十四、
銀子はただ、歩いた。
歩いても歩いても、光のもとにたどり着けない。
途方に暮れるひまもなかった。
ときおり、二つの光る目玉が銀子を睨んでいたのだ。
暗がりでよく分からなかったが、あれは、ヨモツシコメだ。
国を創造したもうた女神が歩いた道のよう。
醜女たちは、銀子をぎらぎらとした目で見ている。
けれど、襲ってくることはなかった。
まるで恐れるように、こちらを見ているようだった。
「銀子」
びくっと、銀子の体が大げさにふるえる。
うしろから声が聞こえた。男の人の声だ。それほど若くない、おちついた声だった。
振りかえるのがこわい。だから、そのまま震える声で「だれ?」と問うた。
「橘一叶だ。銀子とは、初めて会うね」
今、見失ったはずのこころが跳ねる思いになる。
たちばなかずき。
そのことばを、胸の中でくりかえす。
そして、悟った。
ここは、死の国だ……。
そして、この男は――。
銀子はおそるおそる振り返った。
黒く短い髪、哀しそうな、それでもやさしそうな瞳。
すらりとした背に、白いシャツを黒いパンツを身につけていた。
「お、とうさん……」
声が出ることに驚いたが、するりとそのことばを出たことにも驚いた。
「銀子。銀子を見ることができずにこの国にきてしまったことは、僕にとってとても辛かった。僕の唯一の生きた証が、きみだからだよ」
彼はゆっくりとほほえんで、銀子を見下ろした。
すこしだけ気の弱そうな男性は、たしかに銀子の父親だと本能が気づいた。
そして、この人はとても哀しいのだと知る。
そう。植え付けられた偽物の記憶、そのままに。
「すこし、歩こう。きみは、銀子は、こんな国にきてはいけない。光のもとに向かわなければ……」
「ここは、死の国なの?」
一叶はそっと足を前にすすめながら、「ちがう」とかぶりをふった。
「銀子は死んでいないだろう。ここは、ヨルの国だよ。地下なんだ。鵺の森のね」
「地下……。どうして……お父さんはここにいるの……?」
初めて出会った父親である一叶は、父と呼ぶことにすこし、ためらいがあった。
ちいさな声でたずねると、彼はすこしだけほほえんだ。
「娘を、導きたかった。僕の魂の半分はかくり世にある。死者の国にね」
「……導く……? お父さんは、どうして私がここにいるということを知ったの?」
「さみしいかい? 銀子」
問いには答えずに、一叶はたずねた。
銀子はかぶりをふって、否定する。
「さみしくない。那由多や占部がいてくれる」
「それが、きみの大切なひとなのだね」
にっこりとほほえんで、一叶はうなずいた。
どこか――冷徹なものをかくしている。それも、上手に。
そして銀子は、体の芯から冷えてゆくのを感じた。
――だまされた。
大切なひとの名を言ってしまった。
そう思ったのは、一叶の影がゆらりと揺れたからだ。
影はぐらぐらと揺れうごき、やがて見知りすぎた顔になった。
「うら……べ……?」
緋色の髪の毛をした、やさしい龍の姿がそこにあった。
「おまえが一番大事で大切な男の姿がこれだ」
今まで見たことがないほどの、ゆがんだ笑みをした占部の表情は、銀子の足をすくませるのに十分だった。
怖い、と初めて占部の顔をみて思った。
そして、これが一体何なのか、と銀子は考えた。
だれかに化けることとができる妖怪なんて、暁暗くらいしか知らない。
暁暗といっても、あの姿のまましか銀子は知らなかった。
だが、彼はいま、こんな場所にいないはずで、しかも銀子を貶めるようなことをするはずもない、と信じている。
「あなたは――だれ? だれなの。どうしてこんなことをするの」
それは疑問ではなく、怒りめいた叫びだった。
「どうして? 俺はここにいるものだ。長い間退屈していたのでな」
「……ここはどこなの」
「言っただろ。ここは鵺の森のヨルの国だ。このとおり、いつでも暗いからな」
「じゃあ、私はヨルの国から出なければならないんだ」
「ほう、おまえはここから出る気か。あの岩戸を開ける気なんだな? 今まで一人も開くことができなかった岩戸を」
銀子はほんのすこし、尻込みした。
誰一人としてできなかったこと……。それを銀子ができるとでもいうのか?
「やってみなければ分からないじゃない。私は、占部に、那由多に、みんなに会いたい」
「まあ、俺はどうでもいいけどな。もし、岩戸を開けられなかったら俺に喰われるだけなのだから」
「……」
占部はひどく恐ろしい顔をして、にいっと笑った。
注意深く男ふたりを見上げている老婆は、細い目をよけい細めて口を動かしたが、なにも喋ることはなかった。
「橘一叶さんをご存じですね」
きっぱりと言ったのは暁暗だった。尋ねたという風よりも、断言するようだった。
だが、老婆はその名を聞くと目を見開き、鬼のような形相で「知らん!」と叫んだ。
「知らないはずはありません。だって、この家は一叶さんのご実家のはずですから」
「知らん! 帰れ!」
老婆が引き戸を閉めようとした直後、占部がその戸を掴んだ。その掴んだ場所はぎしりときしみ、ひびが入った。
ひっと老婆が喉を引きつらせたあと、占部は緋色の瞳で、冷ややかにその老婆を見下ろした。
「いいから話せ。でないと、この家をつぶすことくらい、わけもないぞ」
暁暗は目を見張った。
それほど、占部が必死に見えたからだ。




