Time after time
護岸コンクリートの塀沿いに車を止め、オレ達は浜辺におりた。
相変わらず、シーズン真っ只中だというのに人影は皆無で、来ては帰る波の音だけが存在していた。
熱さを吸収した浜は、薄いソールのサンダルでは快適とは言い難く、オレは波打ち際すれすれの、浜が湿っているところまで進んでいった。
弥生もオレについてきて、二人して、波が足の指先にかかるかかからないかの位置で横に並んで立った。
すると、おもむろに弥生がオレを見上げて言ってきたのだ。
「実は、ひとつお訊きしたいことがあって・・・・・・」
「ん?・・・・なに?」
オレも弥生を見返して先を促した。
「昨日・・・・諒さんから電話をもらった時、諒さんだけ、他の人達と音楽が違ったんです」
「音楽って、着信音のこと?」
「電話がかかってきた時に鳴る音楽です。他の人達からかかってきた時は、クラシックだったんですけど、諒さんからかかってきた時は、英語の歌だったんです。それで、また私が忘れてしまってるだけで、もしかしたらなにか理由があるのかな・・・・って」
そう言われたオレは、デニムパンツの後ろポケットからスマホを取り出し、弥生にかけてみた。
間もなくして、聞き覚えのある洋楽のバラードが流れはじめた。
「ああ・・・・・・・この歌は、確かに覚えてるよ。弥生が英語の歌詞をオレに訊いてきたことがあったんだ。ちょうど、この浜辺で」
「ここで、ですか?」
「うん。学校の帰りにね。借りたCDが輸入盤で日本語訳が入ってなかったみたいで、その歌の中に“Time after time” って言葉が何度も繰り返されるから、どういう意味?って訊いてきたんだよ。で、その歌詞が、“何度生まれ変わっても君を見つけるよ”とか“君は僕の生きる意味なんだ”とか、ちょっとクサ過ぎるってオレが言ったら、ロマンチックって言うの!とか言い返してきたのを覚えてるなあ・・・・・・」
中学生の時の話だ。
それ以来弥生が気に入ってよく聞いたり口ずさんでいたのは知っていたが、まさかオレの着信音をそれに設定してるだなんて、知らなかった。
まあ、オレがそれを聞くことはないわけだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
「私も・・・・・・」
弥生が、おずおずと話し出す。
「ん?」
「私も、クサイというよりは、ロマンチックだと思います」
けれどきっぱり言い切る弥生が、不意に、あの時の弥生と重なった。
オレはゴクリと唾を飲んで、弥生を凝視してしまう。
そして、
確かにそこにいるのは弥生だが、あの時の弥生とは違うのだと、
自分自身に言い聞かせた。
「・・・・・・・まあ、女の子はそう受け取る子が多いだろうね」
だからこそ、ラブソングというものが成り立つのだろうし。
そう言う裏では、オレはどうにか平常心を呼び戻していた。
「でも、今のエピソードを聞いていると、諒さんは英語が得意だったんですね」
弥生は褒めるようにそう言うと、腰をかがめ、自分のデニムパンツの裾を二回ほど折り上げた。
波が高くなってきていたのだ。
「そうだね、海外で働くのが夢だったから、英語は頑張ってたんだ。」
改めて弥生に話すのは、いささか恥ずかしさもあるけれど・・・
「じゃあ、大学が離れたのはそのためなんですか?」
パッと、上体をもとに戻した弥生。
どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
記憶をなくしているとはいえ、無邪気に尋ねてくる弥生に、オレは少なからずたじろいでしまった。
けれど、オレがここで言葉を濁したところで、いつかは知られてしまうかもしれない。
オレは幾分かの勇気を集めて、
「同じ大学受けたけどオレだけ落ちたんだよ」
と言ったのだった。
弥生は、え・・・・・と声を発するなり、信じられないといった眼差しをオレに向けてきた。
その面差しは、まさに吃驚と表するにふさわしいものだった。
「あ・・・・・すみません、私、すごく失礼なことを・・・・・・・」
さっきの嬉しそうな様はどこへやら、今度は蒼白とした顔色に変わり、弥生はこれでもかというほどに狼狽していた。
