第一幕 第二場
絶望に撃ちひしがれ、うなだれているその時だった。プシューと空気が抜けるような音が頭上から響いてきた。
俺はその音に反応してすぐさま顔を上げた。すると天井を構成する十六の正方形のうち、真ん中に位置する四つの正方形が、上へと引っ張られるようにしてせり上がっている。
何事かと思いすぐに立ち上がると、俺は警戒のまなざしになる。四つの正方形は一メートルほどせり上がったところで止まった。天井と四つの正方形の間に出来たわずかな隙間からは、暗闇しか見えない。いったいこの天井の向こう側はどうなっているんだ?
四つの正方形が横へとなめらかに滑るようにしてスライドした。天井はいま、真ん中の部分だけがくりぬかれたかのように、すっぽりと抜け落ちている。
俺はおそるおそる部屋の中央へと歩み寄り、天井に開いた穴を覗き込んだ。そこに見えるのは、この部屋とは対照的な真っ暗闇だけだった。それ以外は何も見えない。
「おーい。誰かいるのか?」とりあえず呼びかけてみるも、返事はなかった。
首を傾げながら天井に開いた穴に向かって手を伸ばしてみるも、まるで届く様子はない。それもそのはず、天井までの高さはおそらく四メートルほど。バスケットリングの高さ超えてバックボードの頂点。NBAの有名バスケット選手ですら、出来るかどうかの高さだ。
「……一応ダメ元でも、ためしにジャンプしてみるか」
絶望的な状況のなか、助走のためゆっくりと後ずさる。奇跡が起こると信じて。
そして俺が走り出そうとしたその時、天井の穴から一人の男が顔を出した。
「おーい、シンゴいるかい?」
胸が高鳴った! たったいま奇跡が起こった! シンゴ、それは俺の名前だ。誰かが俺の名前を呼んでいる。
俺は天井から顔を出している男の顔を見つめた。その顔には間違いなく見覚えがある。面長の顔にふんわりとした髪を自然な感じに七三に分け、うさんくさそうな笑みを浮かべるその男は、同じ高校のクラスメイトである山中ユウスケだった。
「おいユウスケ!」俺は叫んだ。「助けてくれ。ここから出してくれ!」
ユウスケは俺の言葉を無視し、部屋のあっちこっちに視線を走らせている。
「シンゴ。そこにいるのか?」
「おいユウスケ!」先ほどよりも大きな声で叫んだ。「俺はここだ!」自分の顔を力強く指差す。「ここにいるぞ!」
またしてもユウスケは俺の言葉を無視して部屋を見回すと、首を傾げた。
「あれ? おっかしいな……」そう言ってユウスケは気難しそうに唸る。
「おい無視すんなよユウスケ!」俺は部屋の中央へと歩を進める。
「あ、そうだ忘れてた」ユウスケは、はっとしたような表情を浮かべた。「シンゴ、もしお前がこの部屋の中にいるのなら、壁か床を叩いてくれ。そうじゃないとわかんないからさ」
「何わけのわからない事を言っているんだ」俺は部屋の中央に立つと、おもいっきり床を踏みならした。「俺はここにいるってさっきから言っているだろ!」
「おお!」ユウスケが驚いた声をあげると、真下にいる俺に顔を向ける。「そこにいたのかシンゴ。驚かさないでくれよ」
「何が驚かさないでくれよだ」俺はユウスケをにらみつけた。「さっきからお前は俺をおちょくっているのか?」
ユウスケから返事はなかった。まるで俺の言葉が届いていないかのようだ。
「おいユウスケ、聞いているのか?」
俺の言葉を無視し、ユウスケは天井に開いた穴のふちに手をかけると、そこにぶら下がりながら顔を下に向ける。
「シンゴ、今からそっちに下りるから、危ないからどいといてもらえるかな」
「ちょっとまてよユウスケ」俺は後ろへと下がる。「話聞けよコラ」
ユウスケが手を離し床へと落ちていく。この高さをものともせず、ユウスケはうまい具合に着地する。それと同時に天井に開いた穴のふちから正方形がスライドし、その穴にぴたりと自分自身をはめ込んだ。
