四、
馬鹿なことを言ってしまった。
占部はそう思った。
コトに頭でも何でも下げて、銀子を救ってくれと言えばよかった。
だが、占部の誇りがゆるさなかったのだ。
銀子の命をたすけることよりも、占部自身の誇りが邪魔をしたのだ。
首におざなりにかけた琥珀の首飾りを握りしめる。
那由多の結界をぬけ、屋敷につくと背中がひんやりと凍えた。
夏だというのにおかしいが、ここはこういう所なのだ。
彼が部屋のなかにまで結界を張っている証だ。
那由多の部屋の襖をそっとひく。
「那由多」
彼は目を閉じ、大きく深呼吸をした。そして、ゆっくりと目を開いた。
相変わらず、エメラルド・グリーンの瞳は深く、あの湖のようだった。
「まだ、波達羅盈との話はついていないのか」
「そうだね。今もまだ、話はつづいている。もっとも――絶望的だが」
「そうか……。こちらも、悪い話がある。コトは、ヨルの国への道を開くことを拒否した」
「だろうね。きみが交渉などできはしないと思っていたよ」
「ああ!?」
だが、言い訳はできまい。その通りなのだから。
那由多は動かず、ただほほえんだ。
疲れが出てきているのだろう。顔色が悪い。
「とは言っても、わたしも波達羅盈の説得は無理だと思っている。彼女の決意は固い。彼女は鵺の森の救世主になるつもりだ」
那由多はこめかみに指をあてて、目を伏せる。
まるで、幼い子どものわがままを目の当たりにするように。
「ガキの夢だな」
「だが、彼女はこの世に器を得ていない。その苦しみや哀しみは、誰にもわからないだろう。一概に愚かだとは言えない」
「それでも、娘ひとりの命がかかっているんだぞ」
「そうだね。愚かだと言っても、命と天秤にかければ命が重たいに決まっている。それでも今は――銀子の力にかけるしかないだろう。だが、きみが銀子の父君の形見を持ってきてくれた。それは、銀子にとって大きな力になるはずだ」
彼は祈るようにことばを紡いだ。
もう信じることしかできない、ということを暗に言っているのだ。
那由多でさえそう言うのならば、それが真実なのだろう。
それでも、と彼は占部に視線をあげた。
「銀子が――彼女が行きつく場所はきみの場所だ。きみも祈ってくれ。彼女が、きみにたどり着くことを」
「祈る……か。滑稽だな。私が祈るなどと……」
「そんなことはないさ。きみはもう、昔のきみではない」
すべてのことがどうでもよかった。
守ることがすべてだと思った。それ以外に意味などないと思っていた。
それでも、暗がりにいた占部を、炎のもとに手を引いてくれたのは銀子だ。
ずっと一緒に暮らしてきた那由多でさえ、それはできなかった。
なぜなら、おなじ闇を抱えていたからだ。
「どうだかな」
那由多は、ふっと笑んで、文机に手を置いた。
そこから、じわりと緋色の墨のようなものがにじむ。
それは蛇のように那由多の肌へと吸い込まれてゆく。彼は苦しげに眉を寄せ、消えるまでじっと体をかたくしていた。
「那由多。もうやめろ。これ以上銀子への干渉を続けたら、おまえが死ぬぞ」
「……銀子の命はもう、銀子だけのものではないよ。それを別にしても、わたしはわたしの命を賭けて、あの子を助けたい。あの清らかな少女を……」
那由多がいま施しているのは、遠距離での封印だった。
心と体が今や離れてしまっている今、銀子がヨルの国へ行くことになったのは那由多の封印のせいだ。
魂だけの存在となった彼女が唯一、自分自身で心を取り戻すことができるのが、その術しかなかった。
それがたとえ、コトによって危険な道になったとしても。
「……誰だ」
占部の低い声。
襖のむこうにいるだれかが、「私だ」と返ってきた。
「招いてくれないか。招いてくれないと、私はそちらにいけぬ」
「月江か……?」
占部が驚いたような表情で、襖のむこうを見据える。
那由多は分かっていたのか、彼女を招き入れた。
「流石よの、那由多。この結界、この私でさえ入ることができなかった」
「何の用だ? 月江。今、客人の相手をする暇などないぞ」
「ずいぶんな言いぐさよ。私は銀子の危機を聞いて参上したというのに」
「ああ?」
「私の力はアソウギ通りを監視するだけではないぞ。那由多の力ほどではないが、銀子の力になれるだろう。私は蛇。誘うことはお手の物だ」
「……そうか」
月江は白い着物を着て、畳の上をすべるように那由多の隣にすわった。
「待っていたよ、月江。さっそくで悪いが、手を」
彼女の白い手が、那由多の手にふれる。
緋色の、紐のような形の紋様が文机に拡散し、やがて月江のなかに消えてゆく。
それきり、彼女は動かなかった。
「……」
銀子は肩で息をしていた。
どう力をこめても、開かない。
それでも、分かっていたのかもしれない。力で開けることなどできない、と。
「どうした? もう、諦めて俺に喰われるかい?」
「そんなこと、ぜったいにない!」
銀子は傷だらけになった手を岩にふれて、開けと念じてみるも、びくともしない。
「私はぜったいに、戻る。あなたなんかに喰われない。占部のもとに戻るもの……」
「それこそぜったいに無理だ。ここにきて、帰って行けたものは誰一人いないのだから。それに、姫との約束もあるからねぇ……」
「姫……?」
不穏な空気を感じ取って、銀子はふりかえった。
壁に背中をあずけて、にやにやと意地の悪い笑みをうかべていたはずの男。
――そこにいたのは占部ではなかった。
見知らぬ男ですらない。
影だった。
ゆらゆらと影がゆらめいている。
炎のように。
「ここで喰われるんだよ。銀子」
もう限界だ、とでも言うように、影は言った。




