十一、
ここに放り込まれて、どれくらいの時間を過ごしただろう。
時間の感覚がわからなくなっていた。
それでも、お椀を無理矢理おし込まれてから、おそらくそれほどたっていない。
銀子は衣擦れの音を聞き分け、体を硬直させた。
波達羅盈だ。
「なにをしにきたの」
「あれからどれほどたったと思う?」
歌うように、彼女はささやいた。
分からなかった。時間の感覚がもう、麻痺をしていたからだ。
それでも、ここにきて一度も食事や何かを飲むということはしていない。
不思議とお腹もすかないし、我慢出来ないほど喉が渇いたと言うこともなかった。
「おおよそ、二週間だ」
「……!」
息をのむ。
それほどまでの間、ここにいたとは到底おもえない。
「そういう場所なのだよ、銀子。しかし二週間の間、助けもなにもこないとはねぇ……。まあ、占部はこちらに来ることがでいないのだから、そなたの味方は誰もいないであろうよ」
「……だれかに助けてもらおうなんて、思っていないもの。私はいつだって助けられてきた。だから、私は私が守ってみせる。そうしなくちゃ……私は生きているって言えないから」
波達羅盈は冷めた目で銀子をみおろした。
それは、なにかを信じていないような目だった。
「生きている? そなたは、そなた自身が生きていると言うのか。なんておこがましいのだろう。そなたは守られなければいつ死んでもおかしくないのだぞ。自分の力で生き抜くことができぬものが言う言葉ではないだろう」
「そうだよ。私はずっと守られてきた。大事に、大切にされてきた。みんな私を守ってくれた……。だから、そのひとのために私は死ねない」
「まだ殺さぬよ。銀子。殺すのは、月虹姫が死んだあとだ。強すぎる力は、鵺の森の脅威になる」
「……」
銀子は気丈に歯を噛みしめた。
波達羅盈はそれをたのしむように、喉の奥でわらい、扇をとりだした。
うつくしい、金粉をまき散らした緋色の扇。
それをすっと銀子へむけた。
そこから、かすかな光を帯びた蝶がふわりと舞い込む。
黄色の鱗粉をまき散らしながら、あるじたる波達羅盈の意をくむように、ゆらゆらと揺れていた。
「……」
銀子はそっと足をさげた。
その蝶がよくないものを運ぶと本能的に理解したのだ。
「少々強引だが、そなたの心をもらい受けるぞ。なに、なにも恐ろしいことなどないよ。ただ、なにも感じなくなる、お人形になるだけなのだから……」
波達羅盈が「ふっ」と蝶に向かって息を吹きかけると、銀子の胸に蝶が吸い込まれるように消えた。
「……!!」
体がびくりと跳ね、銀子は意識が遠のくのを感じた。
そして、最後に浮かんだのは――占部の哀しそうな表情だった。
「よしよし。うまくいったな」
満足そうに倒れた銀子を見下ろした波達羅盈は、しゃがみこんで銀子の顔をみおろした。
そしてー―ぎくり、と顔がこわばる。
その顔には孤月とおなじ、入れ墨のような赤い紋様が色も鮮やかに這っていた。
まるで蛇が這うように。
「これは……那由多か!!」
叫んだ波達羅盈は、悔しげに爪を噛んだ。
だが、たしかにこの手のなかに銀子のこころは眠っている。
心がこちらのものになれば、いいように扱うこともできるだろう――。
遅かったのだ、これは遅かったのだ。と波達羅盈は心中でくりかえした。
なぜ気づいたのか?
那由多はまだ、あの命さえ凍りつく場所で眠っているはずだ。心も、体もまだ完全ではないはずだ……。
波達羅盈は捕らえた銀子の心を具現化した「白い蝶」を鳥籠にいれ、那由多のことを忘れようとした。
だが、それはできなかった。
まるで、捕らえたのが自分の心だったかのように。
ふっと、波達羅盈の目の前に、白い鳥が横切った。
「!!」
瞬間、波達羅盈の体がふるえる。
招いていないはずだ。
鳥は、ちいさかった。まだ幼い鳥だ。しかし、強い――とても強い力を感じる。
白い鳥は、目は緑色だった。
「那由多!! 貴様……」
片膝を立て、波達羅盈は供も呼ばずにただ叫んだ。
その声は、恐怖と混乱を招いた。
おなじ顔のふたり。だが、圧倒的に力の差では波達羅盈のほうが強い。
しかし――しかし、恐怖するのだ。
その存在に。
闇と闇の、おなじであるはずの存在に。
那由多のほうが、深い。
混沌だ。
ヨモツヒラサカの闇よりも、暗いのだ。
「……許さない。赦されないことをしたね。波達羅盈」
白い、ちいさな非力な小鳥はくちばしをとじたまま呟いた。
波達羅盈はその鳥をにらみつけ、後ろ手に鳥籠を隠した。
「わたしの性格は、きみがいちばん知っているはずだ」
「黙れ! わたしは、おまえの言いなりにはならぬ!」
「そのつもりは一切なかったけれどね。きみはわたしを恐れるあまり、そんな幻影を見ていたんだ。まだ間に合う。銀子の心を返すんだ」
「ならぬ」
苦虫をかみつぶすように呟いた波達羅盈に、小鳥はそっと息をついた。
那由多から見れば、波達羅盈はだだをこねているようにしか見えなかった。
「なぜ、きみはそんなに鵺の森にこびを売るんだろうね。恐ろしいのかな? 銀子が」
「……銀子は半端者だ。人間ではなく、妖怪でもない。その意味を知らないとは言わせぬぞ」
「やはり、そうか……」
かなしげに囁いた那由多は、すぐに次のことばを紡いだ。
「では、銀子の母は孤月の君だね。だが、銀子の母が誰かなどと、どうでもいいことだ。わたしが許せないのは、銀子を贄にしようとすること。半端者で強い力を持っているということだけで、きみはえらんだのだろう。―ー月虹姫を殺すための人形に。きみは恐れたんだ。嫌われることを。疎まれることを」
那由多のことばが、波達羅盈の胸に突き刺さった。




