誰もいない海 (1)
「え?海・・・・・?」
次の日の朝、朝食の片付けを一緒にしていると、弥生が海に行ってみたいと言ってきた。
「はい。近くにも浜辺があるみたいなので一人で行こうかと思ったんですけど、昨日みたいに誰かに声をかけられたらうまく誤魔化す自信ないので・・・・。もしご迷惑でなければ、諒さんに一緒に行ってもらいたいんですけど・・・・・」
弥生が皿を洗い、オレが拭いてしまう。一足先に作業を終えた弥生がタオルで手をぬぐいながら遠慮がちに頼んできたのだ。
「全然迷惑なんかじゃないよ。じゃ、これが終わったら出かけよう。昼過ぎになったら暑いから」
そう答えたオレに、弥生は嬉しそうに笑った。
オレが弥生を連れてきたのは、家から歩いて五分ほどの浜辺だった。
ここは遊泳も釣りも禁止になっていて、水道もなければ駐車場もないので、たまに地元の人間が散歩したりする程度の、穴場と言えば穴場の浜辺だ。
この浜辺はオレと弥生がよく来た場所で、そういえば、弥生が東京に行く前、最期に話したのもこの浜辺だった。
「ここ、よく来てたんだ。夜中に二人で花火したこともあったな」
波打ち際を沿って歩く弥生に、オレは後ろから話しかけた。
弥生はくるりとロングスカートを揺らして振り返り、「夜中に?」と不思議がった。
「そう。夏の終わり頃・・・っていうかもうほとんど秋だったかもしれないけど、弥生が余ってた花火を見つけてきて、夜遅くに電話してきたんだよ。オレはその日はもう遅いから今度にしようって言ったんだけど、運悪く次の日から天気が悪そうでさ、台風の影響だったかな?それで、仕方なく夜中にやったんだ」
「へえ・・・・なんだかちょっと楽しそうですね」
「楽しいというか・・・・まあ、懐中電灯片手にちょっとしたサバイバルだったけど、何がひどいって、台風が近かったから風がすごくて。めちゃくちゃ煙たかったんだよ」
眉間を寄せて言うオレに、弥生はクスクスと笑い声を転がした。
だがすぐに、その笑顔は消えてしまう。
「・・・・・でもそれも、今私が覚えていたら、きっといい思い出になってたんですよね・・・・」
寂しそうに呟いた弥生の足の甲を、バシャ・・・と波が被さっていった。
「・・・・・そんな思い出でよかったら、また作ったらいい」
気が付いたら、オレはそんなことを言っていた。
「え・・・?」
「いや、だから・・・・うん、そんな思い出なら、これからいくらでも作っていったらいいよ」
今度は、意識してそう言った。
弥生のこれまでの十八年間の思い出がなくなったとしても、これから新たに作っていくことはできる。
今日の出来事は、明日になったら立派な思い出になるのだから。
「オレ、いくらでも協力するから」
明るい口調で弥生を元気づけてやろうとした時、少し離れた護岸コンクリートを浜辺に降りてくる人の姿が目に入った。
どうやら犬の散歩に来たようだ。
オレは弥生が怖がらぬよう、その人物との壁になる位置にさりげなく移動した。
犬の散歩なら、とどまることなくすぐに通り過ぎるだろう。
そう思ったのだが、近くまで来たその人物がなにやらこちらの方を見てくる。
そして、
「やっぱり!諒じゃん!久しぶりー」
能天気な聞き覚えのある声で、呼びかけられたのだ。
「・・・・・光二?」
よく見ると、中学の同級生だった。
オレと弥生は小中高と同じだったので、こいつは当然弥生のことも知っている。
オレは厄介なヤツに会ったなと、思わず舌打ちしたくなった。
そして小声で弥生に、
「中学ん時の同級生だ」
と教えてやった。
「お、青山も一緒じゃん。相変わらず仲良いよな、お前ら」
昔っから底抜けにバカ明るかったこいつは、悪いヤツではないがデリカシーに欠けるところがあった。
高校はオレ達とは別の学校に進んだが、家が近かったのでオレはたまにつるんでいた。弥生は高校以降はあまり顔を合わせていなかったが、大学が弥生と同じ東京組なので、卒業間近には互いに情報交換をしていたようだ。
流行やお洒落に敏感で、中学生の頃から香水を愛用するようなヤツだったので、東京の情報も豊富に持っていたらしい。
「青山?どした?」
話しかけても反応が鈍い弥生の顔を、光二は覗き込んだ。
「あー、悪い、こいつ今寝起きでさ。ちょっと機嫌悪いんだよ」
いつもと様子が違う弥生を不審に感じられないよう、オレはどうにか誤魔化そうと思った。
弥生の症状が長期化するならば、隠したりせずに対応策も練っていく必要性もあるが、まだ親にも報告できていない現状では、打ち明ける人間は最小限に抑えた方がいい―――――――――――――――
