十三、
カガネは角から手をはなして、そっと息をついた。
ここは、カガネの私室だ。だから、誰にも聞かれるはずもなかった。
だが、ひとりだけ、聞くことが出来たものがいた。
「コト」
コトという名の、カガネの妹姫はそっと襖をあけた。
彼は気分を害したように眉をひそめる。
「兄様。あの娘を助けるおつもりなのですか? なぜみな、あんな娘のことを……」
「あの娘は希有だと言っているだろう。貴重な存在だ」
半妖ということは知っているが、コトに言うつもりはさらさらなかった。
彼女の側近はひどく頭が切れる。
銀子が半妖だと知られれば、それをかくまうカガネもただではすまないだろう。
「銀子を陥れようとしても無駄だぞ。コト。あの娘は鵺の森を鴉どもから救う存在なのかもしれないのだからな」
「そんなこと、いたしません! ただ、気に入らぬのです」
きっぱりと、コトは言い放った。
白いほおが怒りですこしだけ赤く染まっている。それでもカガネはなにも見えないように、ふ、と呼吸をした。
「それはお前のわがままだろう? 占部に守られている銀子がうとましいのだ。占部は守るものを選ぶ。それに選ばれなかったのが悔しいのだろう。お前は」
図星をつかれて、コトはぐっとくちびるを噛みしめた。
占部は、コトのあこがれだった。
強く、気高い。
あの燃えるような炎の髪の色。すべてを見透かすような瞳……。
彼の目に見据えられると、コトの体が透明になったように錯覚する。
透明になって、空気にとけるような感覚になるのだった。
それにくらべてあの娘は、何の力もない。いや、言霊や夢見の力はあると聞いたが、それはあの人間のおこぼれだ。
無力だというのに。
ただ褒めることができるのは、あの不倶戴天が穢した場所を浄化したことだけだ。
それしかない。
それしか能がないというのに。
コトは爪を噛みしめ、カガネを睨んだ。
だが彼はすこし疲れた様子で、私室の様子を見上げている。
彼女のことなど意に介さぬように。
「おいとまいたします」
彼女はくるりと体を回転させて、無愛想に襖をしめた。
カガネはみたび、ため息を吐きだした。
頭痛がする。
黒く突き出た角をおさえて、目を閉じた。
すこし、ふかく潜りすぎたのかもしれない。那由多がいま、波達羅盈の意識を彼に向かわせている間に、銀子に声を届けるのは、それでもひどく大変なことだった。
カガネは、そっと幾重にも重ねた衣の海に体をよこたえる。
すこし、力を使いすぎたようだ――。
そして、久しぶりにゆめを見た。
父王のゆめ。
母のゆめを。
誰にも愛されない、孤独で孤高な王にならねばならないと父王は言っていた。
けれど、たったひとり、母は愛してくれた。
よこしまな思いや、なにかを含んだ思いもなく、ただただ無償の愛を、カガネにくれた。
それだけが、カガネの意思を揺るぎないものにしてくれているのだった。
占部は暁暗を連れ、ヒトの世界へ来ていた。
強い力をもつ占部は、時折ヒトの里におりて、ヒトの気を吸っている。暁暗も、ヒトの形を保ったままだ。
なぜヒトの世界へきたのかと問われれば、すべては銀子のためだった。そして、彼ら自身を納得させるためだ。
橘一叶。
彼のことをすこしでも知らねばならない。
それが、銀子のこころを支えるだろう。
彼女のこころは、完全に人間のそれだ。だからこそ、一叶の生きた証があれば――。
絶望することはないはずだ。
ヒトの世にも、鵺の森にも。
それほど、親という存在は大きいはずだからだ。
鳥居をくぐりぬけ、さらに林をぬけた。
占部はヒトに化けたままだったが、髪の色だけはどうしようもできなかった。
なので、時々山菜を採りに来た人間に、ぎょっとした顔をされる。
占部はいつも、夜に来ていたので、人間と鉢合わせになることはなかった。
その人間は、そそくさと林の奥へと逃げていった。
林をぬけると、ところどころに家が建っていた。
那由多の屋敷とくらべると、近代化されているような家がほとんどだった。
電柱はなく、おそらく地面の下にあるのだろうと思うと、時代の移り変わりは占部にとってひどく早く感じられるものだった。
「こっちだよ。占部どの。橘の家は」
「ああ。なんだか、湿っぽいな。このあたりは」
「ヒトの里の湿度はたかいからね。鵺の森とはかなり違う」
「夜は涼しいんだがな……」
ひとりごとを呟いて、占部は着流しの懐に手をいれた。そこには、札が入っている。
銀子にわたした、あの赤い札だ。
コンクリートで塗りかためられた道を歩いて行くと、なんともない家の前に暁暗がたちどまった。
ほかの家とはちがうのは、かなり古い家だということだ。
木造建築で、那由多の屋敷をもっと小さくしたような家だった。
表札をみると、「橘」と書いてあった。
一叶の実家であることはおそらく、間違いはないだろう――。
占部は気圧された様子はどこにもなく、呼び鈴にふれた。
かすかに電子音が聞こえ、そのあとに引き戸がゆっくりと開けた。
老婆がいぶかしげに男たちを見上げている。
目元のしわは深く、目は鋭い。
理知的な顔だちは、どこか――銀子に似ていた。
「誰だい。お前たちは」
だが、その声は冷ややかで、氷のようでもあった。




