異常と白百合女学院【九】
翌日。
窓から差し込む柔らかい日の光で、俺は目を覚ました。
「ん、んんー……っ」
大きく伸びをしながら、ゆっくり上体を起こすと、
「――おはよ、アレン」
白百合女学院の制服に着替えたイドラが柔らかい笑顔を浮かべた。
「……っ。あ、あぁ……おはよう、イドラ」
新鮮な光景に一瞬息をのんだ俺は、それを気取られないようごく自然な風を装った。
そうしてひとまず洗面所に向かい、歯を磨こうとすると、
「――ねぇ、何か作っていい?」
彼女は冷蔵庫を指差しながら、小首を傾げた。
「それは構わないけど……いいのか?」
「うん。一人分作るのも二人分作るのも同じ。――開けていい?」
「あぁ、中にあるものは好きに使ってくれ。……といっても、大したものは入ってないけどな」
確かモヤシとタマゴと……後、豚肉ぐらいはあったような気がする。
「……うん、これだけあれば大丈夫」
中の食材をジッと見たイドラはコクリと頷き、調理に入った。
彼女がご飯を作ってくれている間、俺は朝支度を済ませていく。
そうして俺が千刃学院の制服に袖を通したところで、
「――アレン、できたよ」
イドラからお呼びの声が掛かった。
「ありがとう、今行くよ」
姿見でサッと身だしなみをチェックしてから、彼女の待つ食卓へ向かった。
「……おぉ、これはおいしそうだな!」
そこには――白ご飯と半熟の目玉焼き、それにモヤシと豚肉の炒め物があった。
この短い時間で、よく二品も作ったものだ。
「ふふっ、お口に合うといいけど――醤油でいい?」
「あぁ、ありがとう」
そうして食卓についた俺とイドラは、静かに両手を合わせた。
「「――いただきます」」
ぷっくりと膨れた黄身に箸を入れると、中からトロトロと黄色い旨味が溢れ出した。
それを程よく焼けた白身で包み、口へ運び込む。
「……どう?」
「――うん、おいしい! イドラは料理が上手なんだな!」
千刃学院の女子は料理が不得手だったこともあり、これは少し意外だった。
「よかった。でも、料理はそこまで得意じゃない」
「そうか? これだけできれば十分だと思うんだけど……」
「こういう普通のおかずは得意。でも、ケーキとかクッキーとかのお菓子作りは全然駄目。ついつい隠し味を入れたくなって、気付いたらとんでもないものができあがる。中等部では、それで事件にもなった」
「そ、そうなのか……っ」
どうやら、得意分野と不得意分野がはっきり分かれているらしい。
「ところで、中等部も女子校だったのか?」
「うん。お父さん心配性だから、共学は絶対に駄目だって」
「な、なるほど……」
彼女の父親にこんなところ見られたら、とんでもないことになりそうだ。
「あのさ、イドラ……」
「なに?」
「俺の部屋で寝泊まりしていることは、他の誰にも言っちゃ駄目だぞ?」
「……? よくわからないけど、わかった」
本当にわかってくれたのか、少し心配だけど……。
こればっかりは彼女のことを信用するしかない。
そうして朝食を済ませた俺たちは――いつもよりかなり早く登校することにした。
これはもちろん、イドラと一緒に部屋を出るところを見られないようにするためだ。
時刻は朝の七時、一限開始までまだ二時間もある。
(……この時間帯なら、誰の目も無いだろう)
そんな風に思っていた俺が……馬鹿だった。
大きな音を立てないよう、ゆっくり玄関の扉を開けるとそこには、
「――おぉ、神よ! 今日も同じ学び舎に通える喜びをなんと表現す、れば……っ!?」
いつからスタンバイしていたのか、跪いて頭を垂れるカインさんの姿があった。
ゆっくり顔を上げた彼は、俺とイドラの姿を確認して――言葉を失った。
「か、かかか、神よ!? こ、これはいったいどういうことですか……っ!? 何故、イドラが貴方様のお部屋から!?」
カインさんは悲鳴のような声を挙げ、俺とイドラを交互に見た。
「し、静かに! ちょっといろいろあって、彼女は一時的に寝泊まりしているだけです……! カインさんが考えているようなことは、何もありません……!」
俺が早口でそう言うと、
「――そうですか、承知いたしました」
彼は驚くほど素直に話を聞き入れてくれた。
「え、えっと……、納得してくれるんですか……?」
「納得も何も――神のお言葉を疑うような、愚かな真似は致しません。神が黒と言えば、白でも黒でございます」
そう言ってカインさんは、とてもいい笑顔を浮かべた。
いったい何故ここまで崇拝されているのかは不明だが……今回ばかりは助かった。
「と、とにかく――この件は内密にお願いしますよ?」
「はっ! この命に代えても……っ!」
そう言って彼は、深く頭を下げた。