昨日の夜、しょうが焼きを食べながら二人で話し合って決めたのだ。
「青山って寝起き悪かったんだ?でもそういうお前は異常なくらい寝起きよかったよな。修学旅行の時だって、いっちばん早く起きて同じ部屋のやつらから大顰蹙でさー」
「いつの話してんだよ」
地元で同級生に遭遇すると、たいていこの手の話になる。
あの時あいつがああだったとか、誰々先生がどうなったとか、過去を懐かしみつつ、他人の近況をネタにしたりして、ほぼパターン化された会話が繰り広げられるのだ。
よそにいて、休暇か何かで地元に帰ってきた連中はそんな会話を楽しめるのだろうけど、ずっと地元にいるオレにとっては、その繰り返しに些か飽きが出てくる。
今年のゴールデンウイーク、進学でこの町を離れてたやつらがこぞって帰省してきて、会う度に似たり寄ったりな会話運びになるのが少し疲れてしまったのだ。
光二はアハハハと大声で笑うと、オレの後ろに隠れるようにして立っている弥生に一歩近付いた。
「青山はいつまでこっちにいるんだ?」
訪ねられた弥生は少々強張った様子で、けれど、「・・・・まだ決めてないから・・・」と答えた。
「そうかー。俺向こうでバイトあるから来週には戻んなきゃならないんだよなー。実家に来ると楽を覚えるから、戻りたくなくなるよなー?」
「そう・・・・かな?」
「あそっか、青山は親がいない時よく諒の飯とか作ってやってたんだっけ。それなら家事も得意か。俺なんて米炊くのも最近覚えたばっかでさー」
オレは弥生と光二の間に入ってやるつもりでいたが、ぎこちないながらもやり取りは成立していた。
光二は細かいことを気にするタイプではないので、弥生のぎこちなさも、オレが嘘吐いた ”寝起きだから機嫌が悪い” せいだと信じて疑わないのだろう。
けれどなぜか、オレはそんな二人の光景に違和感を感じてしまう。
弥生が記憶をなくしてからというもの、ところどころでこんな違和感を抱くことがあったが、その原因も正体も曖昧で、オレはモヤモヤしたものを胸に残していた。
「ま、いいや。そのうち可愛い彼女が俺のために料理してくれる日がくるはずだから」
冗談風に言った光二に、弥生も自然と笑って返せた様子で、オレは誰にも知られずに細くため息を吐いた。
光二は「また連絡するよ」と言うと、ソワソワしはじめた犬を連れて帰っていった。
「・・・・弥生、大丈夫?あいつおしゃべりだから・・・・」
オレは光二の姿が護岸コンクリートの向こうに消えてから、弥生に向き直った。
すると弥生もオレと同じように光二の後ろ姿を追っていたようだが、そのままじっと、海に背を向けたまま一点を見つめていた。
「・・・・弥生?」
光二の消えた方を見つめたまま、うんともすんとも言わない弥生に、オレはもう一度声をかける。
「どうした?弥生」
オレが上腕に触れて軽く体を揺さぶると、弥生は前を向いたまま、
「私、あの人のこと・・・、全然思い出せなかった・・・・・・」と言った。
オレは弥生の様子に、心が、じわりと焦り出すのを感じた。
「そんなの仕方ないって。さっきも言っただろ?思い出せないなら、これから思い出を作っていけばいいって。それにあいつは高校は別だったから、弥生とはそんなに仲良いわけでもなかったんだ。だから思い出せなくたっておかしくないんだ。逆に、オレのことを思い出してないのにあいつのことを思い出したりしたら、ショックだよ」
ちょっと拗ねた風を装ってみたけれど、今の弥生には効かなかった。
「・・・・・・でも、私はこの海に来たことも覚えてないんです」
弥生はロングスカートを両手でたくし上げたが、ちょうどひと際大きな波が押し寄せてきて、足首辺りまでが海に浸かった。
同時に、素足でサンダルだったオレの足も波に覆われる。
ひいていく際の砂に濁る感触が気持ちよかったが、弥生は、その感触も、そして下がっていく波すらもはじめて見るかのような、切ない眼差しをしていた。
「・・・・・私の記憶の中の海には、誰もいないんです」
弱く弱く、けれどもオレに伝わるような強さで、弥生が訴えた。
オレはそれを聞いた途端、何かが弾けたような、発作的な焦燥に襲われた。
「・・・に言ってんだよ・・・・・何言ってんだよっ!」
声を荒げたオレに、弥生は驚いてスカートを握っていた手を放した。
「記憶がなくたってお前は青山弥生なんだよ!誰がなんと言おうと、お前本人がなんて言おうと、青山弥生は青山弥生なんだ!オレのたった一人の幼馴染の青山弥生なんだよっ!
