入学試験とバレンタインデー【十】
ルーは目尻に涙を浮かべ、口を一文字に結びながら必死に痛みを噛み殺していた。
その左の掌には赤茶けた小太刀が深々と突き刺さり、鮮血が流れ出している。
(痛いです、痛みます、痛過ぎます……っ。でも、これだけやれば、あのアレン先輩だってタダでは済まないは、ず……っ!?)
「な、何をしているんだ!?」
俺は手に持つ剣を投げ出し、大慌てでルーの元へ駆け寄る。
「うそ、どうして……っ!?」
彼女は信じられないといった表情で、何故か俺の左手を凝視していた。
「ほら、早く手を出して!」
「は、はい……っ」
すぐに高出力の闇を使った高速治療を始めれば、彼女の手にあった痛々しい傷はあっという間に完治した。
「これでよしっと……。痛みはないか?」
「あ、ありがとうございます。……って、そうじゃなくて、どうして無傷なんですか!?」
ルーは礼儀正しくお礼の言葉を口にした後、ズイッと顔を寄せてきた。
女の子の甘いかおりがして、わずかに心臓の鼓動が速まる。
「えーっと、質問の意味がよくわからないんだけど……?」
俺はなんの攻撃も受けていないんだから、無傷なのは当然のことだ。
そこに疑問を持たれても、どう反応していいものか困る。
そうして俺が困り顔で首を傾げていると、
「――てめぇ゛、つまんねぇことしてくれんじゃねぇ゛か……あ゛ぁ!?」
突然底冷えするようなゼオンの怒声が響き渡った。
そして次の瞬間、
「なっ!?」
俺の左腕は勝手に動き出し、ルーのか細い首を鷲掴みにした。
「あ、い、ぁ……っ!?」
大地から足が離れた彼女は、泡を吹きながら必死の抵抗を見せる。
しかし、俺の腕はそのか細い首をへし折らんと徐々に力を込めていく。
「――や、やめろ、ゼオン!」
そうして強い拒絶の意思を示すと、
「ぢぃ……っ」
大きな舌打ちが響き、奴の気配が消滅した。
それと同時に左腕が自分の意思で動くようになった。
「ご、ごめん……っ。大丈夫か、ルー?」
地べたで荒い呼吸を繰り返す彼女へ手を伸ばすと、
「ひ、ひぃ……っ」
ルーは両手で自分の体を抱き、そのままどこかへ走り去ってしまった。
どうやら、とても怖い思いをさせてしまったようだ。
(くそ、ゼオンめ……。ここ最近やけに大人しいと思ったら、霊力の回復に集中していやがったのか……っ)
最後に奴が『表』に出て来たのは、昨年の九月。
それから約半年の間、ひたすら回復に集中していたようだ。
(……俺の意識がここまではっきりしている中、ゼオンは強引に支配権を奪ってきた)
今はまだ左腕一本だけで済んでいるが、今後はどうなるかわからない。
(もっとしっかり霊核を制御できるようにならないと、このままじゃ危険だ……)
ゼオンの力は、まさに圧倒的。
ひとたび暴れ出せば、周囲に甚大な被害を与えることは間違いない。
(ルーのことは少し気掛かりだけど……。とりあえず、特別試験を続けるか……)
一応彼女の傷は完全に回復させたし、それに何より俺が今この場を離れるわけにはいかない。
(さっきの一件については、また今度会ったときにしっかり謝ろう)
ルーは千刃学院の合格基準を大きく越えた、とても優秀な剣士だった。
今の戦いを採点していた副理事長は、きっと合格という判断を下しているだろう。
もし彼女が入学を辞退しなければ、おそらくそう遠くないうちに顔を合わせるはずだ。
俺がそんなことを考えていると――左の掌に薄っすらと血が付着しているのに気が付いた。
(あれ……? これは『誰』の血だ……?)
まずもって、俺の血ではない。
俺はここまでの戦いで一太刀も浴びていない、全くの無傷だ。
そしてルーの血というのも考えにくい。
彼女と接触したのは、首を絞めたあの一瞬だけ。
そのときルーの傷はもう完全に塞がっていたから、彼女の血という線は非常に薄い。
(そうなると、まさか……っ)
一つの可能性が脳裏をよぎった。
(……もしかして<共依存の愛人>は、ルーと標的の状態をリンクさせる能力なのか?)
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
特別試験が始まる直前――彼女が念を押すようにして、闇で治療してもらえるのか確認したこと。
戦闘中、突然自傷行為に走ったこと。
無傷の俺に対して、信じられないといった表情で疑問を投げ掛けたこと。
そして――突然、ゼオンが表に出て来たこと。
(あの機嫌の悪さと左手に付着したほんの僅かな血……。この感じだと、おそらく奴は『小さな切り傷』を負ったのだろう……)
いったい何故<共依存の愛人>の効果が、ゼオンへ牙を剥いたのかはわからないけど……。
大まかな流れは、きっとこの予想であっているはずだ。
そうして大方の疑問を解消した俺が、試験を再開するために振り向くとそこには――ゼオンの強烈な殺気に当てられた受験生たちが、ガタガタと身を震わせていた。
彼らは互いに身を寄せ合い、まるで化物でも見るかのようにこちらを見上げている。
(あー……。これは、どう説明したらいいんだろうか……)
ゼオンの出現というとんでもないトラブルを乗り越えた俺は、それに続く『事後処理』という大問題に頭を抱えたのだった。




