異常と白百合女学院【八】
イドラさんを自室に招き入れた俺は、冷蔵庫で冷やしておいたお茶をコップへ注ぐ。
「ど、どうぞ……」
「ありがと」
食卓についた彼女は、優雅な所作でお茶に口を付けた。
そして――。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が降りた。
(ど、どうすればいいんだ……っ)
俺からなにか気の利いた話を振るべきなのか?
(……いや、でもイドラさんはわざわざ俺の部屋を訪ねて来た)
きっと何か話したいことがあるに違いない。
(少し気まずいが……ここは彼女を急かさないよう、待っているのが正解のはずだ……っ!)
そう判断した俺はこちらから話題を振ることなく、彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。
イドラさんは特に緊張していないようで、いつも通り何を考えているのかわからない表情を浮かべている。
それから三十秒ほどが経過したところで、
「え、えーっと……イドラさん? こんな夜中にどうしたんでしょうか?」
気まずい沈黙に耐え兼ねた俺が、それとなく話を切り出した。
「あ……うん。ちょっと話があったんだけど……その前に一ついい?」
「は、はい。何ですか……?」
「ずっと気になっていたんだけど……どうして敬語なの?」
「……え?」
予想外の質問に、少し間の抜けた声を出してしまった。
「私たち、同い年だよ?」
「それは……そうですね」
俺がイドラさんに敬語を使う理由……。
(……正直、なんと答えたらいいのか微妙なところだ)
『まだ会って間もないから』というのは、少し距離のある感じがするし……。
『なんとなく』というのは、理由として弱過ぎる。
「え、えーっと……。女の子には丁寧に接した方がいいかな、と思いまして……」
回答に困った俺が当たり障りのない返答をすると、
「リアとローズには、敬語じゃないよ? ……アレンが嫌じゃないなら、普通に話して欲しい」
イドラさんは淡々とそう言った。
個人的には敬語に拘りがあるわけじゃない。
彼女がいいというのならば、タメ口にさせてもらおう。
「――わかった。それじゃ、よろしくな……い、イドラ」
女の子をサラッと呼び捨てにするのには、抵抗があったので……少し言い淀んでしまった。
しかし、彼女は特に気にした素振りもなく微笑んだ。
「うん、よろしく」
そう言ってイドラさんはサッと立ち上がり、
「それじゃ、また」
玄関口の方へ向かって行った。
「え……? あっ、うん。また明日」
まさか彼女の用件がこれだけとは思わなかった俺は、少し肩透かしを食らった気分だ。
それからゆっくり靴を履いたイドラが、玄関の扉に手を掛けたそのとき。
「……あっ、忘れてた」
彼女はポツリとそう呟くと再び靴を脱ぎ捨て、もう一度食卓についた。
「本題を話してなかった。もう一度お話しをしよう」
「あ、あぁ」
(……この人は、本当に天然なんだな)
俺がそんなことを思っていると、イドラが口を開いた。
「――ゴホン、本題に移るよ」
「ど、どうぞ……」
「うん。えっとね……剣王祭でアレンに負けてから、私はたくさんの修業をしたの。でも、今日の能力測定で、君との差が広がっていることがわかった……」
彼女は悔しそうに下唇を噛み締めた。
「なにか秘密があるはず……と思った」
「……秘密?」
「そう。アレンの強さには、何か秘密があるはず。だから――私の質問に正直に答えて欲しい」
そう言ってイドラは、小さなリュックの中から一枚のプリント用紙を取り出した。
そこには綺麗な字で、質問文のようなものが書かれている。
どうやら既に準備万端のようだ。
「……だめ?」
「いいや、別に構わないよ」
別に隠すようなことなんて何も無い。
質問に答えるだけで彼女の力になれるのなら、喜んで協力させてもらおう。
「そっか、ありがと。それじゃ一問目――アレンの剣術はとても独特。師匠は誰?」
「……っ」
いきなり少し答えづらいものが飛んできた。
「あ、あはは……っ。お恥ずかしながら、俺の剣術は『我流』なんだよ……っ」
剣士はどこかの流派に所属し、そこで剣術の基礎を学ぶ。
