五、
「俺は餓鬼。食っても食っても腹の減りがおさまらない。哀れな妖怪さ」
「……扉が開いても開かなくても、あなたに喰われるはずだったの?」
「お前は騙されたんだ。姫と、この俺にね」
影がゆらりとゆらめいて、銀子がいる場所へ一歩一歩近づいてゆく。
――騙された。
銀子の胸のうちがわがかっと熱くなるのが分かった。
怒りでも恐怖でもない。
わけのわからない熱が、銀子の胸元を照らした。
「私は、喰われるために、殺されるために生まれたんじゃない……」
そうだ。
(私は、死ぬために生まれたんじゃない。生きるために生まれたんだ。そう思わなければ……。たとえ、お母さんが私のことを道具としてしかみていなかったとしても。)
(占部や、那由多は私を大切にしてくれた。その命を、軽々と餓鬼なんかに奪われてはいけないのだ。)
「生きるために、私は戦わなければいけない」
「立派な決意だ。けれど、お前は丸腰だ。どうすることもできないだろう。大人しく喰われておけ。なに、心配はいらない。なにも怖い思いをさせるつもりはないし、痛ませることもない。一瞬で根の国におちるだけさ。俺は上手に喰える餓鬼だからね」
根の国は死者の国だ。
その国へ、銀子は行かなければならないというのか。
銀子は餓鬼をにらみつけて、胸元に手をあてた。
手のひらがあたたかかった。
最後に残った札が、熱をおびているように。
今こそが、使うべき時だ。
懐に忍ばせておいたことに、まだ餓鬼は気づいていないようだった。
「私は占部のところに戻る。優しい人たちのところに」
「できないよ」
「私は、ずっと逃げてた。戦うことを。自分のために戦うことだけがこわかった。でも、今はもう、ちがう……」
銀子の決意だった。
もう、戦うことから逃げない。
誰かのために戦うことからも、自分のために戦うことからも。
(だって私はもう、ひとりぼっちじゃないから。)
すっと、懐から札をだす。
最後の一枚。
これがだめだったら、と思うと怖くて仕方がない。
けれど、諦めない。決して。ほかになにか手段があるのかと問われれば、ないというしかない。
それでも――。
「……札を持っているだと? 聞いてないぞ、そんなこと」
「占部が持ってきてくれた札。あなたが引いてくれないなら、私はこれで応戦するしかない」
「占部……。守護龍か!! あいつの名はヨルの国でもよく聞くよ。それにしても、占部の札か……。だが、結局は使い手の力だ。発現させる前に、喰ってやる!」
影は大きくふくらみ、巨大な口のようなものに化けた。
だが銀子は恐ろしくはなかった。近づいてくる餓鬼。
自分のことを哀れだと言った餓鬼は、たしかに哀しいだろう。
しかし、銀子は生きねばならない。なにより、自分のためと、自分をたすけてくれた人たちのために。
くしゃくしゃになってしまった札を、占部がそうしたように、札に、ふっと息を吹きかけた。
万感の思いだった。
すべてが、上手くいくわけがない。
それでも現実と思いは別だ。
分かっている。十分すぎるくらいに。
「ひっ!」
占部が以前出現させたように、炎に燃える一角獣が銀子の札からうまれた。
気高く美しい、炎につつまれた聖なる馬は、餓鬼を敵とみなしたのか、ひづめを土に研いで狙っている。
影は炎の光につつまれ、やせ細ったようにしおれていた。
そして、逃げようとした餓鬼を、馬は逃がせまいと駆け、炎を散らせながら餓鬼をその角でひと突きにした。
おそろしい悲鳴をあげ、餓鬼の影はやがて霧散し、消えていった。
銀子は、すこしの間呆然としていた。
殺すということはこういうことなのだ。
根の国に送るとはこういうことなのだ。
だが、これでよかったのだと思い込まなければ、どうにかなってしまいそうだった。
その思いを心配するかのように聖なる馬は消えはせず、銀子の隣によりそっている。
ふしぎと熱くなく、だがあたたかい。
「ありがとう……。あなたのおかげで、私は生き延びられた」
そっと馬の背を手でなでると、馬は顔を揺らした。
馬の瞳は、いまだ閉ざされている岩戸へと向けられている。
そうだ。
これをなんとかしなければ、何の意味もないのだ。
ふと、岩戸の隙間に白いなにかが通ったのが分かった。銀子はそれを岩戸の隙間から目をこらして見つめた。
「蛇だ……。白蛇……」
驚いたけれど、いやな感覚はしなかった。
それに白蛇と聞くと、思い当たる人がいる。
月江だ。
「月江……?」
そっと呟くと、蛇はこちらを見つめ返した。ことばはなかったが、元気づけていることは分かる。
手指がぼろぼろになってしまった銀子の手で、もう一度岩戸を開けようとするが、やはりだめだった。
(やっぱりこれは、力ずくで開けるものじゃない……。)
ちりっとする、指先の痛みを手のひらでおさえつけて、馬を見上げた。
「彼」は瞬きをして、その角で岩戸の隙間に押し入れ、ぐっと顔を上に向ける。
すると、隙間がわずかに開き、そこから炎が吹き出した。
やはり、熱くない。
銀子は胸に手を当てたまま、それを見届ける。
炎は岩を焼き尽くすように、じりじりと音をたてた。
やがて――銀子が簡単に出られる大きさになった直後、馬も炎も消えてしまった。
まるで、役割を終えたかのように。
焼け焦げた岩をまたいで歩くと、すぐちかくに白蛇がいた。
初めて見た月江よりは大きくはないけれど、蛇のなかに比べたらとても大きいだろう。
どうあれ、ヨルの国から出ることが出来たのだ――。
ほっと、銀子は胸をなで下ろした。
彼女は銀子を促すように、体をくねらせてあぜ道を進んだ。




