いざ森へ
窓から差し込む陽光と、鼻孔をくすぐる香ばしい香りにグレイは目を覚ました。
目を開くとそこには廃れ苔生えた暗い壁があり、いつもの通り罅が蔦のように伸びている。だがその光景は地面が視界の左側に見える。まるで世界が90度回転したみたいに。そこでグレイは自分が机に座ったまま寝てしまったことを思い出した。肩には普段使っている毛布がかけられていた。毛布からは微かにタバコの臭いと男の加齢臭が臭う。間違いなくグレイが普段使っている毛布だ。
(なんでこんなところで寝ているのだろう?)
グレイは疑問に思う。普段であればリビングより奥にある狭い寝室で寝ているはずだ。それに一人暮らしである家に誰かがいて、料理を作っている。もしかしたらだが、料理を作っている人間は俺を排除したつもりでのうのうと朝食を作っているのか?と起きたばかりでエンジンがかかりきっていない脳で考え始めた。もしそうであればグレイは危機的状況にいるというわけだ。だが、そのままひび割れた壁を見ていると徐々に昨日のことを思い出していった。
ツキミが夜遅くに訪れてきたこと、話したこと。そして寝たこと。
背筋に悪寒がさっと走る。
グレイはツキミが話している最中に寝てしまったことを怒っていないかと心配になるが、毛布をかけてくれるだけの優しさがあるのならそんなに怒っていないのだろうと思い込むことにした。変に気を使うようなことをしたほうが相手をイラつかせる。
グレイは体を起こし立ち上がる。体は窮屈な格好で寝ていたためポキポキと鳴り、やはりベッドで寝ることが一番だと思い知らされる。いい匂いがする方向、キッチンの方に視線を向けるとそこにはツキミがいた。フライパンに卵を入れる最中であった。グレイが立ち上がったのに気がついたのか、目が合う。
「おはよう」
「おはようございます」
ツキミは笑顔で返事をした。だがグレイは対象的に疲労を残した顔であった。伸び切った髪の毛は所々の視界を遮っており、髭を最後に剃ったのは金曜の朝であったため無精髭が生えていた。顔色は悪い。
時計は午前8時を指し、ソファーの上にはツキミが寝た痕跡なのだろう毛布がある。
ツキミの服装は昨日の夜と変わらず白いニットとヒザ下まであるロングスカートであった。そして料理をしていて服が汚れないようにとグレイの使っている青いデニム生地のエプロンを付けていた。
もう一度寝ていた場所にグレイは座り、ポケットに入っていた煙草に火を点ける。
窓を開け、爽やかな風を部屋に流し込む。新鮮な空気の中で吸う煙草は格別に美味しかった。
煙草の煙は、グレイのぼんやりとした意識を載せ窓の外へ消えていく。吸い終わることにはグレイの目は醒めて、机の上には朝食が並べられていた。ツキミがコーヒーを置き座った後、朝食を摂り始めた。
机には目玉焼きやトースト、細かく切られた野菜のスープが並べられていた。いつもならトースト一枚なのに、一枚のさらには緑、黄、赤と色彩が溢れている。この食事を作るのにどれほどの労力をツキミは支払ったのだろうか、グレイは思った。だがそんなことは深く考えこまないようにし、トーストにかぶりついた。
ツキミが作った朝食はグレイが手を込んだ夕食よりも断然に美味しかった。同じトーストにしてもだ。
(焼き方が違うのか、それとも味付けか?)しかしグレイにはわからなかった。
ツキミは相変わらず丁寧な所作で食事を口に運ぶ。それにグレイも見習いやってみるのだが、どうにもぎこちない動きになってしまい、結局は諦める。
「ごちそうさま、美味しかった」
食べ終わるとグレイは感想を述べる。あまり抑揚からは気持ちがこもっていないようにも聞こえたが、ツキミには微かな抑揚で本心であることが理解できた。グレイは素直に気持ちを伝えようとするほど、その抑揚は相反するように控えめになる。照れ屋なのだろうとツキミはそう解釈していた。
「お粗末さまでした」
「それにしても料理作れたんだな」
ツキミの家は豪邸であり、召使いがいる。そのような環境でツキミが料理を作っている姿をグレイは想像することが出いなかった。
