一、
老婆の名は、咲恵と言った。
しかたなしに家にあげた二人を、怯えたような目で見上げている。
「何の用だ」
それでも負けじと強気なことばを吐きだした。
「お前の息子のことだ。繰り返しになるが、橘一叶はお前の息子だろう」
「……ああ、そうさ。あの馬鹿は、たしかに私の息子だ」
背中を丸めて観念したようにぼそぼそと呟いている。
占部と暁暗は畳の上にじかにすわり、咲恵を見下ろした。
「出来の悪い、この橘の家にふさわしくない男だった。勉学もおろそかにして、野山に入ってはふらふらと帰ってくる、とんでもない馬鹿な男だ」
「それでも、あんたの息子だったんだろう。それを、馬鹿にしていいのか。一叶は、殺されたんだぞ。人間に。それなのに、いまだ馬鹿にするとは、どういうことだ」
暁暗は咲恵を憎むおもいで、かみついた。
彼女はすこしだけ怯えたような顔つきになって、それでもすぐに鼻で笑った。
「橘の家は、ここら一体の地主だった。だから、できのいい子どもでなければいけなかったんだよ。それなのに」
「おまえ、おまえの孫がいることを知らないのか」
「占部!」
銀子の名を出すとは思ってもみなかった暁暗は、おもわず叫んだ。
だが、占部はなにも後悔するそぶりをみせずに、淡々とつぶやいた。
「名を銀子という。お前に似つかわしくない、やさしい娘だ。その娘が今、危機的状況に陥っている」
「孫だと。私の孫は男だ。女などおらん!」
「それはそうだろう。人間ではないんだからな」
「……」
「知っていたんだろう。お前は。ヒトではないものと一叶が会っていたことを」
老婆は呼吸をするのも忘れ、頭をかかえた。
まるで、恐ろしいものを思い出すかのように。
「あの女は化物だ! いつの日か、やってきた。この家に。真っ黒で不気味な狐が! そいつが言ったんだよ。一叶をもらいうけにきた、と。私は恐ろしくて、家に閉じこもった。祈祷師も呼んだ。それからは来なくなったが、あの化物が一叶を殺したに違いない。きっと人間を操って、殺したんだ!」
「見当違いなことを言うんじゃねぇよ」
占部は吐き捨て、腕をくんだ。
この老婆は、おそろしいのだ。人間ではないものが。だから、見当違いなことを言って、自分を納得させようと躍起になっているのだ――。
「この家に来た理由はひとつ。一叶が大切にしていたものがあるだろう。咲恵さん。俺はそれがほしいだけだ。なにも、あんたを脅かそうとしているわけじゃない」
「大切にしていたもの……?」
「そうだ。あんたの言う化物のものではない、唯一のものだ」
老婆は眉間にしわをよせて、なにかを考えるそぶりをした。
やがてなにかを思い当たるような顔をすると、腰をゆっくりと上げた。
「ちょっと待っておいで」
そう残して、咲恵はどこかへと消えていった。
残った占部と暁暗は、そっとため息をついて、口を開いた。
「あの年老いた女こそが鬼じゃないか。俺にはそう見える。死んだ息子を馬鹿馬鹿言って、貶めている」
「そういう人間もいるだろ。私は人間などどうなろうと知らん。もう昔のことだからな。今の人間を守ってやる恩はねぇ」
「まあ、そうだけど。銀子は半分は人間で、こころは完全な人間そのものだ。それを聞いたから哀しむから、嬢ちゃんの前では言わないほうがいいよ」
「……分かっている。それに、一叶って男の大事なものなんか取りに行かせて、どうするつもりだ?」
「銀子を連れ戻すために必要なものだよ。もう、こころは波達羅盈のそばにあるだろう。那由多どのの説得も心許ない。波達羅盈は頑固だからね」
敬称をつけずに呟く暁暗に驚いたものの、愛想をつかしたのかもしれない。
さすが、自由にやらせてもらっている、と豪語できるわけだ。
「で、その大事なものをどうするつもりだ」
「占部どのが持っていればいいのさ。嬢ちゃんの帰ることができる場所が占部どののいる場所なんだから。呼び戻すにはぴったりじゃないか。会ったことがないとは言え、銀子の父親はヒトのなかでも強い見る力を持っていたんだろう。その力に呼び寄せられるはずだ」
「……そう上手くいけばいいがな」
「信じることが大切だよ。占部どの」
かたい言葉を呟いて、暁暗は襖を開いた老婆を見上げた。
その手には、ちいさな桐箱が握られている。
ちょうど、手にぴったりはまるような大きさだ。
「これだ。確か、あの馬鹿息子が肌身離さずつけていた気がするよ」
「なるほどな……」
占部はそれを受け取ると、目をすっと細めた。
桐箱に入っていたのは、ちいさな石だった。穴があいていて、首に掛けられるようにヒモがくくられている。
その石は――琥珀だった。
「琥珀か。たしかに、知らないにおいがついている。おそらく、一叶のものだろう。気がまだ残っている」
呟いたことばに咲恵は不審そうに眉をひそめた。
「まあ、あんたは気にしなくていい。これをもらい受けていくよ。あんたには必要のないものだろう」
「……どうにでもしておくれ。私の孫はひとりだけ。息子もひとりだけだ。一叶など、もう忘れたいからね」
老婆はそう言って、奥に入ったまま出てこなかった。
のこされた暁暗と占部も、桐箱を手にして、鵺の森へと帰っていった。




