第二幕 第四場
この堪え難い沈黙を最初にやぶったのは委員長の松本ミヨだった。
「……ごめんなさいシンゴ君」委員長はブレザーのボタンをかけ直す。「あなたがそういう趣味の人間だったとは知らなくて。あなたには女である私の胸をさわるよう、強要してしまった。本当にごめんなさい」
ち、違う! 何か勘違いしている。
「あの委員長。これはその——」
「シンゴ!」山中ユウスケが叫んだ。「それならそうと早く言ってくれよ。シンゴのためなら一肌脱ごうじゃないか」
「がんばってユウスケ君」委員長がユウスケにエールを送る。
「ちょっと恥ずかしいけどしかたがないよね」
ユウスケは照れくさそうにして笑うと、姿勢を正して背筋をぴんと伸ばし、ほんのりと顔を赤く染める。
「どうぞシンゴ。好きにさわってくれよな」
「ちょっと待ってくれ!」俺は声を荒らげた。「これは違うんだ! ちょっとした間違いなんだよ! 俺パニクっちゃててさ、それでつい口走っただけなんだ。そんなこと微塵も望んじゃいない」
「大丈夫シンゴ君」委員長は慈愛に満ちた、やさしい笑みを浮かべている。「私は誰にもしゃべったりしないから安心して」
「僕もだよシンゴ。誰にも話したりなんかしない。それに親友の君になら、さわられたっていいと思っているから遠慮はいらないよ」
「俺にそんな趣味はない! さわるんだったら女の胸がいいに決まっているだろ!」
つい本音を叫んでしまったが、変な誤解をされるよりかはマシだ。
委員長とユウスケは、お互いに困惑した視線を交わした。
「シンゴ君。あなたどうしちゃったの?」委員長が心配そうに声をかける。「さっきから言っている事がおかしいわよ」
「もしかして実験の副作用か!」ユウスケは深刻そうな顔つきになる。「大丈夫かいシンゴ。どこか体の調子がおかしい所はない? 頭が痛んだりしていない?」
「……心が痛いよ」俺は深く息をつく。「大丈夫だ。どこも悪いところはない。だから二人とも心配しないでくれ」
委員長とユウスケは二人揃って首を傾げた。誤解が解けたのかどうか心配だが、それを確かめる気力はもうない。どっと疲れてしまった。
「……わかったわ」仕切り直しと言わんばかりに委員長が咳払いをする。「それではシンゴ君、さっきの続きよ。あなたが大の女好きなら私の胸をさわってちょうだい」
……なんだか変なことになっているが、訂正する気になれない。
「さわればいいんだな」
「ええ、そうよ」委員長はうなずいた。
「がんばれシンゴ。僕も応援しているから」
俺は何度か深呼吸して気持ちを落ち着かせると、委員長の胸元に視線を落とした。すると彼女は再びブレーザーのボタンを外して背をそらす。強調された胸との再会。今度こそ俺はこの胸にさわらなければならない。
「そ、それじゃあさわるぞ」
心臓が早鐘を打つ。俺は緊張のあまりつばを飲んだ。
「ええ、どうぞ。さわってちょうだい」
「そ、それでは、よ、よろしくお願いですとも」
おかしな日本語とともに、俺は緊張で震える右手をゆっくりと伸ばした。汗ばむ手のひらが追い求める先にあるもの、それは女の胸。しかも同じクラスメイトの女子、松本ミヨの胸だ!
心臓が激しく高なり、よりいっそう脈拍が早まった。身近な人間の胸をさわるというのは、こうも緊張してしまうのか。委員長の胸、それは形も大きさも申し分合い。それを今からさわる、さわるんだよ俺は!
緊張のあまり俺の右手はがたがたと震えている。委員長の胸までもう少しの距離まで来ているのに、その先が進めない。俺はこんなにも臆病なのか。
「そう硬くならないで」
委員長は俺にやさしく微笑むと目をつむり、身を硬くしてしまう。しかも恥じらうように頬を真っ赤に染めている。
なにが硬くならないでよだ!
いったい何の事だよ。っていうか委員長、あんたが硬くなっているじゃねえかよ。っていうか何? なんで顔を赤くさせてるの? さっきまでは平然とした態度でさわれって命令していたくせに、この土壇場になってそんな乙女チックな表情見せるなよ。俺がおかしくなっちまうだろうが!
いつのまにか息が荒くなっていた。力が入るあまり俺の右手は猛禽類の爪のごとく指先が曲がり、手の甲には血管が浮いている。このままでは彼女の胸をさわるどころか、鷲掴みにしてしまう。落ち着くんだ俺!
委員長が耳まで真っ赤に染めてもじもじとし始めた。「ま、まだなのシンゴ君」その声はともて弱々しく、そして艶やかだった。「は、恥ずかしいから早く」
理性が吹き飛びかけた。
「お、おう。わかった」委員長を押し倒したい本能の衝動をなんとか押さえつける。
俺は今一度深呼吸すると手を伸ばしだす。だが思うように進んでくれない。何かが俺の行く手を邪魔する。それは理性というなの良心。俺はそれに抗うべく、本能に身を委ねる。
さわるんだ。さわってしまえシンゴ! その女の胸を鷲掴みにしてやれ!
ダメだシンゴ!
良心が叫んだ。こんな事をして本当にいいのか? お前には好きな人がいたはずだ。なのにそれを忘れて違う女の胸をさわるなんて裏切りだ!
