コロッケと、しょうが焼き
次の日は、コンコンコン・・・という、硬い音に起こされた。
目が覚めて、オレは自分がどこにいるのかが一瞬分からなかった。
自分の家ではない天井と、顔のすぐ横にある畳の感触。
壁に掛かったカレンダーは占い付きの日めくり式で、それで、オレはここが弥生の家であると思い出した。
弥生のおばさんが占い好きだったのだ。
ジジジジ・・という扇風機が回る音がしている。
これはオレが昨夜つけたまんまだった。
けれど夏の朝、扇風機だけでは快適といえず、オレは額と背中に汗を感じた。
ゆっくり起き上がると、反動で、枕代わりにしていた二つ折りの座布団が開いていく。
どうやら、またしてもオレは寝落ちしていたようだ。
弥生を部屋に運んでから、旅行代理店に電話をしたがやはり繋がらなくて、それから戸締り確認をして、居間に戻ってからはなんとなく深夜番組を観ていた・・までは覚えているのだが、そのまま寝てしまったらしい。
オレはちょっとだけ痛くなった首を片手で揉みながら、居間と引き戸で仕切られたキッチンダイニングを覗いた。
十畳ほどのキッチンダイニングでは、弥生が何か作業をしていた。
さっきの音は、包丁でネギを切る音だったのだろう。
まな板の上から少しはみ出た緑色がその証拠だ。
コンロへ、流しへ、と横移動する弥生の後ろ姿はとても自然で、このキッチンに慣れ切っている動きに感じた。
俄かに、弥生の記憶が戻ったのではと期待が生まれる。
「何作ってんの?」
おはよう、を省略して、オレはいつものように声をかけてみた。
すると弥生が、ビクッと背中を震えさせ、振り向いた。
「あ・・・・・おはよう、ございます」
その一言で、すぐさま淡い期待は幕をおろした。
「・・・おはよう。もしかして朝飯作ってくれてるの?」
オレはがっかり感が滲み出ないように注意しながら尋ねた。
「はい。昨日麦茶のパックを見つけた時に気付いたんですけど、なんとなく、このお台所の使い方とか物の在りかは分かる気がしたので・・・・あ、もしかしてうるさい音で起こしてしまいましたか?」
焦った様子で訊いてくる弥生。
オレは首にやっていた手を目の前で大きく振ってやった。
「全然。どうせもう結構な時間だろ?起こしてくれてよかったよ」
時計を確認したわけではないが、この暑さで早朝なわけはないだろう。
それよりも、オレは弥生がここのキッチンを問題なく使えていることに決して小さくはない驚きを感じていた。
キッチン云々は万国共通だとしても、小道具や調味料などは、この家に慣れているはずのオレでさえ把握しきれていないのだから。
けれど弥生は、平然と調理できているのだ。
パッと見では、味噌汁、卵焼き、野菜の浅漬けが準備されている。
記憶をなくしている状態で、こうも手際よく作れてしまえるのだろうか。
「それならいいんですけど・・・あの、朝食はどちらで召し上がりますか?昨日みたいに居間の方に運びましょうか?」
ごく自然にそう尋ねてくる弥生に、オレは、記憶が本当は戻ってるんじゃないかと、思わず邪推しそうになった。
だが、トレイの上、弥生が揃えた朝食の中に納豆を見つけると、邪推はすぐさま消え去った。
オレは、納豆が大の苦手だったのだ。
「・・・・もしかして、納豆、お嫌いでした?」
居間の座卓で朝食をとっていると、遠慮がちに弥生が言った。
オレがいつまで経っても納豆に手をつけようとしないのを不思議に思ったのだろう。
「あ・・・・うん、ごめんね、オレ、食べたことないんだよ。ちょっと苦手で・・・」
すると弥生は風船が萎んでしまうように意気消沈し、「すみません・・・・・」と納豆をかき混ぜる箸をとめた。
「いや、気にしないで。むしろオレ、ちょっと嬉しいくらいだから」
「嬉しい、ですか・・・?」
「だって弥生がなんの疑いもなく納豆食べてるからさ。弥生は納豆が大好物だったから。そこは変わってないんだなって・・・・」
好みがくっきり表れがちなものを、以前と違わずに好きだと思う気持ちに、オレは慰められた気がしたのだ。
