やかましい! とっとと消えろっ!
びちゃり、と九龍の頬に生暖かいものが飛ぶ。つい先程まで襲い掛かって来た「それ」は、赤黒い液体を撒き散らしながら沈黙する。
やがて「それ」は氷が熱で溶けるように、爪先からゆっくりと塵になってこの世界から消滅していく。
「とりあえず、やった、のかな?」
目の前に映る赤々しい水たまりに息を呑み、冷や汗をかきながら、ミシェルは上ずった声で訊く。
九龍も同じように、身体中が強い緊張に包まれている状態で、彼女の問いに「ああ、やったみたいだ」と鸚鵡返しをする程度しかできなかった。
彼はまだ暖かみのある頬の赤い液体に触れる度に、脳の信号が乱れる感覚に見舞われる。混乱続きながらも、状況の流れ具合を見極めんと頭の回転を絶やさない。
そのとき、敵陣は〈土蜘蛛〉は反撃の一手としてスキルを繰り出さんと動き出す。端末に表示されたスキル名『ヴォイドショット』が表示されるのとともに淀んだ色の円型をかたどる衝撃波がミシェルの率いる〈カミサマ〉の一体〈デムナ〉に襲い来る。
が、その矛は狙い定めた相手に届く前に九龍の使役する〈カミサマ〉が身を挺すことで阻まれる。
「──! 体力が!」
赤い方陣が衝撃を和らげつつも、蓄積するダメージに九龍は思わず声を掛ける。<ケルベロス>は足下の覚束無い主に、自らを鼓舞して見せる。
「心配するな。御主人はそこで腰を据えてろ。この程度でくたばっては番犬の名折──」
…そう言いかけたところで、<ケルベロス>の足がふらつく。ふとした拍子に舞い込んだ異常に九龍は気がつくと、手元の端末に目をやる。
「…反撃しない? どういうことだ、攻撃を受ければどんな相手だろうと反撃の一撃を見舞いするんじゃ……」
「すまない御主人。今のスキル攻撃でマヒしてしまった。ちょっとビリっとしてて、動きにくいったらありゃしねぇ」
配下の提言を受け、九龍はあわてて画面に表示されている簡易パラメータを確認すると、確かに〈麻痺〉とバッドステータス表示が出ていることに気がつく。
「くっそ、やられちゃったか。そうなると解けるまで盾役スキルも機能はするけど反撃は確率で出来なくなるかもだから、クロウ気を付けて!」
「…そういうの教えて欲しかったな! いていうかこいつはまずい。これじゃ〈ケルベロス〉はただのサンドバッグだ!」
そんな九龍の懸念を見事的中とでも言うが如く、彼らと相対する〈オニ〉が手にした棍棒を地面に向け跳躍とともに叩きつけんとする。
「ヤバい! 御主人たち、退いてろっ!!」
迫る悪鬼の威圧感に、足がしびれ動けないふたり。<ケルベロス>は咄嗟に蛇の尾で後方に弾き飛ばし、<ベルシラック>は王に仕える騎士のように御前に躍り出て盾となる。
直後〈黒点乱舞〉という表示とともに、棍棒を用いた滅多討ちによる衝撃波が共闘する両陣営に降り注ぎ、一枚の盾では防ぎきれぬ衝撃の余波が〈カミサマ〉を使役する主にも襲い来る。
攻撃と同時に、手にした端末が警告音を鳴らす。ふたりにはその音に気を回す余裕はなく、彼らにできることは余波で粉々にならないよう身を屈めることのみであった。
身体を守ろうと構えるも、その隙間から入り込むように小石が針のように浅く刺さる。九龍は一瞬視界にひびが入ったことにたじろぎ、反射的に身をよじる。跳ねた小石が眼鏡のレンズに勢いよくぶつかり、片目だけ前が見えづらくなる。
「くぅっ! 大丈夫かミシェル!」
「だ、ダイジョブ! ちょっとしりもち着きかけたけど何とか!」
現実と乖離したこの世界に、人ならざるものの襲撃。ふたりはあらためて微かな恐怖心が沸き上がるさまを感じていた。
しかしその一方でふたりは、それとは別の想いが強くなってゆくことも確かめている。九龍は歯噛みしながらも強く相手を睨むことを忘れない。
「……いやだ。終わりたくない!」
「ああ、くそっ。こんなとこで死ねるかよ。〈ケルベロス〉! やれるか!?」
「…ああ。やられっぱなしは癪だからな!」
互いの意思が通じあったところで、主人の命を受けた番犬は怨敵に向け、咆哮とともに研ぎ澄まされた爪で切り裂く。
先程の<コボルト>とは異なり、厚い筋肉の壁が骨を断つほどのダメージを与えることは叶わなかった。しかし、それでもなお傷は浅いものではなく、爪には<オニ>の肉が微かに付着していた。
ウオオオ、と〈オニ〉の悲鳴が廃虚に響き渡り、一歩跳躍し下がる。鼓膜を破らんとする程のけたたましい轟咆に対抗せんと、九龍は震える足を立たせ、指を差し啖呵を切る。
「やかましい! とっとと消えろっ! 何もかもわけわかんねえっていうのに! こんなところで殺されてなんかやれるもんかよ!」
「いいことを言う。主のご学友は反骨心の強い者ようだな」
ミシェルのもう一騎の配下〈ベルシラック〉は自らの緑の身体を、一呼吸のうちに敵対者に詰め寄り、表示されたスキル〈断砕〉の表示とともに手にした大きな鉈で力任せに薙ぎ払う。
「猟の時間だ。少しばかり本気で行く」
地を揺るがす程の一撃は〈Critical〉の演出の後、敵を大きく後方へ吹き飛ばし、放たれた余波は色を失った廃虚の壁を易々と砕き大穴を開ける。
そして不気味に揺らめく温い空気が、吹き抜けと化した校舎に灰塵とともに二人の間を通り過ぎていく。
「…すっごい。」
「流石、といった感じだな。これで全身緑のアレな外見じゃ無けりゃね」
「聞こえているぞ、主の学友。首をはねられたいか」
現代に生きる人間には到底不可能であろう、怪物の目で睨み付けられ思わず萎縮する九龍。対してその騎士を使役する主は、漸く一巡したこの戦に慄きながらも、消えない不安を胸に抱き次の采配を思案し始めていた。