これが剣士の常識であり、ごく当たり前のことだ。
しかし、そんな常識を外れた――俺みたく流派に入れてもらえなかった剣士は、『我流』にならざるを得ない。
そして世間は、そんなはみ出し者のことを『落第剣士』と馬鹿にするのだ。
「……我流? どうして?」
俺のような『底辺の事情』を知らないイドラは、心底不思議そうに首を傾げた。
「……『才能が無い』って、言われちゃってさ。どこにも入れてもらえなかったんだ」
隠しても仕方がないので、素直にそう答えた。
「そんなに強いのに……。見る目が無い人ばかりだったんだね」
イドラは肩を竦めてそう言うと、すぐに次の質問へ移った。
一日何時間、剣術に時間を費やすのか。
これまで剣術指南書は何冊読んだのか。
毎日どれくらいのご飯を食べるのか。
(ま、まるで尋問みたいだな……)
軽く十を超える質問に驚きつつも、俺は一つ一つ丁寧に答えていった。
「じゃあこれが最後の質問。――剣王祭が終わってから今日までで、一番時間を費やした修業はなに?」
「一番時間を費やした修業……か」
「うん」
イドラはコクコクと頷いた。
この質問を最後に持ってきたところからして、この質問が最も聞きたかったことなんだろう。
(……うーん)
魂装の修業・闇の操作・筋力トレーニング――毎日いろんな修業をしているが、その中で最も時間を費やしたものとなると……。
「…………素振り、かな」
やはり、これだろう。
どんなことがあろうとも日課の素振りだけは、欠かしたことが無い。
これだけは、グラン剣術学院時代からずっと変わらない。
すると、
「むぅ……ちゃんと答えて」
俺の回答が納得できるものじゃなかったのか、彼女はジト目でそう言った。
「あ、あはは……っ。一応真剣に答えてるんだけどな……」
別に何も嘘を言っているわけではない。
俺が日々の修業の中で最も時間を費やしたものは、間違いなく素振りだ。
「……そう。……『強さの秘密』は秘密ということね」
彼女は珍しくブスっとした表情で、ポツリとそう呟いた。
「べ、別にそういうわけじゃないんだけど……」
強さの秘密と言われると――真っ先に『一億年ボタン』が思い浮かんだ。
しかし、これについては、レイア先生と交わした『絶対に他言しない』という約束があるため話すことはできない。
(……これは仕方がないよな)
一億年ボタンについては、黒の組織が目を光らせているらしい。
下手なことを口にすれば、俺だけでなくイドラまで危険に晒してしまう。
彼女には申し訳ないが、話すわけにはいかない。
俺がそんなことを考えていると、
「……わかった。それじゃ、君の日常を『監視』する」
イドラはよく意味のわからないことを言い出した。
「か、監視……?」
「そう、監視。見て盗む」
「あぁ、そういうことか……」
監視という言葉に少し驚いたが、『見て盗む』というのは剣術の基本――そんなことに許可を取る必要は無い。
俺だって、ローズの桜華一刀流をコピーして使わせてもらっている。
「……だめ?」
イドラは小首を傾げて、そう問い掛けた。
「いや、そんなことなら構わないよ。まぁ……参考になるかどうかは、わからないけどな」
「そっか、よかった。……うん、話はこれで終わり。いろいろありがと」
彼女は嬉しそうに微笑むと、
「――それじゃ、お風呂いただくね」
信じられないパワープレイを見せた。
「あぁ、どう……ぞっ!?」
恐ろしいほど自然かつ素早い話題転換――俺でなければ、見逃していただろう。
その鮮やか過ぎる手際に、うっかり許可を出してしまうところだった。
「ちょ、ちょっと待て! お、お風呂ってどういうことだ!?」
「……? お風呂はお風呂だよ……?」
「あぁ……質問が悪かったな。『お風呂』という言葉の意味を聞いているんじゃなくて……。どうしてイドラが、ここのお風呂に入るのかって聞いているんだ」
俺が懇切丁寧にそう説明すると、
「……? さっき言ったよ。君の日常を監視するって」
彼女は淡々と自身の正当性を主張した。
「日常を監視って……っ。俺の生活を全部真横で監視するってことか!?」
「そうだよ」
イドラは「何をそんなに驚いているの……?」そう言いたそうな表情で、コクリと頷いた。