そんなオレの想いを感じ取ってくれたのか、弥生は僅かに微笑んで返してくれた。
だがその時、ふと違和感が走ってしまい、オレは、やっぱり笑い方一つでも以前とは違うと感じてしまう自分にため息吐きたくなった。
弥生はまた納豆を混ぜはじめながら口を開いた。
「あの・・・・、昨日、諒・・さん、からお話を聞いて、思ったんですけど、家族がみんな旅行で留守なのに私が帰省したのって、諒さんのお食事を用意するため、だったんじゃないですか・・・?」
まだオレの名前は呼びにくそうだが、それでも何とか会話をしようとしている弥生が、なんというか、いじらしく見えた。
「そうらしいね。オレも親達から聞いただけだけど、前から親が不在の時は弥生が家のことをやってくれてたんだよ」
「それじゃあ、予定通り私がご飯の用意しますよ」
お台所使うのも大丈夫でしたから。
そう提案した弥生はほんの少し自信を得たような顔をしていて、オレは素直にお願いすることにしたのだった。
キッチンの使い勝手は問題なかったとしても、冷蔵庫の中身については問題アリで、朝食を終えたオレ達は買い出しに行くことにした。
オレの車の助手席に座った弥生は、どこか落ち着かない様子で足元とか、シートの背もたれとかをきょろきょろ見ている。
「・・・どうかした?」
昨日もこの車で帰って来たのに。
そう思ったオレは、車を走らせてすぐに声をかけてみた。
「いえ、あの・・・昨日は海にばっかり目がいってたんですけど、改めて見たら、この車が・・・かっこよすぎるせいか、なんだか緊張してきちゃって・・・・・」
弥生がほんのり赤面しながら答えると、オレにまで緊張がうつってしまいそうで、オレは無理やり明るく笑い声をあげて誤魔化した。
「かっこよすぎるって・・・・いたって普通の車だと思うけど?」
中古の黒のSUV。車内も黒一色の内装だが、特にこだわって弄ったりはしていない。
「この町は車がないと不便だから、オレが十八になってすぐ夏休みに免許取ったら、親が買ってくれたんだよ。ま、出世払いでいつか金返せよ、なんて言われてるけどさ」
オレがちょっとおどけて説明すると、弥生が纏っていた雰囲気も柔らかいものになっていく。
「諒さんは、夏生まれなんですね」
「うん、そう。弥生は文字通り三月生まれだからずっと免許取れなくてさ、オレの運転練習を兼ねたドライブによくくっついて来たんだけど、『諒ちゃんだけズルいっ!』て、いっつも言ってたっけ。」
「私、そんなことを・・・・」
弥生は恥ずかしそうに、シートベルトをきゅっと握った。
「そのくせ、あそこの海に行ってみようとか、どこどこのショッピングモールに連れて行ってとか、リクエストはどんどん言ってきたよ」
オレが追加エピソードを話してやると、弥生は思い切り恐縮したように俯いてしまう。
そんな姿は以前の弥生にはあまり見られなかったことで、、オレの目には新鮮に映った。
「なんだかお話を聞いてると、私、ずいぶん諒さんに甘えていたんですね・・・」
「そりゃそうさ。幼馴染なんだから」
オレがごく当たり前だという風に言うと、弥生はハッとして顔を上げた。
「・・・・そう、なんですか・・・・?」
そして恐々と、横からオレを見つめてくる。
オレは運転しながらちら、と助手席を見遣った。
そしてドキリとしてしまった。
太陽の光に照らされた弥生が、
まぶしいほどに、綺麗だったのだ。
「あ・・・・」
「・・・・?」
「いや、なんでもない・・・・」
まさか、見惚れていたなんて言えるわけもない。
オレは平生を装い言葉を濁すと、運転に意識を戻す傍ら、適当に話題を変えたのだった。
うちから一番近いスーパーはこの地方にチェーン展開されている店で、郊外型の大きなものだった。
オレにとっては通い慣れた馴染みの店だが、今の弥生にははじめて訪れる場所であり、その広さに怯んでしまうのではないかと若干心配したが、思いの外、弥生は順応性を見せていた。
