第一幕 第三場
「……トウメイニンゲン?」
あまりにも信じがたい言葉に、その言葉の意味が俺の頭にしみ込むまでしばらくの間が必要だった。
「まさか透明人間のこと……なのか? あのスケスケで姿が見えないやつ」
「おお、そうだよ。そう言っているじゃないか」山中ユウスケが言った。
「……なんで?」
「なんでって何がだよ?」
「なんで俺は透明人間なんだよ?」
「馬鹿だなシンゴ。人の目に見えないから透明人間なんだよ。もし見えていたらそいつはもう透明人間とは呼べないよ」
「違う!」俺は声を大にする。「そういうことじゃなくて、どうして俺は透明人間になっているんだよ」そこで部屋を見回す。「しかもこんなわけのわからない部屋の中でさ」
ユウスケが気まずそうな顔つきになる。
「……シンゴお前さ、どうして自分が透明人間になってここにいるのか覚えていないんだよな?」
「まったく何にも覚えてないんだけど。これってどういうことなんだよ?」
「本当に何にも覚えていないの?」ユウスケの表情が険しくなる。「自分の名前すらも覚えていないのかお前は」
「いや、それくらいは覚えているよ」
「だったら僕に自己紹介してよ」
「別に今さら自己紹介なんていらないだろ。俺が聞きたいのはどうして透明人間に——」
「いいから自己紹介してくれよシンゴ」
ユウスケが俺の言葉を遮る。しかも自己紹介してくれと言いつつ、俺の名前を口に出している。
「しなきゃダメなのか?」
「もしかしたら記憶に間違いがあるかもしれないだろ」
「間違え?」
「とにかくだ、お前は名を名乗れ」
そう言ってユウスケは、俺の右肩横にある何もない宙を指差した。本当に俺の姿が見えていないんだな、と改めて実感する。
「さあシンゴ、自分の名前を言うんだ」ユウスケは催促する。「お前は何年何組のいったい誰なんだ?」
俺はため息をつく。こうなってしまった以上、素直に自己紹介した方がいいみたいだ。いつからこいつは、こんなにめんどくさい人間になったんだ。
「俺は二年三組の渚シンゴだ」
「おお!」ユウスケが感嘆の声をあげる。「なんだシンゴ、ちゃんと自分の名前を覚えているじゃないか」
「最初っから覚えていると言ったろうに」
「それじゃあ僕の名前は?」
ユウスケがにやけた笑みを浮かべながら、自分の顔を指差している。すごく気持ち悪い。
「お前は同じクラスメイトの山中ユウスケだ。以上」
「すごいよシンゴ。ちゃんと僕の事を覚えているじゃないか」
「あたりまえだろうが」
「よかった」
ユウスケはほっと胸を撫で下ろした。
「ちゃんと記憶は正しく思い出せるじゃないか。すごいよシンゴ」
何がすごいんだよ、まったく。
「それでどうして俺はここにいるんだ? それが思い出せなくて俺は困っているんだが」
「自分がなぜ透明人間になってしまって、ここにいるのか知りたい。そうだね?」
「ああ、そうだ。いい加減もったいぶらずに教えてくれ」
「悪いけどそれはできない」
「はあ!」俺は思わず声を荒らげてしまった。「それはできないってふざけんなよ」
「お前が怒る気持ちもわかるけど、それは出来ないんだ。ゆるしてほしい」
ユウスケは両手を合せると、俺から少し横にずれた位置に向かって、申しわけなさそうに頭を下げている。
俺は舌打ちすると、苛立ちから頭をかきむしりながらユウスケに問いかける。
「どうして教える事が出来ないんだ?」
「……怒らないで聞いてくれるかな」
ユウスケがすまなさそうな表情で言った。
俺は何度か深呼吸し、怒りを頭から閉め出す。
「わかった怒らないよ」努めて冷静に言ったつもりだったが、その声音には怒りがにじんでしまっていた。
「怒っているじゃないかシンゴ」
その言葉にイラっとさせられる。「……怒ってない」
「本当に?」
しつこいやつめ! 俺は怒りを爆発させたい衝動を抑えつつ、出来るだけ明るくさわやかに言う。
「ああ、怒らないからしゃべってくれよユウスケ」
「よかった」ユウスケの顔がぱあっと輝いた。「怒ってないんだ安心したよ」
「それじゃあユウスケ君。どうして俺が透明人間でこんな場所にいるのか、その理由を教える事が出来ないのはなぜなのか、すみやかに話してくれないかな」
「長くなるよ」
「だったらなるべく手短に」俺の怒りがこらえきれる間にな。
「実験の副作用で、その前後の記憶があやふやになっているんだと思うんだ。僕の口から何があったのか伝えると、僕のイメージする記憶が焼き付けられ、正しい記憶が思いだすことが出来ない可能性があるんだ。だからシンゴには自力で思い出してほしい」
手短に三行でまとめたような説明。そのせいであっちこっちで説明不足な箇所があり、よくわからん。何を言っているのかさっぱりだ。……っていうか実験ってなんだ? 俺はそんな事に参加した覚えはないんだが。
「ユウスケ、実験っていったいなんのことだ?」
「説明しただろシンゴ。自分で思い出さなきゃいけないんだよ君は」
俺はため息をつく。「つまりは教えるつもりはないということか」
「いじわるで教えないわけじゃないんだよ。僕だってすぐにでも君に真実を伝えたいさ。時間もあまりないことだしね」
「時間がない? どういうことだ?」
「あっ、いや、その……」ユウスケは口ごもってしまう。「な、何でもない。気にしないでよ」
「時間が来たらどうなるんだ?」
「だから気にしないでよシンゴ」ユウスケは愛想笑いを浮かべている。
どうあってもこいつは俺に教えないつもりらしい。
「はいはい、そうですか。もういい。自分で勝手に思い出すから」
「その気になってくれたかい」
「乗り気じゃないけどな」
俺は深く息をつくと、失われた記憶を探し求める。いったいなぜ、どうして、こんなことになっているんだ?
……昨日は朝起きて学校に向かった。ここまでは覚えている。普段通りの生活だ。そして学校についてなにがあった?
……そこから先を思い出そうとするとなぜか胸がざわめく。どうしてだ? まるで嫌な事があったかのように。