誰もいない海 (2)
その日の夜、夕食をとったあと、オレは着替えを取りに自分の家に一旦戻った。
前ならオレの洗濯も弥生がまとめてやってくれていたが、さすがに今の弥生にそんなことはさせられないので、オレは自分の分だけを洗濯機に入れ、全自動で乾燥までさせることにした。
シワが付きやすくなるので、本当はシャツなんかは乾燥機に入れたくないのだが、オレはここでの用事をさっさと終えて弥生の家に帰りたかったのだ。
なるべく弥生を、一人にさせたくないから。
これ以上心細い思いをしないで済むように、オレはできることはなんでもしてやりたかった。
スポーツバッグに数日分の着替えを突っ込み、その上に、オレの子供の頃のアルバムを入れた。
弥生が昔の写真を見てみたいと言い出したのだが、青山家にしょっちゅう出入りしているオレでも、どこにアルバムが片付けられてるのかは知らず、家探しめいたことをするのは憚られたので、ひとまず、弥生の部屋の本棚に並んでた幼稚園、小中高の卒業アルバムを見ててもらい、オレは着替えを取りに戻るついでに、オレのアルバムを持って行くことにしたのだ。
オレの幼少時代なんて、ほとんどが弥生と一緒だったから。
乾燥に唸る洗濯機を残して、オレは自宅を後にした。
だが、弥生の家の門の前に長身の影を見つけたオレは、肩に掛けたスポーツバッグの持ち手を力いっぱい握り締めていたのだった。
「こんばんは」
いい男のいい声が、夜の虫の声に混ざって響いた。
「・・・・こんばんは。こんな時間にどうされたんですか?」
今夜は風が出ていないせいか、湿りのある夏の夜の空気に、じとりと汗を感じる。
そしてその汗は、この男のせいで量を増した気がした。
「実は仕事で戻らなくてはならなくなりまして、その前に青山さんの様子を伺いたかったんです。
ですが、こんな時間ですし、もし高安さんがご不在で青山さんだけしかいらっしゃらないのでしたら、なんとご挨拶すればいいかと思案していたところでした。ちょうど高安さんがいらしてくれて、助かりました」
新庄の紳士的な物腰は、礼儀正しいがどこか警戒心を誘う。
そう感じてしまうのは、オレが彼に対して不信感を排除できないからだろうか。
弥生のスマホに登録もされていない彼は、いったい何者なんだろう。
状況証拠から、弥生の知り合いだと簡単に信じたが、それは新庄の自己申告でしかないのだから。
一度芽生えた疑いは、オレを慎重にさせた。
「じゃあ、今日も弥生には会ってないんですね?」
つい、険のある言い方になってしまう。
けれど新庄はそんなオレに気が付いていないのか、少しも動じない。
それどころか、
「そうですよ。お会いしてません。それに、もしかしたら青山さんは、記憶が戻ったとしても私には会いたくないと思われるかもしれませんから」
意味深な返答に、オレの方がギクリとしてしまった。
「それは、どういう・・・」
意味なんですか、そう続ける前に、新庄にフッと息で笑われてしまった。
「いえ、大した意味はありませんよ。ただなんとなく、青山さんがそう思ってらっしゃるような気がしただけです」
大人の余裕を悠々と見せられて、オレは自尊心に挑戦状を叩き付けられたようにも感じてしまう。
大丈夫だ、この男と弥生の間に何があったのかは知らないが、少なくとも今はオレの方が弥生に近い場所にいるのだから。
そう言い聞かせることで、オレは気持ちの安定を図った。
「弥生と会わないまま、戻られるんですか?」
「高安さんは、私と青山さんを会わせたいのですか?」
即座に返された質問に、オレの方が思わず詰まってしまった。
「会わせたい、というか・・・・弥生に会いに来たはずの新庄さんが、弥生に会えなくても平気で帰っていくのがちょっと・・・」
不自然なんです。
その文末は、曖昧に溶かした。
「私は別に、青山さんに会いに来たわけではありませんよ。青山さんの具合をうかがいに来ただけです。」
「・・・・・それのどこが違うんですか?」
「私の中では全然違うんですけどね」
新庄はしれっと言う。
ますます意味が分からないオレは、それがまるで単なる言葉遊びのように思えて、微弱ながら苛立ちも生じていた。
そんな実もない会話をする時間があるなら、すぐにでも弥生のところに戻ってやりたかったのだ。
「すみません、弥生を一人にしてるので、オレはそろそろ・・・・」
「ああ、そうですね。あまり高安さんをお引き止めしてはいけませんね」
新庄は、これは申し訳ありませんでした、と小さく頭を下げた。
「それじゃ、失礼します」
そう言ってオレが新庄の傍らを通り過ぎ、新庄も立ち去ろうと後ろを向いたが、
「あ、高安さん」
唐突に名前を呼ばれた。
オレが顔だけを向けて新庄を見ると、似たような身長の彼とは目線が同じ高さになった。