食品売り場をゆっくり見て回る様子は、どう見ても地元の人間である。
だからオレは、油断していたのかもしれない。
会計を済まし、商品を袋詰めしたオレ達は、食品売り場横に併設されている肉屋の前を通りかかった。
そして弥生がその店の隅で売られているコロッケに興味を持ったようなので、遅い朝食をとった後あまり腹が減ってなかったオレは、昼飯代わりにコロッケを買って食べながら帰ろうか、と提案したのだ。
オレの提案に弥生は素直に頷き、オレは牛肉コロッケを五つ買った。
三つある買い物袋をすべて引き受けたオレに代わって、弥生がコロッケを受け取り、その中から一つを食べやすいようにナプキンでくるんでオレに渡してくれた。
行儀が悪いとは思ったが、オレ達は車に戻りながらも熱々のコロッケを頬張っていた。
もともとここのコロッケはオレ達二人のお気に入りで、学校帰りにもよく一緒に買い食いしていたものだ。
だが、ふと、オレは違和感に襟後ろを引っ張られた気がして、立ち止まった。
隣を見ると、両手でコロッケを持ち、ふうふうと、熱心に息をかけて冷ましてから、美味しそうに齧る弥生。
片腕に、残りのコロッケが入ったビニル袋を掛けている。
弥生は猫舌で、熱いものに対しては必要以上に警戒を持つクセがあったのだ。
オレは違和感の正体も原因も分からなかったが、今朝も食卓で違和感を持ったことを思い出した。
今の弥生の、”記憶がないのに以前と変わらない姿” に、無意識のうちに違和感を芽生えさせてしまうのだろうか。
「・・・・諒さん?」
急に立ち止まったオレに、弥生も足を止めていた。
「あ、ごめんごめん」
オレはひとまず違和感のことは置いておくとして、弥生のもとに駆け寄った。
そして車のキーを操作した時、
「あら、弥生ちゃん?」
背後から、声をかけられた。
オレのすぐ傍にいた弥生はかわいそうなほどにギクリ、と身を竦ませ、オレは弥生を庇うようにして振り返った。
声をかけてきたのは、オレ達の家の近所に住む顔見知りの女性だった。
「あ、おばさん、こんにちは」
オレはいたって普通に挨拶する。
母の友人でもあるこの女性は、子供が独立してからは、オレや弥生をとても可愛がってくれていた。
「諒くん、弥生ちゃん帰ってきてたのね。そういえば青山さんと高安さん海外旅行に行くって言ってたものね。じゃあ、いつもみたいに弥生ちゃんが諒くんのご飯の面倒みてるのかしら?」
いつもと同じように、女性は感じよく話しかけてくる。
だが、今の弥生は当然この女性のことなど覚えていない。
オレは愛想笑いをこしらえると、
「そうなんです。大学が夏休みになってすぐに帰ってきてくれたみたいで・・・・・あ、すみません、おばさん。オレ達ちょっと急ぐので、今日は失礼しますね。な?弥生」
そう言って弥生に、オレと合わせるよう目配せした。
オレの意図は伝わったみたいで、弥生は「すみません、・・・失礼します・・・」と小声で女性に言った。
「あら、急いでるとこごめんなさいね。それじゃ、また今度東京の話聞かせてね。ふふ、でも、そのコロッケを二人で食べてるの見ると、懐かしいわね。あ、引き止めちゃってごめんなさい。それじゃあね。」
女性は気にした風もなく、機嫌よく手を振っていった。
オレは弥生を助手席に乗せ、後部座席に買い物袋を置くと、すぐに車に乗り込んだ。
弥生はコロッケを握ったまま、肩を落とし、俯いていた。
「弥生・・・・?大丈夫?」
頼りない横顔にそっと尋ねると、弥生は静かに頭を起こした。
「私・・・・今の人のこと、全然知らなくて・・・・・・」
「そんなの当たり前じゃん」
間髪入れず言ってやったが、弥生は微かに首を振った。
「それはそうなんですけど・・・・・・改めて、私のことを知っている人と会ってみると・・・・・自分の記憶がないことを実感したというか・・・・・・・ショック、で・・・・」
なんとか言葉を紡ぐ弥生だったが、傷付いているということは、痛いほどに伝わってきた。
