十二、
「だが、もう遅い。わたしの手のなかにある。銀子の心は。誰にも渡さぬ。もう、自然に消滅するしかないだろう。心とは、そういうものだ」
「そうだね」
ふと、那由多は囁いた。
哀しげに、だが――冷え冷えとした、極寒の声色で。
波達羅盈がかすかに怯えた。
「きみの言うとおりだ。たとえ、銀子のまわりの妖怪たちが銀子を覚えていようとも――それがどれほど尊かろうと」
「わたしは鵺の森を救う、救世主になるのだ。さすれば……そなたのように体を得て、草木のいぶきを感じることができる――」
「それがきみの本性か。残念だよ。――波達羅盈」
ちいさな鳥が、ほんとうに無念そうに目をふせた。波達羅盈が体をずらせて、那由多との距離をおこうとする。
「何がいけないのだ! 鵺の森に生まれ、だが体を得られなかったつらさは、貴様も分かるはずだ! 体を得ようと、鵺の森を守ろうとすることの、なにが悪いというのだ」
「……銀子にすべてを背負わせる。それが正義とは思えないな。波達羅盈。体を得ることができたのは、鵺の森の意思だ。それには誰にも逆らえない……と思っていた。だが、それを打ち破ることができる少女が現れた。それが――銀子だ。この世は決して半妖をゆるさない。だが、半妖があらわれた。死ぬことなく、生きてきた。それこそが呪いであり、奇跡だ」
彼女の眉がわずかに寄る。
それでも体は緊張し、いやな汗がにじんでいた。
銀子。
彼女は半妖であり、人間とおなじこころをもっている。
それは、ひどく危険ことであった。
鵺の森と、人の世の均衡がくずれてしまう恐れがあるのだ。
それを呪術で銀子を「人間だと思い込ませ」、今まで来た。
だからこそ――いま、銀子を世に放すのは危険だ。そう、那由多は思考している。
だが、銀子の意思はどうなる。
ここに囚われたまま、人形のように波達羅盈に使われるのならば――。
守りたかった。
意思を、こころを。
銀子は危険だと言っても、決してここにはとどまらぬだろう。
鳥籠のなかから飛び立つはずだ。
しかし、波達羅盈はその意思を殺して檻の中に入れたまま、飼い殺しにする気なのだ。
それは赦されない。
「銀子こそが、鵺の森の意思に語りかけることができるだろう」
「こんな半端者が鵺の森のカミに語りかけることができるはずがない。やきが回ったか、貴様……」
「カミなどではないよ。あれはただ、機械的に鵺の森を動かしているだけ――。それこそ、ただの機械人形だ」
「なんと言うことを! 鵺の森に住んでいるというのに、カミを無碍にするか!」
「支離滅裂だね。波達羅盈。きみは、その意思を恨んでいるのかい? それとも、尊んでいるのかい?」
「黙れ黙れ! 貴様、なにをするつもりだ……。銀子のこころを解放して、どうするというのだ」
注意深く那由多を見据え、小さな鳥に対してふるえている波達羅盈は、滑稽だろう。
しかし、彼女はなにも考えられなくなっていた。
ただ、不思議だったのだ。
いてはならぬはずの半妖に那由多ほどの妖怪が「頼る」など。
「今まで通り、こころ安らかに過ごしてもらいたいだけだ……。つぐみのようにはさせない。呪いの力を得ようと、奇跡の力を得ようと、銀子は銀子だ。ほかの誰でもない。鵺の森を守ろうとしなくともいい。ただ、幸せになって欲しいだけだ」
「なにを……きれい事を……! いずれ、鴉は銀子を殺すぞ!」
「わたしも、占部も守る。もう、十分彼女は傷ついた」
銀子は、ただ宙に浮いている感覚になっていた。
なにもない。
ギンイロの海が懐かしかった。
すこしだけ、前のギンイロの海に似ていたのだ。
くちびるをそっと開く。
だが、声はでなかった。
これが、こころをなくすということなのだろうか。
(だったら、私はいま、なにをしているのだろう? と、考えることができるのだろう。)
(ここはどこ? 私はどうすればいいの?)
どこかで、「お前は質問ばかりだなあ」と笑ったひとの顔を思い出した。
カガネだ。
どうして、ここでカガネの顔が思い浮かぶのだろう。
「――銀子」
かすかな声。
今にもとけてしまいそうな声は、それでもたしかに耳に届いた。
「今、ぼくはお前が持っていた札に語りかけている。持っていただろう。占部から渡された札を。いいか。よく聞け。那由多が今、かがりにむかった。実際、那由多に賭けるしかないが、もし交渉が決裂した場合、お前を救うのはお前自身だ」
いつも自信たっぷりに、そして皮肉そうにしていたカガネの声は、緊張に満ちている。
なぜ、カガネがそんなに固い声をしているのかわからず、銀子はただ呆然としていた。
「鴉の目、そして波達羅盈の目を盗んで語りかけている。いいか、銀子。お前はこれから岩戸を開き、外に出なければならない。それはとても難しいだろう。だが波達羅盈の術をかいくぐるには、これしか方法がない。さあ、行け。光のむこうへ」
銀子は、はっと目を開けた。
そこには暗闇が横たわっていた。
もう、カガネの声はない。
ひとりぼっちで、再び呆然と銀子は暗闇のなかに立っていた。
そして、一筋の、ほんの一筋のみの光があることに気づいた。
あそこが岩戸への入り口だ、と本能的に理解する。
(岩戸を開けなければ。きっと、そうすれば私は……。)
カガネを本当に信用していいのかなどと、考えることはなかった。
そして、岩戸にむかって一歩、足をふみだした。