こうしてカインさんの口封じに成功した俺は、ひとまずA組の教室へ向かったのだった。
■
白百合女学院に転入してから、ちょうど一週間が経過した。
「――おはようございます、アレン様」
「おはようございます、アレンさん。今日もいい天気ですね」
「あぁ、おはよう。シャーリーさん、ミーシャさん」
その頃には、嬉しいことにクラスメイトとも会話ができるようになった。
初めは強く警戒されていたが、イドラ経由で少しずつ交流が増え――今ではちょっとした雑談をできる程度には、打ち解けることができた。
そうして他の女生徒たちと挨拶を交わしていると、教室の扉がガラガラと開いた。
「――おはよう、アレン!」
「……おはよ」
元気いっぱいのリアと寝ぼけまなこのローズだ。
「あぁ、おはよう」
自分の席に荷物を置いたリアは、鋭い質問を投げ掛けた。
「それにしてもアレン、最近早いわね? ……何かあった?」
「い、いや……っ! 別に、何も無いよ……?」
「……ふーん?」
彼女はジッと俺の目を見つめながら、意味深にそう呟いた。
幸いなことにイドラとの共同生活については、カインさんを除けば、誰にもバレていない。
(あ、後一週間……っ)
このまま何事もなく、終わることをただただ願うばかりだ。
俺がそんなことを考えていると――とある女生徒が恐る恐るといった様子で話し掛けてきた。
「あの……アレン様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
彼女の名前は確か……そう、リースさんだ。
「はい、どうしました?」
「い、以前から少し気になっていたのですが……。貴方様のその闇――もしかして、傷を治療する効果があるのではないでしょうか?」
彼女は真剣な表情で、そう質問を投げ掛けた。
「えぇ、よくわかりましたね。ちょっとした切り傷ぐらいなら、すぐに治るんですよ――これは」
俺はそう言って、指先から小さな闇を浮かび上がらせた。
「……っ! や、やっぱりそうでしたか……っ!」
リースさんは何故か嬉しそうにパンと手を打つと、
「じ、実はその……『お願い』があるんです……っ。もしよろしければ、聞いていただけないでしょうか……?」
バッと頭を下げて、声を震わせながらそう言った。
「お願い、ですか……?」
「は、はい……。実は私……古傷に悩まされておりまして……。少しお見苦しいですが、どうかこちらをご覧になってください……っ」
緊張した様子の彼女は――静かに制服の袖をまくった。
「……なるほど」
そこには赤黒く変色した歯形があった。
「これは五年ほど前――私がまだ初等部の頃に負った傷なんです。あれはそう……授業で魔獣狩りをしていたときでした……っ。ほんの一瞬油断した隙に、ウェアウルフに咬まれてしまったんです……っ」
「そうですか……。念のために聞きますが、医者には診てもらいましたか?」
この国の医術は発展している。
これぐらいの咬み傷ならば、すぐに治せそうなものだけど……。
「……はい。何人もの医者に診てもらいましたが……駄目でした。この傷には、魔獣の『呪い』が掛けられているそうで……。現状、永遠にこのままだろうと言われました……っ」
リースさんは今にも泣き出しそうな顔で、そう話してくれた。
(呪い、か……。確かにそれは厄介だな……)
呪いとは、魔獣が行使する未解明の力だ。
効果・発動条件・解呪方法――その詳細については、ほとんどわかっていない。
「……わかりました。できるかどうかはわかりませんが、やってみましょう」
この『闇』は、何と言ってもあの化物の力だ。
可能性はそう高くないが、もしかしたら……ということもあるかもしれない。
「あ、ありがとうございます……っ!」
「では、いきますよ」
「は、はい……っ」
俺は意識を集中し――変色した彼女の右腕へ闇を纏わり付かせた。
優しく柔らかく、悪いものを飲み込むような感覚で。
すると――赤黒く変色した肌は、みるみるうちに元の美しい肌へ戻っていった。
「す、凄い……っ」
そんな魔法のような光景を見た周囲から、感嘆の声が漏れた。
「……ふぅ。よかった、なんとかなったようですね」
俺が闇を消すと――リースさんは綺麗になった腕を見て、目を白黒とさせた。
「あ、ぁ……っ。ありがとうございます……っ!」
彼女はそう言って、大粒の嬉し涙を流した。
無理もない。
年頃の女の子にとって、あの傷はつらいだろう。
(……しかし、それにしてもこの闇。……『呪い』さえ消し飛ばすのか)
まさかとは思っていたが、ここまであっさり行くとは思ってもいなかった。
(本当に俺の中に眠る霊核は、いったいなんなんだ……?)