オレはそんな弥生を抱きしめて慰めてやりたくなったけれど、今の弥生にそんなことはできないと、グッと、気持ちを引き下げた。
その代わりに、少しでも早く、家に連れて帰ってやろうと思った。
「大丈夫だよ。弥生は、弥生だから」
オレは短く言うと、すぐにアクセルを踏んだ。
それが、今のオレにできる精一杯の愛情表現だと信じて。
家に着くと、弥生は少し休みたいと言って部屋に上がっていった。
オレは気落ちした弥生が心配になったが、弥生は「ちょっと休めば平気です」と言うので、しばらくそっとしておくことにした。
買ってきたものを片付け、余ったコロッケを皿に移してラップを掛けてから居間で麦茶を飲んでいると、庭から聞こえる蝉の泣き声がうるさく響いてくる。
一人きりの居間で、おかしな静寂が訪れるよりはマシか、そう思っていると、前触れもなくインターホンが鳴った。
突然の訪問者を訝しく思いながらもモニターで確認するが、そこには誰も映っていなかった。
設置場所からして、インターホンを押してから後ろに下がってしまうとたまにカメラに入らないことがある、と聞いたことがあったオレは、今回がそうなのだろうと、直接玄関に出ることにした。
玄関の引き戸を開くと、少し離れた門の前に、あの男が立っていた。
病院で会った時と同様、ダークな色のスーツを着ている。
オレと目が合うと、軽く会釈をしてきて、オレは、動揺が走り出さないように扉に触れていた手に一度力を込めて、そして離し、会釈を返した。
「こんにちは。新庄さん、でしたよね」
オレが門まで出て行くと、新庄という男も「こんにちは」と丁寧にまた頭を下げた。
”仕事ができそう” という風情は変わらずだ。
病院で会った時とは違いビジネスバッグを持っているので、もしかしたら仕事の途中なのかもしれない。
やはり肌の色は日本人離れしているように感じたが、青白いというわけではなく、むしろ精悍な印象を受ける。
ただオレは、まさか新庄が弥生の実家にまで来るとは思ってもいなくて、
記憶をなくす前の弥生は新庄に実家の住所まで教えていたのかと、決して穏やかではない感情が忍び寄ってくるのを感じた。
「青山さんのお加減はいかがですか?」
「相変わらずです。今は、ちょっと疲れたみたいで休んでますけど」
お会いになりますか?
その意味を含んで答えたが、新庄はすぐに「そうですか。では、また伺います」と、まるで今にでも踵を返しそうな態度をみせた。
オレは思わず、
「あのっ、」
と引き止めていた。
「なんでしょう?」
「・・・・・弥生に会うために、わざわざ弥生の実家まで来たんじゃないんですか?」
いくら近くで仕事があったからとはいえ、こんな風に何度も訪ねてくるなんて、ただの知り合いというい関係ではないように感じてしまう。
それなのに、新庄は弥生に面会を求めるわけでもなく、休んでいると知るや否や帰ろうとするなんて、その態度は矛盾だらけだ。
オレの質問に新庄は余裕ある表情を少しも崩さず、
「様子を見にきただけですので」
目を細めて柔和に告げた。
「それに私と顔を合わせたところで、もしかしたら青山さんを混乱させてしまうかもしれませんし」
「でも弥生、キッチンで、どこに何があるか覚えてたみたいなんです。それに、コロッケが好きなのも、猫舌なのも以前と同じでした。だから・・・・・」
”だから、もしあなたに会ったら何か思い出すかもしれません”
危うくそう口走ってしまいそうになり、すんでのところで飲み込んだ。
みすみす敵に塩を送るところだった。
だが新庄は、オレが曖昧に消した語尾よりも、弥生の記憶についての情報が気になるらしい。
「それは本当ですか?青山さんはまったく何も覚えていないというわけではないんですか?」
思ったよりも強い圧で問われて、オレは若干体を後ろに反らしてしまう。
「ええ・・・、そうですね。たぶん本人も無意識なんだと思いますけど・・・・」
「それでは、あなたのことも思い出しかけてるんですか?」
新庄は更に強く、重ねて訊いてきた。
