折れた心
魔術があまり使えないグレイでも少しぐらいは使える。
火力はそこまで無いものの火焔を出す魔術、相手を痺れさせる魔術、自分の筋力など少しあげる程度の強化の魔術......。どれも一年生の学園生でもすぐに出来る初歩的な魔術であった。
魔力を増やせば増やすほど火力を増すのだが、体内魔力もグレイは少ない。
魔術をほとんど使えない致命的な魔術師であった。
「ぐっ......」
壁に叩きつけられた痛みを感じながらグレイは走り出し、前足の横薙ぎを強化した身体を使い飛び躱す。空中で浮いている間にその獅子の背中に炎を放った。だがその炎は獅子の体毛に触れる前に消滅した。
「マジかよ......」
着地しながらグレイはつぶやいた。魔獣は自然魔力を吸収するということはグレイは知っていたが、その魔力を纏うということは知らなかった。このことにより、グレイの放った魔術の炎は獅子の体に触れる前に魔力とぶつかり打ち消されてしまったのだった。
逃げるかのように距離を取り、どうにかして眼の前の化物に与えられないかを必死でグレイは考えた。
敵にダメージを与えられる銃の武器のようなものは持っていないし、逆に攻撃を防げる盾も持っていない。
(まるで猫と鼠だ)もちろんグレイが鼠だが、その鼠には追い詰められても噛む歯は生えていなかった。
そんなグレイにはただ逃げることしかできなかった。
地面に転がっている少し大きめの石を投げつけるものの、それは前足によってあっけなく砕かれてしまう。
じりじりと詰められている距離に焦りを感じずにはいられない。
先程までは雄叫びをだせるほど余裕があった。だが今では叫び自分を鼓舞することも、相手の弱点を見つけ出そうとすることもしていなかった。いやできなかったのだ。ただどうやったら生き残れるか、それどころかグレイの頭の中では諦めの色が濃厚であった。
次第に逃げることすら諦めてその場に座り込んでしまう。
眼の前、肌に触れる程度までに近づいてきた死に、ついにグレイは耐えきれなくなった。
やり残したことも、後悔もグレイにはなく、ただ目の前に立つ獅子の赤い瞳を眺めていた。
もう諦めてしまった生きるというあまりに簡単すぎた道に、後悔はない。
血だらけになった自分の姿を思い浮かべるとゾッとするが、この絶対的な絶望を覆すヒーローが都合よく現れることはないということは十分なほどに知っていた。
無意識に胸ポケットに入った煙草に手を伸ばした。
口にくわえると火をつけ、大きく吸い込んだ。
最後に自分の体内から吹き上げる血飛沫を眺めながら吸った煙草の味は、これまで吸った煙よりも飛び抜けて美味しく、そして鉄の味がした。
****************
ツキミがグレイのことを聞いたのは次の日の昼であった。
土曜日のためグレイのもとへ出かけようとしているときに、祖父のアラグゥに呼び止められ知ったのだ。
手渡された紙切れに書かれた住所にツキミは向かう。東区の中央よりに位置する場所に病院はあった。
それは清潔であることを主張するかのように真っ白にペンキで塗られた壁、中にはいったときには鼻の奥にツンとするエタノールの消毒液の匂い。
ツキミは受付にグレイのいる部屋を聞き、今にも走り出してしまいそうな足にブレーキを掛けながら、早足で廊下を歩いた。 グレイの病室は三階の階段から一番離れた部屋であった。
ドアを開けると、部屋の中には4つのベットが並んでおり、グレイは部屋に入ってすぐ右手側のベッドに横たわっていた。瞼は閉じ、何も知らされていなければ死んでいるのではと思ってしまうほど顔色は優れていなかった。痩せこけた頬をツキミは撫で、手のひらに伝わる確かな体温を感じた。
(良かった、ちゃんと生きてる)
胸を撫で下ろし、ツキミはベッドの横に置いてあった椅子に座る。
慌てて病院まで来たため、どくどくと脈打ち、うっすらと額には汗を浮かべていた。その汗をポケットから取り出したハンカチで拭った。
