事故(2)
「すみませんっ!事故で運ばれた青山弥生の身内の者ですっ!」
オレはタクシーから転がり落ちるようにして総合病院に駆け込むと、自動扉が開き切るより前に大声で叫んだ。
午後の休憩時間に入っていたのだろうか、受付には一人の女性事務員がいるだけで、他には患者もいなかった。
「さきほど運ばれた女性の方ですね。少々お待ちください」
事務員はオレの尋常ではない様子にも驚くこともなく、まるで事故の関係者が慌ててやって来ると想定していたように冷静に対応した。
オレは受付カウンターまで駆け寄り、案内を待った。
女性事務員はどこかに内線で連絡をとっているようだ。
カウンターの上に置かれた、海青町マスコットキャラクターのぬいぐるみの笑顔が、妙に苛立った。
やがて電話で会話を終えた事務員が「すぐに警察の方が・・・あ、こちらです!」と言って立ち上がり、手を上げる。
同時にバタバタと騒がしい複数の足音が背後から聞こえて、オレは振り返った。
廊下の奥の方から制服姿の警察官と白衣を着た男性医師が早足でこちらに来るのが分かった。
「さきほど電話に出られた高安さんですよね?」
警察官の方が訊いてくる。
「はい、高安です。それで、弥生の容態は・・・・」
オレは医師に向かって急いて尋ねた。
だが医師は申し訳なさそうに表情を歪めると
「失礼ですが、青山弥生さんとのご関係を教えていただけますか。
警察の方のお話ですと、青山さんが携帯してらしたスマートフォンのアドレスで ”Family” のフォルダにあった番号はどれも不通で、次に ”Special” のフォルダにあったあなたの番号にかけたそうですが、
個人情報のこともありますし、お二人のご関係を確認させていただかないと、私も何とも申し上げられないんですよ」
医師の言うことはもっともだと思う。だけどこの緊急事態にと、苛立つ気持ちも起こってしまう。
オレは今持ってる物の中で弥生との繋がりを証明できるものは何だろうかと瞬時に考え、スマホのメーラーの受信BOXを開いた。
そして一通の保護メールを表示させ、医師に渡した。
それは去年の誕生日に弥生が送ってくれたメールで、その内容から、少なくともただの友達以上の親しさであることは分かってもらえるだろう。
「オレと弥生は生まれた時からの幼馴染で、高校までは一緒でした。弥生は大学進学で東京に行って・・・。
あ、これオレの免許証です」
頼まれてもいないのにオレは財布から免許証を取り出して警察官に渡した。
「弥生の家族と連絡つかないのは、今オレの両親と弥生の両親とで海外旅行に行ってるからで、確か、海外の設定がややこしそうだから全員スマホも携帯も切っておくって言ってました。
今すぐには分かりませんが、家に帰ったら旅行代理店の緊急連絡先も分かると思います。
あの、それで、弥生は無事なんですか?!」
オレは必死に説明した。
これで納得してもらえるかなんて分からないけど、とにかく、一刻も早く弥生の状態を確認したい気持ちがそうさせたのだ。
警察官と医師は互いに受け取った物を見せ合うようにしていたが、やがて二人とも頷いた。
「分かりました。そういうことでしたら青山さんのご家族への連絡は高安さんにお任せしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです!それで、弥生は・・・・」
尋ねた医師にかぶせるようにして答えたけれど、医師はスマホをオレに返しながらも、「それが・・・・」と言葉を濁した。
「家族じゃないから教えられないんですか?でもさっきも言ったみたいにオレと弥生は生まれた時からずっと一緒で、ほとんど家族みたいなものなんです!それでもダメなんですか?!」
だんだんと語調が荒っぽくなっていく。
オレは縋るように医師の両腕を握って揺さぶった。