「ああ!」俺は唖然と天井を見つめる。「そんな、せっかくの脱出口が……」がっくりと肩を落としてしまう。
気落ちしている俺の気持ちを馬鹿にするかのように、ユウスケが軽快な口笛を吹き始めた。俺と同じこの奇妙な部屋に降り立ったユウスケは、まるで高校への通学中かのようにブレザーの制服姿に黒のリュックサックを背負っていた。ユウスケはリュックサックを床へと下ろすと、その中身をいじりだす。
「なあユウスケ、お願いだから説明してくれないか」俺は苛立った声でそう言った。「気がついたらこのわけのわからない部屋にいたんだ。しかも服も着ず裸で」そこで言葉を切ると、ユウスケが着ているブレザーを指差す。「とりあえずその上着、俺に貸してくれない。何も着るものがなくて困っているんだよ」
いったい何度目だろうか。ユウスケはまた俺の言葉を無視すると、リュックサックからマイク付きのスタンドを取り出し、それを部屋の中央に置いた。
「いい加減無視するなよ!」俺は拳を握った。「怒るぞユウスケ!」
ユウスケは涼しい顔つきで、マイク付きスタンドの高さを調節している。マイクの高さを膝の高さほどに調節するとその場に座り込み、ふぅーと一息ついた。
「おいユウスケ——」
「シンゴー!」ユウスケが声を張り上げて俺の言葉を遮った。「いるんだろ。座って話でもしようぜ」そう言って自分の目の前を手で指し示す。
「何が話をしようだ」
俺はユウスケに殴りかかりたい衝動を抑えて、不承不承ながらその言葉に従ってあぐらをかいて座った。いまこの状況をどうにかするには、ユウスケの助けが必要不可欠だと理解していたからだ。そのためにもユウスケと話をしなければ。しかしこいつはさっきから俺の言葉を無視してばかり。なぜこんないらつく事を?
俺とユウスケはマイクを挟んで対面に座り、向かい合っている。
「教えてくれユウスケ。この状況はいったいなんなんだ?」
ユウスケは落ち着かなげに視線を左右に振っている。
「シンゴ、何かしゃべってくれよ」
俺は眉をひそめた。「しゃべっているだろうが」
「シンゴー! シンゴー! 聞いているのか?」
「お前こそ俺の話を聞け!」俺は拳を作って床を叩き付ける。
「うおっ!」ユウスケはびくっとし、目の前にいる俺を見つめるも、その目線を俺とあわせようとしない。
何かがおかしい、と俺は思った。さっきからこいつは俺の言葉を無視するというよりも、聞こえていないように思える。それどころか、俺の事をちゃんと見ようとしない。いったいどうなっているんだ?
「あっ、そうかそうか。忘れてた」
ユウスケは何かに気がついたかのようにそう言うと、マイクのスイッチを入れ、それを俺に向けた。
「シンゴ、すまないけどこのマイクに向かってしゃべってくんないかな。よろしく頼むよ」
俺は自分に向けられたマイクを見つめる。これに向かってしゃべれだと? いったい何のためにだ。そんなことに何の意味があるんだ。なぜそんな事をしなければならない。
押し寄せる疑問が俺を怪訝な顔つきにさせる。
「……ユウスケ、これでいいのか?」
言われた通りにマイクに向かってしゃべってみた。するとスピーカーを通したかのような俺の声が、部屋中に響き渡った。
俺は思わず部屋を見回す。この部屋のどこかにスピーカーがついているのか? いや、それらしきものは見当たらない。どうなっているんだ? どこかに埋め込み内蔵でもされているのだろうか。
「お、聞こえた聞こえた」ユウスケは満足げな笑みを浮かべた。「シンゴ、しゃべる時はこのマイク越しにお願いね。そうじゃないと僕はお前の言葉を聞く事が出来ないからさ」
その言葉は俺をぞっとさせた。「……どういうことだよそれ?」
