入学試験とバレンタインデー【二十三】
屋上へ続く扉を開けるとそこには――冬服に身を包んだ会長の姿があった。
手すりに片肘を乗せた彼女は、物憂げな表情で地平線を眺めている。
夕焼けに照らされたその姿は、そのまま一枚の絵画になりそうなほど美しかった。
「――会長、お待たせしました」
例の便箋を手にした俺がそう声を掛ければ、
「あら、早かったのね? こんばんは、アレンくん」
彼女は柔らかく微笑み、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
俺の勘違いでなければ、その瞳には強い『覚悟』のようなものが宿っていた。
ここ一か月ほど見られた、不安や怯えの色はどこにもない。
どうやら、完全に吹っ切れたようだ。
「手紙にあった通り、一人で来たんですけど……。いったいなんのご用でしょうか?」
「ふふっ、それはね――はい、これ」
会長は大事そうに右手で抱えていた、小さな箱を差し出す。
それは品のいいリボンが巻かれた、真っ白な小箱だ。
「これは……?」
「バレンタインのチョコレート、お姉さんからのプレゼントよ」
「なるほど、ありがとうございます」
どうやら彼女は、これを渡すためにこの寒空の下で待ってくれていたようだ。
「私が心を込めて作ったチョコレートケーキ。きっと頬っぺたが落っこちちゃうぐらい、おいしいはずよ?」
「あはは、それは楽しみですね」
「また今度、食べた感想を聞かせてもらえるかしら?」
「えぇ、もちろんです」
こうして俺と会長のバレンタインは、静かに幕を閉じた。
その後、
「……」
「……」
特に話すことのなくなった俺たちは、自然と口をつぐんだ。
校庭からは、部活動を終えた生徒たちの楽し気な声が聞こえる。
冬の冷たい風が耳元を刺激し、それと同時に夕焼けの暖かな光が体を照らした。
お互いに黙り込んでいるが、不思議と嫌な感じはしない。
二人で一緒に『冬の味』を噛み締めている、そんなとても心地よい沈黙だ。
それから数分が経過したあるとき、
「……ねぇ、アレンくん」
会長は当然、艶のある声で俺の名を呼ぶ。
それは心の奥底へスッと入り込んでくるような、とても魅力的な囁き声だった。
「は、はい。なんでしょうか……?」
鼓動が速まるのを感じながら、声が裏返らないように落ち着いて返事をする。
「そのチョコ……義理か本命、どっちだと思う?」
会長はそう呟き、潤んだ瞳でジッと俺の目を見つめた。
「そ、それは……っ」
客観的に見るならば、これは間違いなく『義理』だ。
相手はあのシィ=アークストリア。
リーンガード皇国の重鎮『アークストリア家』の長女だ。
俺みたいなゴザ村出身の落第剣士とは、そもそも『釣り合い』が取れていない。
だから、常識的に考えてこのチョコが『本命』である可能性は――ゼロだ。
(しかし、わざわざそんなことを聞いてくるということは……っ。い、いやいや、さすがにそれはないだろ……!?)
そうして俺が混乱の極致に達したそのとき、
「まだ、わからない……? それじゃ、今から教えてあげる」
ほんのりと頬を赤くした会長が、ゆっくりこちらへ近付いてきた。
「か、会長……!?」
彼女の柔らかい指が肩に触れ、互いの吐息が掛かる距離まで近付いたその瞬間、
「答えは――ひ・み・つ」
会長はそう言って、人差し指でツンと俺の頬を突いた。
「ねぇ、ドキドキした?」
「そ、それはその……ちょっとだけ……っ」
彼女はどこに出しても恥ずかしくない絶世の美少女だ。
突然あんなことをされたら、俺じゃなくたって心臓が跳び上がってしまうだろう。
「ふふっ、それじゃ今回はお姉さんの勝ちかな?」
会長は人差し指を顎に添え、悪戯が成功した子どものように微笑んだ。
その魅力的な姿に、俺は思わず見惚れてしまう。
「ちなみに言っておくと……ホワイトデーのお返しは『三倍返し』が基本よ?」
「す、すみません……。お恥ずかしながら、あまりお金に余裕はなくてですね……っ」
遠回しに「あまり高価なものは難しい」ことを伝えると、
「んー、そうね……。それじゃ、今度どこかに連れていってくれないかしら? 喫茶店でも雑貨屋さんでも、どこでもいいわ。――ただし、『二人っきり』が条件よ?」
彼女はほんの少し悩んだ後、すぐに軽めの要望を口にした。
「そんなことでよければ、いつでもお付き合いしますよ」
そうして俺がその申し出を快諾すれば、
「ん」
会長は短くそう言って、スッと小指を前に突き出した。
「……? ……あぁ、『指切り』ですか」
その行動が意味するところを理解した俺は、彼女の細くて柔らかい小指に自分の小指を絡める。
すると、
「私、あなたと交わす『約束』が大好きなの……。世界で一番信じられるわ……」
会長はこれまでで一番安心しきった表情で、ポツリとそう呟いた。
(……嬉しいな)
大切な友達からそんな風に思ってもらえていることが、どうしようもなく嬉しかった。
だから俺は、
「俺も――会長の優しいところが大好きですよ」
そのお返しとばかりに、彼女へ抱いている率直な気持ちを口にした。
「そ、それ、ほんと……?」
「はい、本当です」
「ふ、ふーん……っ。た、例えば、どんなところかしら……?」
会長は右へ左へと視線を泳がせ、美しい黒髪を指でいじりながら、そう問い掛けてきた。
「そうですね……。ちょっとした冗談を言った後、相手が傷付いてないか気にしているところとか。定例会議のとき、全員が楽しく参加できるように話を均等に振っているところとか。いつも周囲に気を配って、元気のない人にはそれとなく話し掛けているところとか。他にも――」
そうして指を折りながら、彼女の優しいところを挙げ連ねていくと、
「――す、ストーップ!」
顔を真っ赤に染めた会長が制止の声をあげた。
「ど、どうかしましたか?」
「きょ、今日のところは『引き分け』にしておいてあげるわ……っ」
「引き分け……?」
耳まで赤くした彼女は、よく意味のわからないことを口走り、
「と、とにかく、また明日……!」
まるで逃げるようにして本校舎へ戻っていったのだった。