「落ち着いてください、高安さん。そうじゃないんですよ」
オレを制したのは警察官で、彼はオレを医師から離すと免許証を返してきた。
「・・・・・そうじゃないって、どういう意味ですか?!」
スマホと免許証、両方を握り締めたままオレは医師と警察官に食って掛かった。
人気のない病院のロビーに響くオレの声。
考えたくはない。考えたくはないけれど、最悪の事態が頭をかすめた。
外は暑さのピークを迎える時刻で、さっきまでそのうだるような空気に汗をかきっぱなしだったオレなのに、今は、手先足先から冷えるような緊張が伝わってくるのを感じていた。
「いえ、つまり・・・・・」
警察官も医師も何と言ったらいいのか思案しているような様子で、オレの不安に拍車がかかる。
「弥生、生きて、るんですよね・・・・?」
あまりの緊張に、途切れ途切れになってしまう。
せめてそれだけでもと、オレは懇願にも似た気持ちで尋ねた。
ところが、医師からは予想外の答えが返ってきたのだ。
「ええ、ご無事です。アスファルトで擦ったような怪我はありましたが、命に別状はありません」
その様子とは逆にはっきりと告げる医師。
オレはへなへな・・・と緊張が抜けていく気がした。
”命に別状はない”
最悪の事態は避けられたと分かり、オレはとりあえず安堵の息を吐いた。
けれどそれならば、目の前の警察官と医師の態度はいったい何なんだろう。
職業柄、事故の対処なんて慣れているだろうに、この二人からはそんな手慣れた様子は見えてこない。
それどころか、今の状況に戸惑っているようにさえ見えるのだ。
オレは考えられる可能性をいくつか浮かべ、そして、ごくりと唾を飲んだ。
「・・・・命に別状がなくて怪我も大したことないなら、他に何かあるんですか?」
医師と警察官の双方を見つめて問う。
生きているならそれでいい。
オレはそう覚悟して尋ねたのだが、医師の、実に言いにくそうな雰囲気に、再び大きな不安に包まれる。
一旦は過ぎ去った緊張が、大きくなって襲ってきた。
やがて
「ここではなんですので、こちらへうぞ・・・」
医師がそう言ってオレをカウンセリング室に案内すると、ただ事ではないのだという確信に心臓が抉り取られそうになったのだった。
「―――――――――――――記憶喪失?」
想像を遥かに超えた内容に、オレは反射的に尋ね返していた。
「正確には逆行性健忘といいます。まだ詳しい検査をしていないので断定はできませんが、おそらく・・・・・」
小さな大学の講義室みたいな部屋で、コの字に置かれた簡易長机の角に座ったオレに、同じく角を挟んで座る医師が説明してくる。
オレの横では警察官が「こんなことは私どももはじめてでして・・・」と付け足している。
けれどオレは、いまいちピンときてなかった。
記憶喪失なんて、映画や小説に出てくるお決まりのパターンではあるが、実際に起こり得ることだったなんて思ってもなかったからだ。
「青山さんはここに運ばれてすぐに目を覚まして、意識もはっきりしておられますが、ご自分のお名前も住んでるところも覚えてないようなんです。言葉や社会的な事柄・・・例えばテレビとか電話とか、そういったものは比較的覚えてらっしゃいますから、事故で頭を強打した結果、外傷性健忘となられたのではないかと・・・」
「幸い青山さんは学生証やスマホといったものをお持ちでしたから、こうやって高安さんに来ていただくこともできたわけですが、事件事故ともにこういう事例は稀でして、どうしたらいいものかと病院関係者の方とも相談していた次第です」
「後で警察の方からお話があるかと思いますが、事故ということですから、当然この後も警察や事故の相手と話し合う必要もありますし、保険も絡んできます。ですが医師の立場から申し上げますと、やはり青山さんの体調を考慮していただきたいのです。それにはどうしてもご家族の方の協力が必要になってきますので、なるべく早めに青山さんのご家族と連絡をとっていただけると助かります」