グレイに掛けられている布団を捲るとそこには包帯を大量に巻き付けられた胴体があった。包帯には血が滲んでおり、今では乾燥して黒色に変色していた。血は3本並んで出ており、ツキミにはその原因が魔獣によるものだと推理することができた。
だがそれでも何故グレイが襲われて生き残っているのが不思議であった。
魔術師の中でも一流と言われるファミューダ教授があっさりと殺されてしまった相手にグレイが生き残れる方法が見当たらない。
(あるとすれば身に秘めた才能に覚醒したとかかな)なんてありえないことも考えるが、グレイから感じられる魔力はいつもと変わらず微力だ。
ならなんで?と首を捻るがグレイが負けるイメージしか沸かない。私の尊敬する先生弱すぎ......。
ツキミがうーんと唸っていると、ドアが開き、医者と看護師が入ってきた。
彼らはしつれいとツキミに一言言うと、グレイの包帯を変え始めた。包帯を巻き取るたびに包帯に染み込んでいる血の面積が大きくなっていった。すべてが巻き取られたとき、肉体の深くまで続く痛々しい傷口が見えた。3本の爪痕は推理した通りあの魔獣のもので間違いない。これほど大きい爪なんて森に行かない限り出会えない。
医者は治癒師であったようで短い呪文を唱えると少しだけ傷が塞がった。そして治癒師は部屋を出ると看護婦が包帯を巻き付けていく。その手捌きは慣れたものであった。
もう一度看護婦は失礼しましたと言うと出ようとした。
「すみません看護婦さん」
「何でしょう?」首をかしげる看護婦さん。
「彼がここに運ばれる前にどこにいたのか、それにその時傷口はどのような状態だったか教えていただけませんか?」
「えっと今朝方病院の前に倒れていたようです。傷口は深かったですが、どうやら血が止まっていたようなので、自身である程度治癒を施してからここに来たみたいです」
手に持っている紙を見ながら看護婦さんは答えてくれた。
「ありがとうございました!」
礼を言い、部屋を出ていく看護婦さんをツキミは見送った。
「ですってグレイ」
「気づいてたのか」
振り返ると先程まで閉じていた目を開き、誤魔化すように頭をかきむしっているグレイの姿があった。
「何時から起きてたの?」
「包帯を変えている途中にだ」
「そう、なら看護婦さんの話は聞いてたのね」
ああ、グレイは短く返事をした。
「でもグレイは自分の治癒すらできないから、看護婦さんの言っていたのはきっとグレイが気を失ってからのことのようね」
「少し辛辣じゃない?」
「当たり前よ。心配したんだから」ツキミは少しだけすねたように口を尖らせながら言った。「それで魔獣はどうだった?」
霞がかった記憶の中、グレイは思い出そうとした。だがなかなか思い出せない。覚えているのは血のような双眸と、最後に吸った煙草の味だけ。なんでそんなことばかり覚えているのだろうか。
魔獣の大きさなどを思い出そうとしてみるのだが、思い出そうとすると恐怖心が記憶に鍵をかけているのか、それを体が拒む。一旦落ち着こうと深く息を吸うが、体が小刻みに震えているのがわかる。たとえ思い出せなくてもその恐怖が刻まれている、といったところか。
傷が痛む。それは治りかけの痛みではなく、この傷がつけられたときにように、自分の血が噴水のごとく吹き出している映像が脳裏に浮かぶ。震える手で傷を撫でてみるが、そこには映像のように血液は滲んでおらず、グレイはほっとした。
「どうしたの?」
「いや......なんでもない」
誤魔化すようにグレイはうつむいたが、手の震えだけは治まらなかった。
「本当にどうしたの」心配そうにツキミが俯いたグレイを覗き込んで言う。
「いや、昨日からタバコを吸っていないからな。煙草はどこだ?」
ツキミが冷たい目で見る。そんなものはないと。
「それで何か思い出した?」
「いや全然。大きいってぐらいだな」出来る限り震えそうになる声を隠しながらグレイは言った。
「そっか。でも無事で良かった」