その瞬間、俺は我に返った。
「何をしているんだ俺は」本能に支配された右手の手首を、良心を宿した左手でがっちりと掴んだ。「こんなことは出来ない!」本能の赴くまま暴れようとする右手を、床へと押し付けた。「静まれ! 俺の右手よ静まるのだ!」
その声を聞いて、委員長が目を開けた。
「シンゴ君?」
目の前で繰り広げられている、俺の右手と左手の戦いを、あぜんとした様子で見つめている。
「おい何があったんだ」
透明人間である俺の姿が見えないユウスケは、落ち着かなげな表情を浮かべている。
「何が起こっているんだよ?」
「できない!」
正座しながら前屈みになるようにして右手を押さえ込んでいる俺の姿勢は、まるで土下座しているかのようだった。
「俺には委員長の胸をさわる事なんて、そんな事出来ない!」
「どうしたのよシンゴ君。急に心変わりしちゃって?」
「そうだよシンゴ。ここまできてそれはないよ」
「……思い出したんだ」俺はゆっくりと顔をあげる。「大事な事を」
「記憶を思い出したのかい?」ユウスケが訊いた。
「ああ。けれど全部じゃない。思い出したのは俺が昨日、朝早く学校に来て、好きだった娘の下駄箱にラブレターを入れた事だけだ。手紙の内容は放課後、校舎の裏庭の木の下で待っています。たしかそう書いたはずだ。自分の名前を書かずにな」
俺は目を閉じると、そのまぶたの裏に同じクラスの女子である前田ケイの姿を描き出す。すらっとした手足を持つ彼女の後ろ姿には、腰のあたりまで長くて真っすぐな髪が伸びている。彼女がゆっくりとこちらに振り向くと、俺に向かって微笑みかける。ぱっちりとした目の上には山なりの眉が美しい弧を描き、優しさに満ちた目付きを作り出している。日本人離れした高い鼻に、いつだってみずみずしく潤んだ唇。その唇が動き俺の名前を口にするだけで、俺の心は幸福で満ちたりていく。
前田ケイには女神と言っても差し支えない美貌があった。その美しさは俺の心を捉えて離さない。今だって彼女のことを思うだけで心が穏やかな気分になる。
「俺には好きな人がいるんだ」俺は委員長を見つめる。「それなのに委員長の胸をさわるなんて俺にはできない。それは彼女に対する裏切りなんだ」
「……そう」委員長の口元がさみしげに歪む。「私じゃダメなのね」
俺は委員長のせつなそうな表情を見て罪悪感を覚えた。俺のために自分の胸をさわらせてあげようとしていた彼女の善意を踏みにじってしまった。好きな人がいるから君の胸にはさわれない、そんなこと言われたら傷つくに決まっている。女として魅力がないと言っているようなものじゃないか。
「ご、ごめん委員長。別に委員長が可愛くないとか、嫌いとかそんなわけじゃないんだ」
「いいの気にしないで」
委員長は首を横に振った。その顔には笑みが浮かんでいたが、どことなく悲しさを感じてしまう。
「本当にごめん……」
「あやまらないでシンゴ君。その人の事が好きなんでしょ?」
「……ああ」
「だったらこれでいいのよ。好きな人に対して誠実を貫く。とても立派よ。そんな純粋で真っすぐなシンゴ君だからこそ、私はあなたのことを好きになったの」
「えっ?」
突然の告白に俺は呆然となった。委員長が俺の事を好きだと言った。これは俺の聞き間違いか。いいや、違う。たしかに委員長が好きだと言った。
「シンゴ君。彼女に対して誠実でいてあげて。私が好きなシンゴ君でいてほしいから」
委員長はその言葉を最後にうつむいてしまう。
「委員長、それは——」
「シンゴ」ユウスケが俺の言葉を妨げる。「ふった相手に慰めの言葉はルール違反だ」
「でもユウスケ。俺は——」
「弁解なんてしなくてもいい。ミヨの事を思うなら、彼女への想いを貫いて欲しい。それがミヨにとっての最高の慰みになるからさ」
胸が痛んだ。言葉では表せないような感情が俺の中で渦巻いている。自分に対する苛立ちや怒りなのか、それとも委員長に対する哀れみや罪悪感なのかわからない。もしかしたらそれら全部の感情がまざりあっているのかもしれない。
「わかった」俺は右手を力強く握り、硬い拳を作った。「そうするよ。それが俺のけじめだ」
委員長が顔をあげた。「がんばってね」にっこりと笑いかけてくれる。
「ああ、そうするよ」俺は力強くうなづく。
「それにしても」ユウスケが言った。「まさかシンゴがそこまで前田ケイに想いを寄せているとは思わなかったよ。そこまで好きだったんだね」
「もちろんさ。彼女は俺にとって女神なん——」
俺はそこではっとする。ある恐ろしい事実に気づいてしまった。
「……なあユウスケ」
「なんだい」
「どうして俺の好きな人の名前を知っている。俺は誰にも話した覚えはないぞ」
「しまった!」ユウスケはあわてて口を押さえる。
「ちょっとユウスケ君」委員長がユウスケに厳しいまなざしを投げる。「どうしてそんなヘマするのよ。シンゴ君は私達が知らないと思っているのよ」
「ごめん。つい」ユウスケは頭を下げた。
まさかこいつら、俺の好きな人が同じクラスの前田ケイだってことを、事前に知っていたのか。そうとしか考えられないぞ、今のやり取りは。