二人から立て続けに説明されたオレは、それらを聞きながらも、頭の中では、
弥生はオレのことも忘れてしまったのだろうか、
ただそれだけが、支配していた。
「弥生の家族に連絡するのは、大丈夫です。でも・・・記憶がいつ戻るかとか、そういうことは、分からないんですよね・・・?」
恐る恐る、尋ねた。
映画や小説の中では、大抵、”明日戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない” そんなセリフが出てくるのだ。
オレは、テーブルの下で無意識に拳を握っていた。
「そうですね・・・何とも言えないというのが正直なところです。ですが、事例で申し上げますと、割合としては数ヶ月で徐々に戻っていった患者さんが多くありますので、あまり気落ちなさらないで青山さんを支えて差し上げてください」
不正確ながらも医師からそう告げられて、慰められる思いがした。
医師の言うところでは、一応面会はしても構わないが、その際の弥生の様子次第では、面会謝絶にせざるを得ない場合もあるらしい。
それを聞いたオレは矢も楯もたまらず、弥生の病室に案内するよう頼んだ。
弥生の病室はICU集中治療室のすぐ隣の個室で、扉の前には制服を着た警察官が一人立っていた。
そしてオレと医師と連れ立って病室まで来た警察官が
「この様子では事故の件を伺うのもまだ無理でしょうから、今日のところは我々は失礼します。事故の相手や保険関係の手続きは青山さんのご家族が旅行から戻られてからになると思いますので、青山さんのご家族への連絡はなるべく早くお願いします」
と言って、病室には入ることなく、扉の前で待っていた警察官とともに帰っていった。
そして、医師が、病室の扉をノックした。
「・・・・・・・・・・はい」
か細いか細い声。
小さすぎてはっきりとは分からないが、これが、約四カ月ぶりに聞く弥生の声だった。
オレはその声に、ビクリ、と全身が短く震えた気がした。
なぜだか、ここにきて、胸が早鐘を打ちはじめる。
ドクン、ドクン、と。
オレは体じゅうが心臓になったかのように、血流のすべてを感じるようだった。
「失礼します」
医師が一声かけて扉を右にスライドさせた。
途端、オレの目に入ってきたのは、白いベッドの上で上体を起こしてこちらに顔を向けた弥生だった。
頬に大きめのガーゼが当てられていて、もともとくせ毛の髪は乱れて更にくりんとしている。
薄緑の病衣を着ているが、点滴やその他の機械的なものは一切ついておらず、本当に、ただ座っているといった状態だった。
だが、こちらを見る表情が、目が、オレの知ってるいつもの弥生ではなかった。
いつもうるさいくらいによく笑い、くるくると変わる表情は天真爛漫を絵に描いたようだったのに、今目の前にいる弥生から見て取れるのは、
不安や恐怖、戸惑いに焦燥、そんなものがいくつも混ざったように複雑で、頼りないものだった。
弥生は先に病室に入った医師を見て、それからオレに視線を移した。
そして目が合い、オレは、ドキリとした。
恐がっているのか、困っているのか、それすらも掴めない眼差し。
十八年も一緒にいて、こんな弥生を見るのははじめただった。
それでもオレは、四カ月ぶりに会えた弥生に、泣きたくなるほどの何かを感じていた。
ああ、弥生だ・・・・・。
オレが密かに気に入っていたくせ毛は少し伸びているみたいだけど、間違いなく、弥生がそこにいた。
オレは、なんて言ったらいいのか分からないけれど、こうやって弥生とまた会えたこと、誰かに感謝したい気持ちでいっぱいになった。