そこからは魔獣の話はなく、他愛のない話をした後ツキミは帰った。だがグレイは帰った後も魔獣のことを思い出そうとするたび体の震えに襲われた。
(きっとこれは魔獣からの警告なのだろうな。「もうこれ以上関わるな」と)
死の淵から覗く紅の瞳、そして心臓を突き刺そうとしている鋭利な爪。
そこまでして真相へ辿り着かせまいと阻止する魔獣は何を考えているのだろうか。
(駄目だ、恐怖が思考を鈍らせている)
きっといつもの状態であればするすると思考は運ばれる。多少道を外れてもすぐ元の道へ戻ることは可能だ。だが今では道から外れようとしているばかりで、戻ろうとは少しも思わない。いや逃げているんだ、恐怖から。
だが逃げていることに嫌な感じはなかった。いやむしろ道から離れていくたび、命の危険から距離を取ることができた安心感が身を包み、手の震えは治まっていく。
グレイの心は完璧に折れてしまっていた。
**********
ツキミは病院を出た。グレイの姿が見れて安心したせいか、お昼を食べていないことを思い出し、近くにあったカフェに入り込みサンドイッチと珈琲のセットを注文した。テラスに出てサンドイッチをぱくつきながらツキミは考える。
グレイのあの傷口ならば放っておけば大量出血で死ぬのは確実。なら看護婦さんの推測のように誰かがグレイを治癒して律儀に病院の前まで運んだ。ならだれが?
「そこが問題」
命の危ない人を助けるほどのいい人なら、病院の前に置き去りにすることなく最後まで面倒を見るはず。なら置いていったのは、姿を見られたくなかったのかな、それとも用事があったのかな。いや用事があったとして死にそうな人をほったらかしにすることはないか。
「だとすれば......警告とか」
それだ!犯人にグレイが事件を捜査しているのを知って......。いやグレイが捜査しているからって警告する必要はあるの?いやないかな。グレイがもし学園内で名が響き渡る名探偵だとしたらありえるかもだけど、グレイは少しだけ教えるのが上手な教師ぐらいの評価。魔術師としては学生以下と言われているときもあるし。
ならグレイは重要なことを知った......?
ありえるかなぁ。グレイはそんなに事件に関わろうとしていなかったし、私がいなかったときに事件のことを調べるとは思えないし。
なんだろうな......。
でもグレイは傷が治るまできっと入院しているはず。これから私一人で事件を調べるしかない。
私もグレイみたいになるかもしれない。その時を考えると素直に怖い。死と隣合わせ。だけどこんなに面白いことはない!
サンドイッチを食べ終わると珈琲を飲み干すと、店を出た。
***********
グレイが病院に入り3日が経った。学園には魔獣に襲われたことを伝えるとあっさりと休みをくれた。
この一週間は休める。担当のクラスがあるが、今は嫌な時期だ。ひたすら魔術の扱いについて叩き込む。これが以外と応える。その期間をのんびりとベッドに横たわりながらいれるのは非常に嬉しいことだ。
(没収された煙草さえあれば完璧なのだけどな)
部屋はもう夜の予感を感じさせていた。
ベッドの横に置かれている本を開く。ありがたいことにツキミが持ってきてくれたのだった。
「魔導書だと粗方読み終えただろうし、私が好きな物語を持ってきたよ」
と全く魔術が出てこない本だ。
退屈しのぎには良い。物語は面白く、一日で5巻読み終えてしまうほどに。だがそれを読んだところで魔術師として成長するということがないので、無意味な知識となるだろう。だが夜はまだ長い、この持て余した暇をどう扱おうか悩む。
そんなときドアを叩くものがいた。返事を待つことなくドアは開かれる。
「おう、見舞いにきだぜ」
エイブは相変わらずその爽やかな笑顔でこちらに手を挙げた。
いつも学園で会うときに着ている白衣はなく、スーツを適度に崩したように着ていた。
ありがとな、グレイは小さく礼を言った。
「いえいえ、どうせ暇だと思ってお前が読んだことがなさそうな本を持ってきたぜ」とバックを取り出したのは分厚い魔導書であった。新しい書物のようで表紙の羊皮紙には艶があった。
