十、
「やはり、言霊をもつ娘はいうことを聞かないねぇ」
たのしそうに波達羅盈は囁いた。鬼百合のような、壮絶な笑みをうかべ、男を見た。
男は申し訳なさそうに、頭をたれている。
「申し訳ありません」
「よい。時間はそれほどないが、ほかの手は考えてある」
「は……」
「わたしが直々に、術をほどこしてやろう。孤月が邪魔をしないかぎり、うまくいくだろうからね」
だが、波達羅盈はわかっていた。
あの孤月はすでに気が狂っている。
鵺の森のためなら、自分の娘でさえも「使う」だろう。
孤月が愛しているのはあの人間だけだ。
銀子など、愛してはいない。そういう狐だ。あの女は。だからこそ、あまり脅威ではないだろう。
ほんとうに脅威なのは――那由多だ。
今はおとなしく養生しているが、銀子がこの「かがり」に連れ去られたと聞いたら、ただではすまない。
その前に、波達羅盈の言うことをよく聞く人形にしなくては――。
すっと波達羅盈はたち上がった。
この男は彼女の人形だ。
波達羅盈に絶対の忠誠をおくものだからこそ、あの大広間に入ることもできるのだ。けれど、それでも実体ではなく、力も持たないただの魂の存在なのだが。
「今すぐ、でございますか。波達羅盈さま」
「そうだ。もっとも、ほんとうは時間をかけてゆっくりと術をかけるものだが、まあ――壊れたら壊れたで仕方があるまい。どちらにせよ、わたしのよい手足になるだろう……」
くっくっと笑い、波達羅盈は扇を手にして、ゆっくりと歩いた。
もう、そのときには男の姿かたちはどこにもなかった。
「銀子が、かがりへ連れ去られた、だと?」
カガネが御簾ごしに声を荒げた。
大広間の両脇にすわっている采女たちもざわつく。
「波達羅盈の仕業だ。おまえ、波達羅盈のことを何か知っていないか」
「よもや、あの玄狐の娘だったとは……」
ひとり呟いたあと、カガネが御簾のむこうで立ち上がる仕草をした。
まわりの采女たちが「カガネ様」と叫んだが、彼はそれを無視して御簾から占部たちがいる場所へ向かってきた。
采女たちは額を床に落とし、肩をふるわせていた。
「銀子のためにぼくがしてやれることは何もない。ぼくは鵺の森の王だ。たったひとりの娘のために、なにかをするということはできない」
「そう言うと思ったよ、カガネ。だがな、恩を仇で返すつもりか?」
「占部、このぼくを脅すつもりか。鵺の王たる、このぼくを」
「脅して銀子が助かるのなら、いくらでも脅してやるさ。私は銀子を助けたい。ただそれだけだ」
「……。占部。お前、もしや……」
カガネは額にふれるように黒い二本の角に触れ、目を閉じた。
なにかを、ゆめを見るように。
占部のうしろには暁暗がいた。表情をかためたまま、なにを考えているのか分からない。
「いくらぼくが鵺の森の王だとしても、ユキサの一族には手をだせない。何故なら、表では鵺の森を守っているということになるからだ。この森を守る存在に、罰を与えることはできない」
「ユキサの一族は、裏では妖怪たちを殺していますよ。カガネさま。力を持ちすぎた、かわいそうな妖怪たちを」
「知っている。ぼくが知らぬと思っていたのか? 化け狸」
「ならばなぜ罰しないのです」
カガネは不自然なことばを聞いたように、頭をかたむけた。
「なぜ、そんなことを言う。暁暗と申したか。それは自分を罰せよと言っているようにも聞こえるぞ」
「真実ですから。俺も、たくさんの妖怪たちを殺してきた。人間でさえも。罰せられるべきです」
「……罰せられることで逃げられると思ってはいまいな?」
「どうでしょうね。……それより、今は銀子のことです。銀子をカガネさまが助けることができないのなら……」
「那由多を目ざめさせるほかないだろうな」
幾重にもかさねた美しい布を床にひろげて、カガネはすわりこんだ。
采女たちはいまだ、頭をさげている。
「あれからおおよそ3ヶ月がたった。まだ、半分だ。那由多はまだ、完全ではない」
きっぱりとカガネは言ってから、「しかし」とさらに続けた。
「ぼくが何とかしよう。こう見えてもそこのユキサの一族よりは力を持っている」
いやみっぽく言ったカガネは、暁暗を見もせずにいまだ幼さの残る手を、采女たちへと差し出した。
「剣を持て」
御簾のいちばん近くにいた女官に似た采女は、ちいさく返事をし、すぐに金色に輝く鞘に入った剣をしずしずと渡した。
占部はその意味を知り、すっと目を細めた。
「ぼくの血を那由多に分け与えればいい。あと三ヶ月も待てはしないだろう」
「そうだな。いつ、波達羅盈が動くか分からない。礼を言う」
カガネにとって、那由多は「あるじ」と言っても過言ではない。
無論、誰にも――占部以外は知りはしないであろうが、表の王がカガネならば、裏の王は那由多だ。
裏の王でなければなしえぬ事も、那由多はしてきた。
それはきれいな事では、決してなかったのだろう――。
カガネは剣を素手で握り、したたった血を小瓶に入れて占部に渡した。
その意味を、采女たちは知りもしない――。
ことばを忘れてしまいそうになる。
それくらいに長い時間がたったような気がしてきた。
漆塗りのお椀は倒れたままで、銀子はすこし疲れて母に背をむけ、檻の前に座り込んだ。
麻の着物のなかで、かさりと札の音がした。
だめだ。まだ使わない。
銀子の思いに呼応したのか、札はほんのすこしだけ、熱を発した気がした。
そして――ゆっくりとした、衣擦れの音が銀子の耳に入った。




