その引き金を引く覚悟はあるか
退屈そうにグレイは小説の頁をめくる。
胸にある傷は痛むが、着実に完治へと向かっていた。
昼食後であり、心地よい満腹感から来る眠気は感じ始めていた。数日前の魔獣との戦闘からは思えないほどの穏やかな生活をグレイは過ごしている。その真反対の生活を過ごしているため、実は戦闘なんて行われなかったのでは?と疑うことはあったが、胸の傷が現実だということを物語っていた。
そして今、まるで現実から逃避するかのように、フィクションの世界を漂っていた。
エイブが持ってきた魔導書には手を付けることはなく、ありもしなかったことを真剣に読んでいた。それを読んだところで自分の環境が変わることも、そして自分自身が変わるということも知っていたが、それでも頁をめくる手は止まることはない。
物語の中では探偵が犯罪を颯爽と解決していく。その姿はツキミがグレイに対して望んでいる姿なのかもしれないと思うが、あまりにも現実離れした主人公の姿にグレイは失笑する。こんなのは物語の中だから出来ることであって、現実の世界にはありえないことだ。
グレイは本を閉じた。本を読むことが無駄なことだと悟ったわけではない。いや、そんなことはとっくの前から悟っている。眠たかったからだ。
窓から差し込む太陽はグレイのもとまでは届かなくとも、その温度は伝わってくる。その微温湯のような布団の温もりを感じながら目を閉じた。だがその眠りを阻害するかのようにドアが開かれた。
「失礼します」
あまりの丁寧な物腰から自分とは関係ない人が入ってきたのだと思ってしまうほどだ。この時間帯なら生徒はないだろう、そして教師だとしてもこの時間は授業があるだろう。誰だろうか。
声は男性のものであり、人に比べて落ち着きのある低い声であった。どこかで聞いたことがあるということはグレイはすぐわかったが、それが誰のもの出るかはわからなかった。
「グレイ先生、起きておられでしょうか」
寝ているグレイを気遣ってかその声は遠慮されたかのようであった。
「起きてます」布団から顔を出す。「寝ようとしていたところですが」
ドアの前には、ツキミと事件現場に向かったときにいろいろ説明してくださったドルトルの姿があった。仕事とは無関係なのか、身にまとった白銀の鎧は外されていた。ショルダーバックと、手に持った花束。典型的なお見舞いに来た一般人であった。
「それはすみませんでした。ツキミさんからグレイ先生が入院されたということを聞いたのでお見舞いにと」ドルトルは手に持った花束を花瓶に詰めた。
「それで新しい事件のことを報告しに来たのですね」
「よくおわかりですね」
「昨日ツキミから話を聞いたので」
「それではこのことは話すことをやめておきましょうか?」
「いえ、あまり詳しいことを聞けなかったのでお願いします」どこからかあの赤い目がこちらに睨んでいるかのように思ったが、自然と口は動いていた。
シルミダ・インフィー、26歳。
今回は肉体が引きちぎられたり、肉を食いちぎられてはおらず、ただ、心臓を爪で一突き。ファミューダ教授とは大違いだ。魔獣によるものだとわかったのは、ファミューダ教授同様に事件現場に魔獣の魔力が発見されたからだ。殺された時間帯は金曜日の日付が変わるか変わらないかぐらいであり、グレイが魔獣に襲われた後に狙われたのだろうとグレイは想像する。野獣も忙しいものだ。
シルミダはファミューダ研究室で、ファミューダ教授の秘書をしていた。また秘書の仕事の傍ら自ら研究に励んでいたらしい。その分野もファミューダ教授と同じく魔獣関係であり、日々熱心に研究されていた。ファミューダ教授のように恨まれるということはなく、研究室の仲間たちとも友好的であり、月に一度ぐらいの頻度で一緒に食事に行く仲間もいたようだ。
「遺体が見つかったのは学園の西門を出たところから少し先に行ったところでした」相変わらずドルトルはスラスラと話した。「それで何かわかったことはありますか?」