気まずい別れ方をして、”弥生が隣にいる” という日常が消えてしまって、本当は、どうしようもなく辛かったのだと、たった今気が付いたのかもしれない。
絡まった視線はどちらからも解かれることはなく、オレと弥生は、見つめ合っていた。
頬のガーゼはかわいそうだけど、医師の言った通り他はどこも怪我してないようで、ひとまずは安心した。
病衣の合わせから覗く鎖骨は、相変わらず綺麗だ。
子供の頃男子に出目金とからかわれた大きな目も変わってないし、
本人が気にしていた低い団子鼻もそのままで、オレはやっぱり可愛いと思った。
弥生は、弥生のままだった。
けれど、
「・・・・・・あの、こちらの方は・・・・?」
その弥生のひと言に、オレは冷や水を浴びせられ、足元の床が抜け落ちるような感覚に見舞われた。
「この方は青山さんの幼馴染の高安さんですよ」
医師の背中には、やはりダメか・・・といった落胆が浮かんでいた。
紹介されたオレはどうにか気を持ち直し、病室に入って扉を閉めた。
「高安 諒です。今先生が仰った通り、オレ達は生まれた時からの幼馴染で、大学進学で離れるまではずっと一緒だったんだ」
冷静に、冷静に・・・自分に言い聞かせる。
弥生は覚えていないんだ。怖がらせないよう、落ち着いて、優しく話しかけなくては。
オレは内心に芽吹くショックを全力で押し殺し、弥生に向き合った。
「青山さんのご家族は今旅行で海外にいらっしゃるそうなので、すぐに連絡がついたこちらの高安さんをお呼びしたんですよ。・・・・・この事情は、理解できますか?」
医師はゆっくりと教えると、会話の内容が理解できるか尋ねる。脳の異常を確認しているのだろうか。
弥生は医師の方を見て、「はい・・・」と答えた。
そして、ちら、とオレを掠め見た。
話は理解できるけど、オレのことは分からない・・・そんな態度だった。
オレはあらかじめ聞いていたことなのに、激しい動揺が生じるのは止められなかった。
けれど今ここで最優先すべきは弥生だ。
オレは必死に自分の気持ちを収め、さっき医師と警察官に見せたスマホを取り出した。
「はい、これ。一応、証拠」
そう言いながら弥生に向けたスマホの画面は、オレと弥生のツーショットの写真だった。
弥生が自分のスマホで自撮りしたもので、オレ達は顔を寄せ合い、見るからに仲良さげな写真だった。
確か、高校の文化祭か何かの帰りに二人ともテンションが高いまま、記念に写真撮ろうと弥生が言い出して、いつもなら恥ずかしさから拒否してたオレが珍しく頷いたものだ。
海岸沿いの、護岸コンクリートの塀に上ったりしながら、弥生はキャッキャと楽しそうにしていて、
弥生の楽しそうな姿を見ていると、オレも嬉しかったのを覚えている。
弥生はオレのスマホを見ると、
「これ、私ですか・・・・?」
と、不思議そうに尋ねてきた。
「ああ、そうですね、青山さんは目が覚めてからまだご自分の顔を見てないんですね・・・」
いち早く反応したのは医師だった。
オレはそういうことか、と納得して、スマホのカメラ機能を開いた。
「スマホは知ってる?」
「・・・・たぶん・・・」
「そっか。じゃ、スマホにカメラが付いてるのは?」
「分かります。・・・・・たぶん・・・」
”たぶん” を繰り返すやよいがちょっとおかしくて、オレはクスリと笑ってしまう。
「なんですか・・・?」
「ああいや、何でもないよ。それよりほら、こうやって写すんだけど・・・」
オレは弥生の横に立ち腰を屈めると、自撮りするようにスマホを持つ腕を伸ばした。
画面には、オレと弥生が映っている。
「これが、私・・・・・・?」
弥生は驚いたように目を大きく見開き、スマホを指で触ろうとした。
けれどその瞬間、
カシャンッ・・
意外に大きなシャッター音がして、弥生がビクッと肩を揺らした。
「ごめんごめん、音が大きすぎた・・・でも、ほら、さっきオレが見せた写真と似たような感じだろ?