「どうもこうもないよ。お前の生身の声はこっちには聞こえないんだよ。だからしゃべる時はマイクに向かってしゃべってくれよな」
「なんだよそれ!」俺は声を荒らげた。「どうして俺の声が聞こえないんだよ!」
「落ち着けってシンゴ。ちゃんと聞こえていからさ」
「そういう意味じゃない! どうして俺の声が、俺の生身の声がお前には聞こえないんだよ。こんなのおかしいだろ。お前おかしくなったのか?」
「はいはい、落ち着いて落ち着いて。おかしくなったのは僕じゃなくて、お前の方なんだからなシンゴ。だから僕は大丈夫だから落ち着いてくれよな」
再びぞっとするような悪寒に包まれた。
「……え、いまなんて言ったユウスケ?」
「だから、僕はおかしくないから心配しなくて大丈夫だって」
「違う!」
ユウスケは肩をすくめる。「違うって何が違うんだよ」
「お前、俺がおかしくなったって言ったよな」
「ああ、言ったよ」ユウスケはうなずいた。「お前の生身の言葉が聞こえないのは、お前がおかしいからなんだよ。他のヤツらは僕と同じで、お前の生身の言葉は聞こえない」そこでマイクを指差す。「このマイクを通さない限りはな」
俺はマイクをじっと見つめる。
「このマイクを通さないと人としゃべれないのか俺は……」
「イエス、大正解」
「どうしてこんなことに?」
「え、覚えてないの?」ユウスケは意外だ、という表情を見せた。
「何がだよ?」
「あっ、そうか。そういうことなのか……」ユウスケは意味深な言葉を残すと、思案気な表情になる。
「おいユウスケ」
「どうしよう。困ったな……」ユウスケはひとり言のようにつぶやいている。
「聞けよおい!」
「困った。本当に困った……」
ユウスケは俺の言葉を無視し、ひとり言を続ける。先ほどとは違い、今は生身ではなくマイク越しだというのに、こいつは俺の言葉を明らかに無視していやがる。何が困っただ。困っているのはこっちだっていうのに!
俺は立ち上がると腕組みをし、威圧するかのようにしてユウスケを見下ろした。
「おいユウスケいい加減にしろよ。これ以上俺を無視するんだったらぶん殴るぞ」
「えっ、何だって?」ユウスケは俺の股間を凝視しながら言った。「シンゴ、マイクから遠いよ。もっと近づいてしゃべってくれよ」
「おい、お前はいったいどこを見てしゃべって——」そこで俺はあることに気づき、口を閉じた。もしかしてこいつはまさか……!
俺は物音を立てぬよう静かにユウスケの背後へと回り込む。
「シンゴ」ユウスケは誰もいない宙に向かってしゃべりかけている。あたかもそこに俺がいるかのように。「おーいシンゴ。どうしたの。急に黙っちゃってさ」
俺はゆっくりと後ずさると、背後にある壁を叩いた。
その瞬間、ユウスケは跳び上がるかのようにして驚きの声をあげた。
それを見て俺は確信する。やっぱりこいつは……。
「驚かすなよ、もう」ユウスケがこちらに振り返る。「そこにいるんだろシンゴ?」
俺はその問いに答えず、今度は反対側の壁へと向かった。その間にもユウスケは、俺がいなくなった壁に向かってしゃべり続けている。
俺が壁を叩くと、ユウスケが驚いてこちらに振り向く。
「何だよさっきから」ユウスケが少しばかり怒ったような口調になる。「人を馬鹿にしているのかお前は」
やっぱりそうだ。こいつには俺の姿が見えていない。なぜだ?
「シンゴ、遊んでいないでちゃんとここに座れよ」そう言ってユウスケが床を指差し、ここに座れと、着席を促すジェスチャーを繰り返す。
俺はマイクの前に座ると疑問を問いかける。
「なあユウスケ、お前さ俺の事が……見えているか?」
「見えるわけないだろシンゴ」ユウスケは明るく笑って言った。「だってお前は透明人間なんだからさ」
「……トウメイニンゲン?」あまりにも信じがたい言葉に、その言葉の意味が頭にしみ込むまでしばらくの間が必要だった。