「・・・・なんでしょう?」
するとおもむろに新庄はにっこり微笑んでみせた。
「青山さんの記憶が、はやく戻るといいですね」
なんの変哲もない、見舞いの言葉だった。
けれど、新庄のにこやか過ぎるセリフには何かが含まれているようにも感じ、その醸し出すニュアンスが、なぜだか大いに引っ掛かってしまう。
「ありがとうございます・・・」
礼儀上オレはそう応えたが、内心では、その大きな引っ掛かりが不安に変わっていくのを止められなかった。
「新庄さんも、お気をつけて」
新庄なんかほっぽって一秒でもはやく弥生の家に入りたいところを、冷静のフリして挨拶でしめたオレは、必要最小限の会釈だけして急ぎ足で門をくぐった。
なぜだか、どうしようもない不安に駆られたのだ。
そして勢い任せに玄関引き戸を開けた。
ガラガラガラと騒がしい音がして、オレの帰宅は家の中にいる弥生に伝わったはずなのに、なんの反応も気配もない。
オレは弥生の靴がきちんと揃えられているのを確認して、弥生がこの家の中にいるという事実に安堵しつつも、なぜ自分がこんなに不安に感じてしまうのかが分からなかった。
「弥生?二階か?」
やや大きめの声で呼んでみるも、返答はない。
オレは乱暴にサンダルを脱いで家にあがった。
「弥生?!弥生、どこだ?!」
スポーツバッグを放り投げ、慌ただしく家じゅうに叫んだ。
居間、ダイニングキッチン、客間、洗面所、風呂、トイレ、二階に上がって弥生の部屋、その他の部屋もあるだけの場所を探したが、弥生はどこにもいない。
「・・・・・弥生・・・・・」
玄関に靴があったから外に出たわけでもなさそうなのに。
一向に見つからない弥生に焦れたオレは、ハッと思い出し、デニムの後ろポケットからスマホを取り出した。
電話には出ないようにと話していたが、着信画面にオレの名前が表示されればきっと出るだろう。
期待を込めて弥生に掛けた。
1コール、2コール、3コール・・・・
6コール目の途中で、呼び出し音は途切れた。
「もしもしっ?弥生?」
向こうが何も言わないうちに、オレは食い気味に呼びかけた。
「弥生?弥生、今どこにいるんだ?」
応答のない弥生に焦る思いが増す。
オレは嫌な汗が額を垂れていくのに気付いていた。
「おい、弥生?!」
もう一度呼ぶと、電話の向こうで、微かに衣擦れの音がした。
「・・・・・・すみません、諒さんの帰りを待ってる間に、自分でもアルバムを探してみようと思って・・・・」
「それで、今どこ?」
「あの、裏庭にある物置・・っていうんですか?大きなプレハブの中にいます」
聞くや否や、オレは今から裏庭に飛び出していた。
縁側の踏み石には二つあったはずの外履きサンダルが一つしかなく、そんなことも見落としていた自分が、よほど慌てていたのだと実感する。
広い裏庭の端の一角にはプレハブ小屋があって、その子供部屋一つ分くらいの広さにシーズンオフの物や使わなくなった日用品、非常時の荷物が収められていることを、オレは弥生が退院して帰ってきた日に説明していたのだった。
プレハブ小屋まで駆けていくと、扉が開け放されていて、中からは細い光が漏れていた。
「・・・弥生?」
声をかけながら中を覗くと、細い光がこちらに向けられた。
弥生が懐中電灯の灯りをオレに向けたのだ。
「あ・・・・諒さん」
暗い中、ホッとしたようにオレの名を呟いた弥生を抱きしめたいと思っても、誰にも責められないと思う。
オレはそんな衝動を見逃すために、奥歯を噛み締めた。
「こんなとこにいたのか」
別に怒ったわけではなかったのだが、ぶっきらぼうな言い方になってしまう。
弥生がここにいた安堵感と、あんなに焦ってた自分を恥ずかしく思う気持ちが、弥生に対してそんな口調にさせたのだ。
だが弥生は、オレが怒っていると感じたのだろう、まるで叱られた犬のように、あからさまにしゅん・・としてしまった。
「いや、別に責めてるわけじゃないから。家じゅう探しても姿が見えなかったから心配しただけで・・・・・」
オレはそう説明したが、弥生はまたもや力弱く、
「心配かけてしまって、すみませんでした・・・・」
と謝るだけで。
オレは、すっかり元気をなくしてしまった弥生を取りなすように、必要以上に明るく話しかけた。
「それで、アルバムは見つかった?」
「いえ・・・・」
「じゃあさ、オレ家から持ってきたから、それを見なよ。ここ暗くて埃っぽいし、はやく戻ろう?」
なるべく優しく言って、弥生の懐中電灯も優しく奪い取って、オレは弥生を促した。
オレの誘いに素直に従ってくれた弥生だったが、まだ、どこか心が落ち着かない・・そんな様子を見せていて、
それが、オレの気持ちをまた不安に引きずり込もうとしていた。