そんなことを考えていると、
「あ、アレン様……っ! 実は私、少しお願いがありまして……っ!」
「わ、私も……! 今とても悩んでいることが……っ!」
大勢の女生徒が一気に俺の元へ押し寄せた。
「え、あっ……ちょ、ちょっと落ち着いてください……っ!?」
それから俺は霊力がすっからかんになるまで、闇を絞り尽くされたのだった。
一応その成果として、新たにわかったことがある。
この闇は『外傷』に対して、絶対的な効果を発揮する。
大きいものでは切り傷・打撲・呪い、小さいものでは発疹・肌荒れ・筋肉痛と、どんなものでもあっという間に治してしまう。
その一方で風邪のような『病気』には、なんら効果を示さないようだった。
その後――午前は主に魂装の修業。
昼休みはリアたちを含めた十人以上でお昼ご飯。
午後は筋力トレーニング。
放課後はみんなで集まりつつ、それぞれ思い思いの修業。
そんな大変だけれど充実した毎日を送っていると――あっという間に、白百合女学院で過ごす最後の一日となった。
「はい、今日の授業はこれで終わりです。みなさん、気を付けて帰ってくださいね」
ケミーさんが帰りのホームルームを終えると同時に――俺は教室を飛び出した。
すると、
「――待てごら、てめぇっ!?」
「アレン、ちょっと待って!」
同時にシドーさんとイドラが、予想通りに追いかけて来た。
(やっぱり……そう簡単には逃がしてくれないか……っ!)
螺旋状の階段を駆け降り、本校舎を飛び出したところで――。
「――逃がさないよ、アレン」
飛雷身で移動速度を上げたイドラが、俺の前に立った。
そして、
「てめぇ……。今日ばかりは逃がさねぇぞ……っ!」
背後から極寒の冷気が吹き荒れた。
「あ、あはは……っ。どうやらそうみたいですね……っ」
俺は苦笑いを浮かべつつ、心の中で大きなため息をついた。
「ねぇ、アレン……やろうよ」
「今日は最終日だ。『また今度』は通用しねぇぞ……っ!」
戦意に燃えた二人は、そう言って魂装をこちらに突き付けた。
(ど、どれだけ俺と戦いたいんだ……っ)
白百合女学院での二週間――イドラとシドーさんは、事あるごとに決闘を申し込んでくるのだ。
俺はそのたびに理由を付けて、後回しにしてきたのだが……。
どうやら今回ばかりは、逃げられそうにない。
(別に二人と戦うのが嫌というわけではないんだけど……)
全力のシドーさんとイドラと戦えば、この学院が滅茶苦茶になってしまう。
(それに何より――戦いが終わってからの数日は、きっと体が言うことを聞いてくれない)
白百合女学院の授業を受けられるこの貴重な時間を、保健室で無駄にするのはあまりにもったいない。
こういう理由があって、二人の挑戦を延期し続けてきたのだ。
「はぁ……わかりました。それでは『魂装無し』という条件なら、受けて立ちます」
そうして俺が少し特殊な条件を付けると、
「……あ゛ぁ?」
「……魂装、無し?」
シドーさんとイドラは、揃って眉をひそめた。
「はい。もし魂装ありの戦いだと――今日お相手できるのはシドーさんかイドラ、どちらか一方だけになってしまいます」
「……ちっ」
「……確かに」
「ですから、魂装なしの決闘です。剣士として純粋な『剣術』を競い合うこともまた真剣勝負の一つです」
魂装を解禁した戦いは、間違いなく死闘になる。
そうなったときに一人とても困った人がいる――そう、シドーさんだ。
彼は一度火が付くと止まらない。
きっと<孤高の氷狼>の力を無茶苦茶に解放し、白百合女学院を氷漬けにしてしまうだろう
だから俺は、魂装無しでの決闘を提案した。
それにこれは……俺にとってもいい確認になる。
「はっ、そういうのもたまには面白れぇかもな……。いいだろう、てめぇの口車に乗ってやるよ!」
「私も、それで構わない!」
こうして俺は白百合女学院での最終日に、シドー=ユークリウス・イドラ=ルクスマリアと魂装無しの剣術勝負をすることになったのだった。