これでオレ達が幼馴染だってことは分かってもらえた?」
オレが笑いながら写真を見せると、弥生はじいっっと見入って、
「私と、高安さん・・・・・、幼馴染・・・・・・」
まるで英単語を覚えるように、繰り返した。
生まれて初めて、弥生に ”高安さん” なんて呼ばれたオレは、今日何度目かのショックを受ける。
けれど、今はいちいちそんなことを気にしてる場合じゃないのだ。
オレはスマホの写真を保存にしてから、操作した。
ほどなくしてヴ、ヴ、ヴ、ヴ、と音がする。
オレが弥生のスマホに今の写真を送ったのだ。
「弥生のスマホにも今撮ったの送っておいたから。後でじっくり見たらいいよ」
オレはショックを隠し、平静を装って言ったのだが、弥生はびっくり顔でこちらを見てきた。
「弥生・・・・・・・・」
オレを見たまま、ぽつり、と言い溢した弥生。
やや上目遣いの瞳が、小動物のようだ。
オレは、弥生がオレに何かを尋ねる時にするこの仕草が好きだった。
もしや、呼び捨てにされたのが驚いたのだろうか。
オレは弥生が怖がらないようにちょっと笑顔を作って見せたが、
口にはしなかったオレの問いに答えをくれたのは、ずっと黙ってオレ達のやり取りを窺っていた医師だった。
「ああ、そうか。青山さんは目が覚めてから ”青山さん” と呼ばれてばかりでしたから、下の名前に違和感を持たれたのかもしれませんね」
・・・・・そういうことか。
弥生を見ると、小さく頷いていた。
「あなたのお名前は、青山弥生さん、ですよ」
そう言って医師は弥生に近づくと、「どこか痛いところはありませんか?特に頭とか」と質問した。
「いえ・・・・大丈夫、です・・・」
囁くような返事する弥生。
「我慢はしないでくださいね。一応この後脳の検査を行いますが、気分が悪くなったり喉が渇いたりしたらすぐに教えてください」
「分かり、ました・・・・・」
「それでは、私は検査の準備があるのですが、高安さんはこのままこちらにいても構いませんか?もし青山さんが不安なら、看護師を呼びますが」
医師に尋ねられた弥生は恐々という風にオレに意識を向けた。
記憶がないのだから、見ず知らずの男といきなり部屋に二人きりになるのは不安になっても仕方ない。
オレは医師とともに退室するか、看護師を付けてもらおうと考えた。
けれど、弥生は
「大丈夫です。・・・・幼馴染の方ですから・・・・」
布団をきゅっと握りながら、そう答えたのだ。
今度はオレが驚いて、弥生を見返した。
だが医師はなぜだか嬉しそうに微笑むと、
「そうですか。それなら、少し二人で話してみるといいかもしれませんね。
もしかしたらその中で何かがきっかけになって思い出せるかもしれない。
もし具合が悪くなったらコールボタン押してください。
それから高安さん、お帰りになる時はナースに声をかけていただけますか」
必要事項を告げて、病室を後にしたのだった。
二人っきりになった部屋は、若干、空気に重みが増した気がした。
オレから何か話しかけなくてはと、にわかに焦りが走ってしまう。
「あ・・・・・ええと、とりあえず、自己紹介・・・は、さっきしたか。
でももう一回しておくよ。
オレは高安 諒。きみの幼馴染で、親同士は一緒に海外旅行に行くくらい仲がいいんだ。
オレ達も小中高と同じで、毎日一緒に過ごしてた。
大学で離れてしまってからはあんまり連絡はとってなかったけど、昨日から親達が旅行でオレ一人になるから、それに合わせて弥生が・・・・あ、弥生って呼んでいい?ずっとその呼び方だったから今さら変えられなくて・・」
弥生は一瞬ぽかんとしたが、すぐにコクコクコクと縦に頭を振った。
オレはちょっとホッとして、笑みがこぼれる。
「ありがとう。で、弥生が大学が夏休みになってすぐに帰ってきてくれることになってて、オレ達は今日駅で待ち合わせをしていたんだ。駅から弥生の家までは歩いて行ける距離だけど、弥生の荷物が多そうだから迎えに行けと親に言われてね。あ、オレ達の家は歩いて一分二十秒の距離なんだ」
「・・・・・・一分二十秒?」
きょとん、と首を傾げる弥生。
「そう、一分二十秒。これ、子供の時にオレと弥生で実際に測ってみたんだ。