「まあね。私だって女性ですもの」
(女性だから料理が作れるのか?)グレイは疑問に思った。
「ところで昨日の話を覚えてる?」
(来たか)グレイは心の中で舌打ちをした。正直に行って寝る直前のツキミの考察などほとんど頭の中には入っておらず、記憶はその前の説明までしかなかった。どう答えたら正解か。正直にいうか、それとも嘘つくか。というかこの問に答えなんてあるのだろうか。
「すまない、途中で寝てしまって説明のところまでしか覚えてない」
3秒にも満たない間であったが、必死に考えた結果は素直に話すことにグレイはした。ツキミはその答えを聞いて安心したかのように息を吐いた。
「良かった〜。考察はあまりいいのもじゃなかったから、忘れているのならそちらのほうが嬉しいな」
「わかった。思い出さないようにしておく」
「だけど説明のところまで覚えているのね」
「ああ。ちゃんと覚えてるよ」
「なら森へ行く約束は?」
「いやしてないだろ」
「でもいいじゃない。昨日は夜だからっていう意味で断ってたから、朝やお昼ならいいでしょ」
「......まあいいだろう。朝食とかも作ってもらったし」
「やった!」
なんで森へ行くだけでこんな嬉しがるのかはグレイは不思議だったが、決めたからには行かないといけない。
「少し待ってろ、支度してくる」
「は〜い」
グレイはさっさと顔を洗い、髭を剃る。
服装と荷物を整えてツキミの待つリビングへと戻る。
荷物は最小限、メモ帳とペンや定規などの筆記用具、あとは財布だけをカバンに入れた。森へ行くということは魔獣に遭遇可能性があるということだから、何かと準備することはないかと不安にグレイはなったが、戦闘に使えるものはほとんどなかった。当たり前だが銃もない。
実際に魔術師でも戦闘のことを考えているのは極少数である。多数の魔術師は研究したり、身近に使える薬術や祈祷師など様々である。戦闘を行う魔術師の場合は国家騎士や軍のような国の治安を守る兵隊さんであったり、悪魔や悪霊を払う祓魔師などだ。この学園を卒業する人間で軍に入るのは大半だ。せっかく3年間魔術を学んできて、それを使うのは戦うため。もう少し良い扱い方をできないものか、グレイはいつも思う。
「おまたせ」
リビングに戻るとコートを身にまとったツキミの姿があった。それに倣いグレイも玄関にかかっているコートを着て外へ出た。外はまだ太陽が昇ったばかしで気温は上がっていない。肌を撫でる風は水を掛けられているようで冷たい。春はまだ遠いようだった。
「いざ森へ!しゅっぱ〜つ!」
陽気なツキミの掛け声は静かな住宅街へと吸い込まれていった。
**********
森へついたのは二時頃であった。本来なら12時頃に付く予定であったのだが、お昼に平野でピクニックしたり昼寝をしたりしていたためであった。昼寝はとても気持ちが良かった。雲ひとつない空に、選択されたかのように澄んだ風、柔らかく暖かい日差し。
普段ならグレイは暗い部屋から出ようとしないため、このような体験をあまりしたことはく新鮮に感じた。だが、寝たあとはすぐに森へと向かった。これ以上時間をかけては帰る頃には夜中だ。
森へ近づくたびに平野であった風景は、森や山が見え始め、足元もぬかるみ始めた。
そして森についてからは、ツキミが先頭を歩き、グレイを誘導した。周りからは遠くから聞こえる鳥の鳴き声や、下を這う虫、そして縄張りだと記す獣の糞の臭い。すべてがなにか不気味さや危険さを語りかけてくる。そのたびに気を引き締めるのだが、焦らすかのようになにもない。
「ここ、魔獣の魔力が途切れたの」
ツキミは地を指さしている。そこはなにかあるわけでもなく、山へと続く森の道の途中である。
ただ道が続いているだけ。それだけだ。
「周辺も探してみたのか?」
「うん。ここ周辺に精霊を使って探してみたけど反応はさっぱり。本当に消えたみたい」
グレイは見渡すが、隠れたりできる洞窟や、穴はない。ただこれまでツキミとグレイが歩いてきた足跡が刻まれているだけであった。
(足跡?)
