六、
銀子の体は、檻から出された。
那由多の封印を施されたまま。波達羅盈は諦めてはいなかったのだ。
こころはまだ鳥籠のなか。
それは波達羅盈にとって唯一の「人質」ともとれるものだった。
那由多との交渉が決裂した今、波達羅盈の人形たちは彼女のまわりを取り囲み、ひざまづいている。
だがひざまづいているものたちは、みな実体は持っていない。影のみだ。
そのせいか、ゆらゆらと揺れて、頼りない。
波達羅盈のとなりには、目をうつろに開いた銀子がいる。
那由多の封印がなければ自立も可能だったが、今や力なく倒れてぴくりともしない。
この体のなかにはなにもない。
心も、魂もなにも入っていない。
最初、魂だけの存在にするつもりだった。だが、那由多の封印のせいで魂を連れ去られてしまった。
「憎らしや……」
波達羅盈の、呪詛のような声が大広間に響き渡る。
「孤月。そなたのねがいも、娘は拒絶したぞ。鵺の森をその身を以て守るという尊いお役目を。だが、体はここにある。どうせ死ぬ定めならば、今こそ、そのときだ。銀子の血は清められ、鵺の森を潤すだろう……」
ほとんど独り言だった。
許さない。
許さない。
許さない、と、ひとり彼女は囁いている。
「ゆるさないとでもいうの?」
背中を冷たい手で撫でられるような、不快な感覚が波達羅盈を襲った。
それは冷ややかとはいえ、銀子の声と変わりはない。
波達羅盈――彼女は、ほんのすこしだけ、喜んだ。
銀子から発せられる気は、孤月の力のものだったのだ。
「私はあなたを許さないわけじゃない」
ゆっくりと、彼女は自立した。立ち上がって、赤い紋様もするすると皮膚から消えてゆく。
「戻ってきたのか!!」
「月江に誘導してもらったの。でも、今はそんなことじゃない……。私は、あなたが鵺の森を救いたいという気持ちはすごく分かるよ」
「人形ども! 捕らえろ!」
銀子のことばを無視し、波達羅盈が叫んだのち、人形と称した影は銀子を捕らえようと瞬時に動く。
その動きは影のごとく不規則で、捕らえどころがない。
しかし銀子は、すでに受け継いでしまっていた。孤月の力を。すべてを「欺く」力を。
「私は、鵺の森を守りたい。そして、占部に会いたい……」
そう呟いたときにはもう、銀子はそこにはいなかった。
声だけを残して彼女はそこからもう、いなくなっていた。
「!!」
月江と那由多の瞳が同時に開いたのは、数分前だった。
そして、後悔する。
「遅かった」と。
「孤月の君の力を継承してしまったようだ」
「……孤月の力とは何なんだ」
占部が歯がみをしながら問うと、那由多ははっきりとこう言った。
「化け狐の力――すなわち、欺く力だよ」
と。
「欺く? なるほどな。銀子自身も、私もおまえも、欺かれていたわけだ。その孤月という奴に」
「そうだね。わたしの記憶をも――暁暗の記憶をも欺くとは、希代の力を持っていたようだ」
人間の世界で銀子が那由多に会ったことも。
おそらくそれは、那由多が銀子を知っていれば、保護してくれると思ったからだろう。
そしてそれは暁暗もおなじだ。
「継承したのならば、おそらく――孤月の君はほんとうの意味で亡くなっているだろう。継承するために、死にながらも生きていたのだから」
「……銀子はどうなるんだ」
「彼女自身、孤月の君の力を継承してしまったんだ。欺き、真実を塗り替える力を持ってしまっただろう……。彼女の性格から考えて、重荷にしかならないだろうね」
月江は、はっと玄関がある方角へ顔をむけた。
「帰ってきたよ。銀子が。けど、様子が変。泣いているみたい」
「行ってあげておくれ。占部。銀子は、きみに会いたがっている」
占部は膝をぐっと掴んで、立ち上がる。
赤い幣をゆらして、彼はこの部屋から走り出て行った。
おかしかった。
最初はただの弱い人間の少女だと思っていた。
(だが、私にとっては今も、弱い銀子のまんまだ。なにも変わっちゃいない。)
人間だろうが半妖だろうが、なにも変わらない。
それは占部が、興味を示さなかった結果だろう。
それに今は感謝すべきか――。
玄関の外――木の扉の下にあるガラス戸に、影が出来ている。
まるでこの屋敷のなかに入ることを迷っているように。
そっと、扉に手をかける。
だが、かけただけだ。開けるつもりは、まだ、ない。
「銀子」
かたん、と扉がゆれる音がする。
「また泣いているのか」
「泣いてない」
喉が詰まったような声。泣いているのだと断定する。
占部は頭を掻いて、意味もなく咳払いをした。
「いいか。よく聞け。おまえが人間じゃなかったことも」
かたん、と二度目の音が聞こえる。
「半妖だったということも」
鼻をすする音がする。
「私は知っている。望まぬ力を手に入れちまったこともな。だが、私はそんなことに興味はない。おまえが人間だろうが半妖だろうが、力を持っていようが持っていまいが、どうでもいいことだ。おまえという存在が変わらないのなら、それでいい。それだけでいいんだ」
「私は変わってしまうかもしれない。力は、ひとを変えるから」
「おまえは変わらない。そういう娘だ。おまえは」
銀子は、決して力によって驕らない。
むしろ、力を持ったことによってこんなにも嘆き哀しんでいる。
そして――とうとう、占部は扉の取っ手に手を掛けた。
視界の先にはまったく変わらない、浅葱色のうつくしい髪の毛をもつ少女が、後ろ姿で立っていた。