歩いて数十秒とか、一、二分とか、大人達が適当なことばかり言うからさ、じゃあ、実際に測ってやるよ!って・・・・。小学校・・低学年の頃かな。でもそのとき近所の家でリフォーム工事しててさ、遠回りする羽目になって、結局、ちゃんとした時間は測れなかった・・・ってオチなんだけど」
そのエピソードは双方の家族の中では有名だった。
それをこうやって改めて弥生に説明しているこの状況を、オレは不思議に感じていた。
一種の違和感のようなものかもしれない。
けれど今目の前にあるのは現実なのだと、自分に言い聞かせていた。
「一分二十秒・・・・・」
弥生はもう一度そう呟いた。
ぼんやりと空中を見つめているその姿は、まるで何かを思い出そうとしているように見えた。
「・・・・・弥生?」
オレが呼ぶと、ハッとしてこっちを向く。
「どうかした?」
「いえ・・・・・なんとなく、ですけど、一分二十秒という響きが、聞いたことあるような気がして・・・・・」
自信なさげにおどおどと言った弥生だが、オレはその言葉に、微かな希望が生まれるのを感じた。
「本当っ?本当に?」
「あ、いえ、なんとなく、です・・・・・すみません」
「いやいいんだよ、なんとなくでも。さっき先生も言ってただろ?何かがきっかけになって思い出すかもしれないって。だからほら、そんなに硬くならないで」
オレはなんとか弥生の気持ちをを和らげてやろうとしたが、弥生は申し訳なさそうに眉を下げる。
今にも泣き出してしまいそうな表情に、オレはこんな時だけど、ドキッとした。
この顔を、以前にも一度だけ、見たことがあったからだ。
けれど感傷に浸っている暇はない。
オレは速まりそうになる鼓動を弥生に悟られまいと、持ったままだったスマホに気を逸らすと、手早く操作した。
この中にある写真を、手当たり次第弥生に見せてやろうと思ったのだ。
だがその時、扉をノックする音が鳴った。
ノックとほとんど同時に扉が開かれ、車椅子を押した年配の看護師が入ってきた。
「失礼します。青山さん、検査の準備ができましたのでよろしいですか?念の為、これで移動してくださいね。それから、高安さん、でしたよね?青山さんが検査される間、こちらでお待ちになりますか?もしかしたら一、二時間かかるかもしれませんけど・・・」
ベテラン看護師の堂々さというのか、余裕を感じさせる口調だ。
弥生はオレがここに来る前にこの看護師と顔を合わせていたのか、怯えた様子もない。
オレは、弥生の身体的なことは病院側に従うしかなく、弥生が検査に行ってしまうとここにいても何も役目がないと思った。
「じゃあ、その間に弥生の家に行って必要なものを取ってきます。合鍵は預かってるので・・。保険証・・・は、確かカードのを弥生は財布に入れてたはずだから、あとは何が必要ですか?」
オレがそう言うと、看護師は、気が利くじゃない、とでもいう風にニッと笑った。
「保険証と印鑑は絶対ね。あと、入院になるだろうから着替えと洗面道具と、他に日常的に必要な物、例えば眼鏡とか、アレルギーがあればそれの・・・あ、ねえ、高安さんはもしかしたら青山さんの持病とか既往歴も分かるかしら?」
車椅子を固定させながら答えていた看護師が、ふと思い出したように訊いてきた。
「ええ、大体は・・・」
「それじゃあ、代理で問診票記入してもらえるかしら?青山さんも、それで構わない?」
車椅子に移動するためベッドを降りようとしていた弥生が、ふ、とオレに顔を向けた。
それが、まるで救いを求められたように感じてしまい、オレは瞬時に胸が熱くなった。
守ってやらなきゃ。
わけもなく、強く強くそう思ったのだ。
「大丈夫ですよ。弥生も、それでいいよな?」
優しく確認すると、弥生は静かに頷いて、けれどすぐに、「でも・・・・・」と小さな声で言った。
「ん?」
「あの、着替えは・・・・・恥ずかしいので・・・・・・いい、です・・・・・」
心底恥ずかしそうに告げる弥生に、オレはなんだか心が温められる思いがした。
オレのよく知っている弥生は溌剌としていてこんな風にもじもじしたりしないが、不思議と、違和感は感じなかった。
そんな弥生の返事を聞いて看護師は微笑んでるし、
一見しただけでは、この病室に事故で運ばれて記憶がなくなってしまった人間がいるだなんて、誰も気付かないだろう。
そんな穏やかな、風景だった。