グレイは足元を見た。そこにはツキミとグレイの足跡の他に少しだが、他の人間や動物の足跡が混ざっていたりする。これはツキミの足跡だろう。定規でサイズを測り確かめる。
「どうしたのグレイ?」
「なんせここはぬかるんでいるし、森などの影響もあって乾燥もしない。ならまだ足跡があるんじゃないかと思ってな」
足跡は5種類はあった。グレイのものと、ツキミのものと、小動物1匹、大動物1匹だ。
魔獣の足跡がどんなものか知らないため、それが関係のない動物の足跡なのかもしれないし、魔獣のものなのかもわからない。だが、ツキミが指さした魔獣の魔力が消失した場所で一匹の足跡が消えているのが判明した。
ツキミに頼み、そこから魔獣の魔力が検知されないかグレイは頼んだ。そしてそこからは非常に微かであるが、魔獣の魔力が検出される。
「これが魔獣の足跡なのね!」ツキミは興奮気味に言った。
「だろうな。見たところ肉球の跡があるし猫科っぽいが、これほどデカいヤツいるか?」
「いないね」即答だった。
魔獣のものと決めた足跡はあまりに大きい。グレイの手のひらを2つ重ねた程度の大きさであり、この森に生息するにはあまりに大きすぎた。ここは比較的密着するように木々が生えているため、小動物が多く生息しているが、大動物の場合は今ツキミやグレイたちがいるように道を通って移動する。そして少し奥に行けば広い空間があるためそこに生息する。
グレイは持ってきたメモ帳にその足跡の大きさとその形などを詳細に書き込んでいく。
(もしかしたら広い空間にいるのかもしれないな)グレイは思う。
どうやって足跡と魔力を消したのかはわからないが、魔獣がいるかもしれない場所に行くのにはためらってしまう。もし戦闘になってしまえば一番死亡する確率があるのはグレイだ。間違いなく。だがそんなグレイの躊躇いも察することなく、ツキミはグレイの手を掴み、「行きましょ」と先へと進んでいく。こうなってしまえばグレイはどうすることもできなくなる。ただツキミに自分の命を託すだけだ。
二人は広い空間に出た。周りは木々で囲まれており、その中心部には人の身長ほどの丘がある。空からは陽光が指しており、丘には背の低い草花が生えている。先程見た魔獣ではないもう一匹の大動物の足跡は続いていたが、木々の隙間に消えていた。
周りには、舞う美しい蒼の蝶や、戯れるリスやウサギなどの小動物たち。だがよく目を凝らすと、広い空間の端には捕食されたのか動物の骨が転がっている。
「なにもないな」
「精霊で周囲を確認してみたけれど、やっぱり魔獣らしき魔力の痕跡はなかったわ」ツキミは少しばかりがっかりした表情で言う。
「なんでがっかりしてるんだ?」
「だって、いたほうが楽しいでしょ」
「楽しい? 危険とかじゃなくって」
「退屈で安全過ぎる生活より、多少命の危険があっても心躍る毎日のほうがいいでしょ。ほら、今みたいに! 」
「今?」
「魔獣をおいかけて事件を解決しようとするなんて普通の生活してたら経験しないでしょ。もしかしたら魔獣と戦うかもしれないし、勝てたら嬉しいし、負けたらそれまで」
「......死ぬ恐怖とかないのか? 」
「ないわ。私は楽しければそれでいいと思う」
「ずいぶん刹那的な考えだな」
「刹那的?」ツキミは頭を傾ける。
「今この瞬間のことしか考えていないことだ」
「私にぴったりね」
「だが悪いふうに言うと後のことを考えない」グレイの声が少し低くなる。
「う、」そのグレイの声の変化を感じてツキミは何かを察した。
「例えば人の家に深夜に来るとかな」
結局足跡以外には何も成果がなく、二人は帰ることになった。今日もツキミはグレイの家に行って、足跡が何だったのかを考え合おうと思っていたみたいだったが、来ないようにちゃんと家まで連れて帰った。
グレイが帰る頃には日が暮れ始めており、あっという間に休みが終わっていた。学園で働いているときよりも確実に疲れていた。
(この2日間、生きてきた中で一番忙しかったな......)ベッドに倒れ込みつつ思った。
楽しみにしていた休みは終わってしまい、明日からは学園だ。そのことを考えると頭が痛む。
読みたかった本は1冊しか読むことはできなかったし、体は余計に疲れている。二日間歩きっぱなしだ。筋肉痛にはなっていないが、明日には痛みが来るだろう。考えると恐ろしい。
(もう寝るか)
布団に潜り込み、布団の中が暖まるのを待った。徐々に暖まっていくぬくもりに心地よくなりながら、薄れゆく意識の中、2割の頭で魔獣のことを考えた。
(俺は一体何を追っているのか、俺は一体何に関わろうとしていたのか)
見えない未来を恐れつつ、その暗闇の中を歩いていった。
これからの自分の行路はきっとこれまでとは違って平坦ではなく、棘や罠が仕掛けられているだろう。さて、どうやって元の道へ戻ろうか。いや、戻ることはできないだろう。一度踏み入れてしまった世界は、世界が崩壊するまで逃れることはできない。戻ったかと思っても、それは束の間の幻想だ。グレイにできることは一つ。弱い光を放つ命の炎を消さないように尽くすだけだ。
そう、あらゆる手段を使ってもだ。




