九、
「私はおまえを殺さねぇ。銀子が哀しむ」
「……いいのかい。裏切るかもしれないよ。俺はユキサの一族だからな」
「私に告げ口をした時点で裏切っているだろ」
「告げ口って、嫌な言い方をするねぇ。ま、たしかにその通りだけど」
暁暗は今まで見たこともないような暗い色の瞳をして、ふっと笑んだ。
波達羅盈のところへ行く気だ、と理解した。
行ってどうするのだろうか。
銀子を放してやれと懇願でもする気なのだろうか。
「暁暗。おまえ、なにをする気だ」
「さあね。占部どのに殺されるつもりできたけど、どうやら助かったようだ。だから、するべきことはひとつ」
「……」
くるりと占部に背をむけて、枯れ茶色の髪の毛を掻いた。
麻の浴衣がほんのすこし、かさりと音をさせた。
「嬢ちゃんをたすけることだよ。俺は嬢ちゃんに恩があるからね」
「恩?」
「銀子は……嬢ちゃんは、鵺の森を守ろうとしている。だから、ユキサの一族として守らねばならないんだよ」
「ユキサの一族は残忍だと聞いているが」
「まあね。でも言っただろう。俺は比較的自由にやらせてもらってるって。俺は俺のやり方がある。もちろん、波達羅盈さまの気分を害すことになるかもしれないけどね……」
それはおそらく、死を意味する。
暁暗は死ぬ気だ。
「待て、暁暗」
「どうしたんだい」
「カガネに会いに行く。おまえも来い」
「カガネさまに? そりゃまたどうしてだ」
「王たる意味があるのなら、銀子を救ってくれるだろう」
カガネは、鵺の森の王だ。
その意味があるのなら、波達羅盈がいる「かがり」へ向かうことができるだろう。
あわい期待だった。
必ず助けてくれるとも思わない。
ただ、蜘蛛の糸に手を伸ばすようなものだった。
カガネの城にむかう途中、暁暗はぽつりと呟いた。
「占部どのらしくないじゃないか」
「……余計なことを言うな。本当に食い殺すぞ」
木々がおいしげる林を抜けたが、城に着くまでことばを交わすことはなかった。
静かだった。
最後の一枚の札は懐にもどした。
「まだ時ではない」と、銀子のなかのだれかが呟いたからだ。
それが誰なのか分からないけれど、おそらく自分自身が思ったことを、他人のせいにしたかったのだろう。
なんて、なんて、だめな娘なのだろう。自分は。
くしゃくしゃになった札をやぶれないように慎重に懐にかくすのは難しかった。
ともすれば破れてしまいそうだった。
母のことは今は考えないようにしよう。
いまは、ここを出ることだけを考えなければ。
檻に手をつけたまま、目をこらす。
今、なにか音が聞こえた気がしたのだ。
目をほそめ、暗いおおきすぎる広間にじっと目をこらす。
「……だれ」
注意深く目をこらしても、まったく見えない。音だけが、まるで影がこちらに歩いてくるような不気味な感覚だった。
そして、ようやく音が止まったと同時に、 ぬっ、と銀子の前に影が這い出てきた。
布で顔をかくし、目だけが出ている。
まるで鴉のようだったが、ちがう。
実体がなかったからだ。
その男はまるでくらげのように半透明で、ゆらゆらとうごめいている。
「これをお飲みなさい。喉が渇いただろう。あなたは実体がある。魂だけの存在ではないのだから。今は」
「いらない。なにが入っているか分からないもの」
お椀に入っていたのは、たしかに見る限り、ただの水だった。
だが、今銀子は疑心暗鬼になっている。
それがほんとうの水だったとしても、銀子には信じられなかったのだ。
人形にする、という波達羅盈のことば。
そのことばが、銀子を縛っていた。
「なにも入っていないよ。これはただの水だ。どうしてもいやだというのなら、私が飲んでみせよう」
男はすこしだけあきれたようにそう言うと、すこしだけ、お椀に口をつけた。
彼はなんともないように、お椀を銀子におしつけた。
お椀は小さかったが、どうしてだろうか、あとからあとから水がわき出ている。
なにかの術だろう。
銀子は反射的にそれを受け取ってしまった。
お椀を見下ろしたあと、すぐに男を見ると、そこにはもう誰もいなかった。
「……ほんとうにただの水なの?」
呟いたことばは、だれも答えるものはいない。母でさえ。
たしかに喉が渇いたけれど、それでもあやしいひとから無理矢理にもらった水を、ほんとうに飲んでも良いのだろうか。
「っ!?」
悩んでいると、手を誰かに掴まれた悪寒。
ぞっとするような冷たい手……。
それでも、銀子の腕は誰も掴んではいない。
「あ……!」
まるでうしろからがっちりと体を捕らえられたように、銀子の力を封じられた。
その手のなかにある椀を、くちびるにつけようとしているのだ、とすぐに分かった。
やはりこの水は、呪いがかかっているのだ。
「やめて!!」
銀子の叫びは「ことだま」という呪いになって、お椀が牢のなかに落ちた。水がこぼれた、と思ったが、椀からこぼれたのは、ちいさな虫のようなものだった。
銀子は喉の奥で悲鳴をあげたが、その虫はすぐに消えていなくなった。
呪い虫だ。
銀子のしらないことばが、勝手に頭にうかぶ。
飲まなかったことにほっとする。
やはり、なにかをさせようとしているのだ。波達羅盈は、銀子に。