さっきここで二人で花火したて言っただろ?花火だけじゃない、ここで学校帰りにアイス食ったり、借りてきたCDを一緒に聴いたり、冬には焚き火だってしたし、いろんな話をしたんだ。相談したこともあったし、ケンカしたことだってあった・・・・・
お前が全部忘れたとしても、オレは全部覚えてる!
お前が思い出せないって言うんなら、オレが全部、いちいち教えてやるよっ!
オレが知ってるお前は、ここにちゃんとここにいるっ!!
――――――――――――ここは、誰もいない海なんかじゃないっっ!!!」
感情のままに吐露したような、オレの想いだった。
記憶がなくて不安でいる弥生を怖がらせてはいけないと、堪えて、努めて明るく振る舞っていたオレの理性の線が、切れてしまったのかもしれない。
オレだって、本当は不安なんだ。
依然として親には連絡つかないし、弥生のことを守ってやりたいと思っても、あの新庄とかいう男にその役目を奪われたらどうしようとか、そんな情けないことを考えては気弱になる。
幼馴染という自負はあっても、ただそれだけなんだ。
家族同然であっても決して家族ではないし、恋人でもないんだから。
だって現に、この四カ月、弥生と連絡しなくてもオレの日常は問題なく過ぎていったのだから。
幼馴染。
そんな、近いのか、本当はそんなに近くもないのか、価値観次第ではどうにでもなってしまうような脆い関係は、
弥生が弥生であることを拒否すれば、
すぐさま粉々に砕け散ってしまう気がした――――――――――――――――
オレは感情の高ぶりに息まで激しくなっていたが、一度、深めの呼吸をした。
そして、スカートの裾を海で泳がせている弥生を見つめた。
「昨日・・・・・、昨日作ってくれたしょうが焼きさ、・・・・美味かった」
「え・・・?」
弥生は、風にあおられ自由自在になびく髪をそのままに、尋ね返してくる。
「昨日作ってくれたしょうが焼き、前とおんなじ味がしたんだ。だから・・・・大丈夫だ。きっと」
しょうが焼きなんて何の証明にもならないけれど。
それでも、そんな些細なことでも希望に結び付けたかった。
「・・・・・・諒さんは、私のこと、何でも知ってるんですか・・・・・?」
そう言って、眉を曇らせる弥生。
その質問は頼りなさげで、脆弱で、オレの本能に刺激を与えてきた。
好き勝手に吹く風に、弥生のくせ毛はクシャクシャになっていて、
オレは、それを手のひらで撫でてやった。
無意識のうちに、そうしていた。
まるで引き寄せられるように、
呪文でもかけられたかのように、
オレの意思の外の部分で、弥生の髪に、触れていた。
オレは、弥生のことをすべて知っていたい。
知っているつもりでいた・・・・・・四カ月前までは。
でも今は、弥生のこと、なんでも知っているわけではないのだ。
離れてしまった四カ月は、オレのまったく知らない弥生なのだから。
「・・・・・諒、さん?」
弥生が戸惑いを見せ、そこでオレは正気に戻った。
「あ・・・ごめん」
すぐに手を離したが、オレ達の間には妙な空気が生まれてしまう。
弥生は「いえ・・・」と、何ともないような反応をしてくれたが、頬は赤みが増しているように見えた。
照れているだけではなく、困惑の極致のような顔をしている弥生に、オレは申し訳ない気持ちがどっと押し寄せてきた。
本能で ”弥生を守りたい” ”弥生に触れたい” と感じたからといって、今の弥生にそれが通じるはずないのに。
そもそも、ただの幼馴染でしかないオレに、そんな資格はないのに・・・・・。
オレは、もっと早く気持ちを打ち明けていればと、今とてつもなく後悔していた。
もっと素直になっていれば、
プライドなんか捨てていれば、
劣等感なんか感じなければ、
オレも一緒にいたい、そう伝えていれば・・・・
拭っても拭っても湧き上がってくる後悔達が、胸に痛い。
自業自得のくせに。
幼馴染という柔い関係に胡坐をかいて、その居心地の良さに甘んじて、
一歩を踏み込む勇気すらなかったくせに。
・・・・・いや、大本を辿れば・・・・・
「オレも受かってれば、ずっと一緒だったんだよな・・・・」
心の中で呟いたひとり言だったはずが、
「え・・・?今なんて言ったんですか?」
思わず口から洩れていたらしい。
けれど幸いなことに、勢いを足していく海風がオレのひとり言を巻いてくれて、弥生には届かなかった。
弥生は乱れる髪を片手で押さえながら、もう一度訊いてきた。
「諒さん、今なにか言いましたか?」
「いや・・・・なにも言ってないよ。」
こんな泣き言、弥生に教えられるはずもない。
オレは波と砂とで濡れた足を手で払いながら、
「それより、そろそろ日射しがきつくなってきたし、帰ろうか。」と、話題を変えたのだった。