「いや、もう済んだことだからいいんだよ」
「でもっ、あの・・・・・」
「本当にいいから、気にしないで。変に気を遣われる方がへこむから。・・・そりゃ、落ちた時はかなり落ち込んだりしたけどさ、オレがあんまりうじうじしてたから、弥生に怒鳴られたりしたんだよ。・・・ああ、それも、ちょうどこの浜辺だったな。しっかりしろ!ってさ・・・・」
すると弥生は両手を口元に持っていき、さらに驚きを濃くしたように慌て出した。
「私ったら、そんなことを・・・・?ただでさえ落ち込んでる諒さんに対してなんてことを・・・・・!」
「いや、だからそれは、いつまでも落ち込んでるオレを元気づけようとしてくれただけだから」
「でも・・・・・・」
「本当に、もういいんだ。それに、こんなこと言っても負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、オレが今行ってる大学って、もともと受ける気もなかった大学なんだけどさ、浪人が嫌で滑り込んで入った大学でもあるんだけど、結構、授業とかも面白くって。そりゃ、第一志望だった大学に比べたら名前も劣るし、オレが希望してた英語のカリキュラムとかも全然足りないんだけど、でもなんか、充実してるんだ。だから、今は、もうそんなに落ち込んでないんだよ」
記憶のある頃の弥生には言えなかったことが、今の弥生にはすらすらと話せるのが不思議だった。
オレはなぜか、長く胸につっかえていたものが、解けて流れる気がした。
「そうですか・・・・・・」
弥生は慌てるのを止め、優しく、穏やかに微笑んだ。
そしてオレから視線を逸らし、前を、水平線の方向を見つめると、言った。
「・・・・・・・・でもきっと、記憶のある時の私は、諒さんと同じ大学に行きたかったんでしょうね・・・・・。私はその時のことは全然覚えてないけれど、それでも、分かります。きっと私は、諒さんと同じ大学に通いたかったんだろうな、って・・・・・」
弥生の表情ははっきり見えないけれど、風に泳ぐ髪がひと際高く舞った瞬間の横顔は、ひどく悲しげに見えてしまった。
「きっとそうなんだろうなって、分かるのに・・・・・なのに、思い出せないんです。
諒さんを励まそうとして、あえて厳しいことを言ったのかもしれませんが、
その時の私がどう思ってそんなことを言ったのかも、・・・・・・思い出せないんです。全然・・・・・・・・」
寂しそうに、弥生がそう言うから、次の瞬間、
オレは、影を落とした弥生の細い肩を、
力いっぱい抱きしめていた―――――――――――――――――――――――
「大丈夫・・・・・・・・
大丈夫だから・・・・・・」
弥生を後ろから抱きしめ、耳元で囁くように、宥めるように、そう言った。
一瞬、弥生の背中がビクリ、と大きく震えたが、すぐに小刻みなものに変わっていく。
「弥生、弥生・・・・・・・泣かないで、弥生・・・」
懇願するような想いで弥生の名前を口にした。
「昨日も言っただろ?弥生がなんにも覚えてなくても、この先ずっと思い出さなくても、オレが、弥生の分まで覚えてるから大丈夫だよ。弥生が思い出せないことはオレが教えてやるし、もしこのまま弥生が東京に戻ってまた離れ離れになったとしても、いつだって駆けつけるから。絶対に、弥生を一人になんかしないから。約束するから。
だから、泣くな・・・・・・・」
心を絞り上げて、オレは弥生に告げた。
前にまわした手で弥生の頬を滑る涙を拭い、オレは渾身で、弥生に気持ちを伝えた。
「でもっ、私のっ、・・・・・私の、気持ちは、誰も知らないもの・・・・・・っ。・・・いくら、諒、さん、が、私のこと、知っててもっ・・・・・私が、その時、どんな気持ちだったかなんて、きっと知らないっ!」
しゃくりあげながら訴える弥生。
そんな弥生が気の毒で、かわいそうで、けれど同時に、たまらないほどに愛しく感じた。
「それにっ・・・・もし、もしも、・・・・・・もしも記憶が戻ったら、・・・・・・今の、私の記憶とか、気持ちは、消えちゃうのっ?
こうやって、諒さんと一緒にいたことも、忘れちゃうの?!」
そう言いながら、弥生はオレの腕を両手で握ってきた。
「弥生・・・・・・・・」
「そんなのっ!そんなの嫌だよ!