その形相が驚きに満ちていて、オレの方がたじろいでしまう。
「いえ・・・・オレのこととか、今日たまたま知り合いに会ったんですけど、その人のことは全然思い出せないみたいで・・・・・」
どうしてオレが、こんなにしどろもどろにならなければならないんだ。
そう思いながらも、新庄の意外な様につられるようにオレのテンポも崩れてしまう。
だが新庄の方は急に納得したのか、「そうですか」と我に返ったように、冷静に返事してきた。
勝手にクールダウンされて唐突感はぬぐえなかったが、オレは、
もしかしたら新庄は弥生の記憶が戻るとまずい事でもあるのだろうかと、
そんな穿った考えが頭に浮かんだ。
「記憶というのは引き出しのようなものだと聞きますから、青山さんの引き出しは中身が空っぽになってしまったのではなく、立て付けが悪くなっているのかもしれませんね」
新庄はそんな慰めにも励ましにもとれるようなことを言うと、やはり弥生に会うことはせず、帰っていったのだった。
新庄が帰ったあと、しばらくして弥生が二階から降りてきた。
少し眠ったら落ち着いたと言う弥生は、確かに少しはスッキリした顔つきをしていた。
オレは、弥生を混乱させないため、新庄のことは伏せておくつもりでいたが、さっきの新庄の様子をみていると、何らかの探りを入れてみた方がいいのかもしれないなと、考えを改めていた。
たとえ記憶がなくとも、スマホや手帳に新庄の形跡があるかもしれない。
そう思ったオレは、すぐに夕食の準備に取り掛かると言った弥生を呼び止めた。
「さっき弥生が休んでる間に、男の人が訪ねてきたんだ。その人は病院にも見舞いに来てて、ちょうど弥生が寝てる時だったから面会しないで帰っていったんだけど、・・・・・その人、新庄って名前なんだけど、弥生のスマホに登録されてない?」
平気な顔して尋ねながらも、オレは内心で、弥生が新庄という名前を聞いても無反応でいますように・・と祈っていた。
オレの祈りが通じたのか、弥生は黙ってオレを見上げ、
「新庄さん、ですか・・・・・?」
そんな名前に聞き覚えはないという態度を見せてくれた。
そしてスマホを操作していたが、
「・・・・・・新庄さんというお名前は、アドレス帳には登録していないみたいです」と言い切った。
「そっか、ならいいんだ。その人、仕事の関係で弥生と知り合ったって言ってたから、もともとそんなに親しいわけじゃなかったのかもしれない。変なこと訊いてごめんね」
弥生の回答に胸を撫で下ろすも、それはまさしく、オレが新庄という男に不信感を抱いた瞬間だった。
オレが最も怖れていた、”新庄と弥生が親しい間柄” という関係図は壊せたけれど、それならば新庄のポジションが掴めない。
オレはデニムパンツのポケットにしまった新庄の名刺を、今度一人の時に調べてみようと決めた。
弥生はちょっとだけ、自分を訪ねてきたというその男を気にしたようだったが、やっぱり思い出せないということで、気持ちを切り替えて夕食の支度に取り掛かっていった。
「何作ってくれるの?」
「今日お買い物してきた中から、適当に作ります。なんでもいいですか?」
「うん。納豆以外は特に好き嫌いないから」
「ちょっと待っててくださいね」
自分が料理上手だったということを身体で悟ったのか、弥生は少しだけ元気を取り戻したように言った。
キッチンに向かう弥生を見送ると、オレは手持無沙汰になり、もう半分諦めモードになっていた旅行代理店への連絡を試みた。
やはり、呼び出し音はするのに、誰も出ない。
これだけ不通だと他の連絡先にもあたってみようかと考えるが、どちらにしろあと五日ほどで親達は帰ってくるはずだし、弥生も記憶以外は問題ないようなので、このまま親達の帰宅を待ってもいいかという気もしてきた。
オレは通話を終了させると、何か手伝うことはないかと、キッチンに立つ弥生にお伺いをたてた。
その夜、弥生が夕食に作ってくれたのは、しょうが焼きだった。
それは、オレの大好物だった。