいるんだ。
(セバスさんが勝とうが、バッカスさんが勝とうが……結果は同じこと。どちらか一方は、必ず女子風呂をのぞくことになってしまう)
その最悪の結果を防ぐためには、俺があの二人に打ち勝つしかない……!
「――ちょっと待ってください! あなたたちに、リアの裸を見せるわけにはいきません!」
背筋の凍る殺気が吹きすさぶ中、俺は『第三勢力』として立ち上がったのだった。