今の諒さんとのこと、忘れちゃうなんて、そんなの嫌!
カレー作ってくれたり、一緒にコロッケ食べたり、縁側でおしゃべりしたことも、この海に来たことも全部忘れちゃうなんて、嫌だよ!
諒さん・・・・・・・私、今の諒さんとの思い出も、今の気持ちも、忘れたくないよぉ・・・・・・・・」
嘆き、という言葉を、絵に描いたような姿だった。
オレは今になって、弥生の抱えていた不安を見た気がした。
弥生は、思い出しても思い出さなくても、ずっと不安でいることに違いないのだ。
どうしてそんなことも想像できなかったのだろう。
オレは自分を殴り飛ばしたい気持ちを抑え、弥生を抱きしめる腕に力を込めた。
「弥生、弥生、大丈夫だから。
さっき、”Time after time” って言葉が出てきただろ?
その意味、知ってるよな? ”何度でも” って意味だ。
もしお前の記憶が戻って、今のオレとのことを忘れてしまったとしても、
オレが覚えてるから大丈夫だ。
たとえ何度記憶をなくしたって、オレが絶対にそばにいるから、大丈夫だよ。
絶対、そばにいるから。
なにがあっても、これからどんなことがあっても、弥生を離さないから。
だから、安心して、何度忘れたっていいんだ。
その度にオレが教えてやるから。
だから弥生―――――――――――――――――――――――――――」
オレがそのあとに続ける言葉をほんの一瞬ためらったその時、
バシャ―――――――――ンッ・・・
突発的にイレギュラーで大きくなった波が、オレと弥生めがけて打ちつけてきたのだった。
まったくの不意打ちに、オレも弥生も逃げる体勢をとる暇もなく、真正面から受けた弥生はもろにかぶってしまった。
「おい、弥生、大丈夫・・・・じゃないな、それは・・・・」
弥生の肩を回してこちらを向かせたが、デニムはともかく、シャツはびしょ濡れで中のキャミソールが透けているし、顔にまでしぶきがかかったのか、前髪が情けなく額に張り付いていた。
ノースリーブからむき出しの腕も、ひどく寒そうにも見える。
「こんなに濡れて・・・・いくら気温が高くてもすぐ拭かないと風邪ひくだろ・・・・」
オレが弥生の前髪を指先で整えてやってると、弥生が、クスリ、と笑った。
「・・・・・・・・・・弥生?」
オレの声かけに、露になった瞳が、オレのそれと重なる。
弥生の目の中に、驚きを隠せないオレが映っていた。
弥生はオレから目を逸らさずに、ふわりと、また笑う。
「水も滴るいい男ね、諒ちゃん?」
「え・・・・・・・・・?」
オレは弥生の額から指を離すと、今一度、弥生の顔をまじまじと見つめた。
「なあに?諒ちゃん」
不思議そうに、けど面白そうに尋ね返してくる弥生。
その朗らかでにこやかな表情に、オレは心臓を鋭利ななにかで刺されたような衝撃が走った。
「・・・・・・・・弥生?」
もう一度、そう呼ぶ。
すると今度は訝しげに目の前の弥生が尋ねてきた。
「もう、なんなのよ?なんかおかしな諒ちゃん!」
その言い方に、ちょっと拗ねたような唇に、でも優しい表情に、オレは見覚えがあった。
「――――――――――――――――――――――――――弥生っ!!」
「え?わっ!ちょ・・・・・・・・・・」
思わず抱きしめたオレを、弥生ははじめはびっくりしたように手で押し返そうとしてきたけれど、やがて、その両腕はオレの背中にまわり、右手は、まるでオレを慰めるように大きな動きで撫でてくれた。
慰めなきゃならないのはオレの方なのに、弥生は今の事態を把握していないというのに、
それでも優しく、ただ優しく、オレを抱きしめてくれた。
オレはこの瞬間、
腕の中に弥生がいること、
そして、弥生の腕の中にオレがいることが、
なんと表現したらいいのかが分からないほどに、嬉しかった。
これ以上なにも望まない。
それほどの喜びを、感じていた。
そう、
もう死んでもいいと思えるほどに、
幸せだった――――――――――――――――――――