(……そう言えば、すっかり忘れていたな)
イドラのコミュニケーション能力が、絶望的に壊滅的なことを。
「ということは、もしかして……今日は『泊まり』なのか?」
「もちろん、そのためのリュック」
そう言って彼女は、持参したリュックの中から可愛らしい黄色のパジャマを取り出した。
どうやら初めから俺の部屋に泊まる気だったようだ。
「さ、さすがにそれは……っ」
年頃の男女が一つ屋根の下なんて……いろいろとよろしくない。
リアについては――主従関係など、おかしな前提があったので考慮外とする。
そうして俺が困り切っていると、
「……もしかして、アレンは誰かと付き合っているの?」
イドラは少し不安げな表情を浮かべ、コクリと首を傾げた。
「い、いや……別にそういうわけじゃないけど……っ」
リアは……まだそういうのとは違う。
「……よかった」
彼女はホッとした様子で何事かを呟くと、
「――それじゃ、先にいただくね」
脱衣所の仕切りをシャッと閉めた。
「あっ、ちょっとイドラ……っ!」
そうして俺がカーテンの裾を掴んだその瞬間。
シュルシュルっと、衣擦れの音が聞こえた。
「……っ!?」
もう――脱ぎ始めてしまったのだ。
(くそっ……やられた……っ)
イドラが服を脱いだことにより、この薄布のカーテンは彼女を守る『鉄のカーテン』へ進化した。
「はぁ……。どうしてこうなった……」
そうして俺がため息をついていると、風呂場から彼女の鼻歌が聞こえてきた。
同い年の――それも絶世の美少女が、すぐ隣でシャワーを浴びている。
そう思うと……心臓が変な鼓動を打ち、とてもじゃないが落ち着かなかった。
(……気が休まらないぞ、これ)
そんな落ち着かない時間をしばらく過ごしていると――ガチャリ、と風呂場の扉の開く音が聞こえた。
(……ふぅ、終わった)
同時に張り詰めた緊張の糸が少し緩む。
何故かわからないが……イドラのお風呂の音を聞いていると緊張してしまうのだ。
そうしてホッと一息ついたところで、
「ねぇ、アレン。バスタオル……どこ?」
一糸纏わぬイドラが何の躊躇いもなくカーテンを開けた。
「な、あ……っ!?」
絶対に見えてはいけないものが、はっきりと見えてしまった。
俺はすぐさま彼女から目をそらし、大声で叫んだ。
「な、ななな……っ!? 何をしているんだ!?」
「えっと……。バスタオル……」
「も、持って行くから! 早く中に入って、か、カーテンを閉めてくれ!」
「……? わかった」
彼女はそう言うと、大人しく脱衣所へ戻ってカーテンを閉めた。
それから俺は慌てて箪笥からバスタオルを取り出し、
「ど、どうぞ……」
カーテンの隙間へ差し込んだ。
「ん……ありがと」
それからイドラは特に何も言うこと無く、上機嫌に体の水気を拭き取っていた。
(……女子校のお嬢様は、みんなこうなのか?)
男性に対する危機意識が決定的に欠如している。
(……いや、確かに『神童』を襲える人なんて、そもそもほとんどいないけど)
さすがにこれは無防備が過ぎる。
うっかり変な犯罪にでも巻き込まれないか、正直とても心配だ。
そのまましばらく待つと――可愛らしい黄色のパジャマに着替えたイドラが出てきた。
ほんのり上気した頬に湿った髪の毛、なんだか少し大人びた色っぽい雰囲気がある。
「ふぅ……さっぱりした」
「……それはよかった」
それから俺は中断していた柔軟を再開し、イドラは髪を乾かした。
そうして手短に寝支度を済ませた彼女は、
「ふわぁ……。アレン、おやすみぃ……」
大きな欠伸をしながら、俺のベッドへ倒れ込んだ。
「お、おやすみ……」
どうやら彼女は、夜にとても弱いらしい。
それから俺はサッとお風呂で汗を流し、寝支度を整えて――イドラの眠るベッドへ入った。
彼女は小さな子どものように丸まり、スーッスーッと小さな寝息を立てている。
「……さすがに無防備過ぎじゃないか?」
信用されているのか、それとも元々こういうタイプなのか……。
とにかく……イドラはもう少し、警戒心というものを持つべきだろう。
「……そのあたりの話はまた今度、だな」
そうして俺はゆっくりと目を閉じ――まどろみの中へ沈んでいったのだった。