グレイは黙り込んだ。グレイにしかわからないことはある。だがそれは言われたら困ることだから、俺を殺しに魔獣は来たに違いない。それでグレイが真相に近づかないようにとシルミダを殺した、そうグレイは推理した。これを言ってしまえば確実にグレイはシルミダと同じ目に遭ってしまう。そう、謂わばシルミダはグレイに同じ目に遭うぞ、と忠告しているのだ。度々なる忠告。すでにグレイには心を折るほどの忠告、実際に魔獣に襲われるという目にあっているというのに、これでもか、とグレイを追い詰めていく。いや魔獣にはそんな気はないのかもしれない。だが確実にグレイは追い込まれていると感じていた。
何かを言おうと口を動かそうとするのだが、パクパクと口が動くだけであり、言葉が発せられない。
額には薄っすらと汗が浮かんでおり、目の前にあの紅い目がこちらを睨んでいるような幻覚が頭の中に浮かんだ。
段々と心拍数も上がっていき、次第には呼吸が苦しくなってきた。まるで水の中であるはずもない空気を求めるかのように。あのシルミダの心臓を一突きした爪が心臓のある左胸に突き刺さろうかとしている感覚がある。
「だ、大丈夫ですか!」そんなドルトルの言葉でグレイは現実に引き戻された。
確かに胸に感じていた爪の感覚も、こちらを睨んでいた目もそこにはなく、ただ白すぎる布団のシーツがあるだけであった。
「大丈夫です」グレイは言うが、その声は弱々しかった。
ドルトルは安心したかのように胸をなでおろすと、「まあ襲われたばかりですから、仕方がないですよ」と微笑んだ。「襲われた方のフラッシュバックはよくあることですから」
「すみません、お役に立てなくて」
「いえ、大丈夫です。事件はこちらが全力で操作しております。なにかお話になれるようになったらお申し付けください」
それではこれで、とドルトルが部屋を出ていこうとしたとき、何か思い出したかのように足を止めた。
「そういえばツキミさんからお願いされていたのを忘れていました」とショルダーバックからあるものを取り出し、グレイに手渡した。
それはずっしりと重く、冷たかった。
「なんでこんな物騒なものを私に?」手に渡されたハンドガンに目を丸くしながらグレイは言った。
銃なんて市民が持っていいものではない、持っていいのは軍隊と騎士団だけだ。
「ちゃんと許可を取ってありますのでお気になさらず」
「いやそうではなく」
「身を護る手段を持っていないとお聞きましたので、魔獣にも狙われていますので必要になるかと」
やかましいわ、とグレイは言ってやりたかったのだが、そこはぐっと堪え「ハンドガンなんて使ったことないですよ」と言った。普通の生活を送っていたらまずハンドガンを使うことだけでなく、見ることさえない。
「簡単です、セフティレバーを外し、引き金を引く。弾が無くなれば取り替えて、引き金を引く」
「いや、他にもあるのじゃないですか」
「まあわからないことがあれば、騎士団の北区にある本部に来てくれればご指導できるのでいらしてください」
「は、はあ」銃を返す考えも浮かばない。グレイは曖昧な返事をして銃を受け取ることにした。
ドルトルは部屋を出ていこうとしたが、またドアを開く前にこちらを振り返った。今度はなんだろうか?とグレイは首を傾げていると、優しげな微笑みは消え、事件現場にいた兵士であるドルトルの顔に戻った。そしてスラスラと離し始めた。
「グレイ先生、渡しておいてどうかともいますが、このことだけは覚えておいてください。銃というものは引き金を引くだけで容易く命を絶つことができます。それは足元にいる蟻を踏み潰すことと同じように容易く。ですから、この引き金を引くときは、人の命を絶つということを、命を奪うということを意識してください。たとえ相手が人を殺していたとしても、犯罪を何度繰り返していても、それは尊き命です。それを奪うということは罪なのですから」
ドルトルが出ていった後、部屋には霧のように不透明な静寂が広がった。
グレイは手に感じる銃の重みを、そしてドルトルの言葉を考えながらまたグレイは目をつぶった。