「こいつは最近見つけられた本でな、うちの研究室で写し終わったんで持ってきた」
「ほ〜」
グレイはパラパラと本をめくってみるが、文字量の多さに驚いてしまう。
一体何が書かれているのだろうかと目次を見てみるが、さっぱりわからなかった。
「楽しめそうだ」
「それは何よりだ」
エイブはベッドの横に置かれている椅子に座った。
「それでどうだ、体の方は」
「傷が深くってまだ動くのはきついな」グレイは胸を摩りながら言った。
「そうか......。ならまだ学園には復帰できなさそうだな」
「一週間は休めることとなった」
「クラスの方は大丈夫なのか?」
「休んだところで俺の代わりはたくさんいる。大丈夫だろ」
「お気楽だなクラス担任というのは」
羨ましいよといいながら笑いながら煙草を吸い始めた。
「一本いいか?」
「だめだ。ここに来るときにお医者さんにやるなといわれているからな」
「ケチめ」
「お前が早く仕事に復帰するためだ、我慢しろ」
グレイが拗ねるように口をとがらせているのを見て、ケタケタと笑いながらエイブは言った。そしておもむろに吸った煙を吐き出した。その吐き出された煙をバレないように吸い込む。
「それでそんな傷誰にやられたんだ?」
先程まで笑っていたエイブの表情から笑顔が消えた。
「魔獣にな」
「茶化しているのか?」エイブは睨んだ。
「まさか。本物の魔獣だ」
「本物だと?森のなかで襲われたのか」
「行くわけ無いだろ?帰り道で急に襲われた」
「嘘だろ、町中に魔獣がうろついているというのか?」
「わからん。いつの間にか目の前にいたんだ」
エイブは本当に驚いているようで、煙草の灰を灰皿に落とすことを忘れていた。
「それじゃあお前は魔獣に襲われて生き残ったのか?」
「そういうことだ」
「なんでまたお前が......」
「しらん。たまたまだろう」
表情が出ないように努めて冷静に答えを返した。
まだこいつはファミューダ教授のことを知らない。魔獣という単語を出されてそれと結びつかないのなら確実だろう。事件のことを調べているというのは言わないほうがいい、なぜかグレイはそう考えた。
(なぜだろうか)
エイブを事件に巻き込みたくなかったのだろうか?いや、こいつなら魔獣を倒すことが出来るぐらいの魔術の実力を持っているのは知っている。なら手柄を奪われたくないのか?
慎重にエイブの表情を探る、だが彼の表情からは本当にグレイを心配しているようであった。
「たまたまならいいかもしれないけど、お前心当たりはないのか?魔獣に襲われるような」
「そんな魔獣の仲間を研究のために解剖したりしていないし、仲間を殺しに森に入ったこともない」
「そうか......」
ある程度まで情報を紛れ込ましたはずだが、それにも反応していない。
(本当に情報が規制されている......?)
そこでグレイになにか違和感を感じた。
(なんだ、何が)
だがそれはすぐに勘違いだと決めつけられた。
エイブは少し黙った後、なにか気がついたかのように腕に巻いた時計を見ると、立ち上がった。
「すまない、戻らない時間だ」
「お前も魔獣に襲われないように気をつけて帰れよ」
「ああ、じゃあな」
エイブが扉に手を出したとき、ドアが開いた。
「こんばんは、グレイ」
そこにはなぜかいつも以上ににこやかな笑顔をしたツキミの姿があった。いつもの赤いコートを着ており、手にはお見舞いの品が握られていた。
それをみて固まった表情のままエイブは言った。
「グレイ、生徒に手を出したのか?」
あまりにも真剣に聞くので、グレイは吹き出した。
「馬鹿め、そんなわけないだろ」
「酷いわ、あんなことまでして......」ツキミはわざとらしく顔を赤くしていった。
「エイブ、そいつも連れて帰ってくれないか?」
「すまない、邪魔者はさっさと消えるよ」と冷やかしながらエイブは出ていった。
「お幸せに」その笑顔はこちらを馬鹿にしたようでもあった。




