八、
占部は、どこかで感じ取っていた。
銀子がとらえられたということを。
ぎしり、と歯が軋んだ。
そして、後悔をした。あのとき、銀子を強く引き留めていれば。
そして――目の前にあらわれた暁暗をにらむ。
「言い訳はしないよ、占部どの。銀子は波達羅盈さまに捕らえられた。おそらく、このままでは――」
「……」
「このままでは、彼女のいいように扱われるだろう。人形のように。そして、最初に言っておこう。占部どの。あんたを彼女がいる場所まで連れて行くことはできない」
それは分かった。
占部は波達羅盈がいる場所には行くことができない。
占部は鵺の森に縛られている。魂をも。だからこそ、あの空間に行くことはできないのだ。
「……では、銀子を見殺しにする気か。暁暗。おまえ、私が言ったことを忘れたとは言わせねぇぞ。その喉笛、食いちぎってやる」
暁暗はだらりと手を下げて、「わかっているよ」と囁いた。
そういう男だ。占部という龍は。
「その前に、すべてを打ち明けさせてくれ。銀子のご母堂のことを。父君のことを。すべて」
「……許してやる」
銀子は、望まれた子どもだった。
そう、鵺の森にとって。
父は人間、母はうつくしい玄狐だった。
北斗七星の化身と言われる、玄狐は、人間界におりて、たびたび野山を駆け巡っていた。
そして――哀しい瞳をした男に恋をした。
その男は家族も友人もおらず、孤独だった。社会というものにはじき出された存在。
男の名は、橘一叶と言った。
一叶は、おのれの名が嫌いだった。今まで、願い事が叶ったことなどなかったからだ。
いつか叶うだろうと、必死に勉学にも、スポーツにも取り組んだ。
しかし、どれも中途半端だった。
橘の家は厳しかった。
出来の良い兄。出来の悪い弟というレッテルを貼られ、一叶はずっとひとりぼっちで野山を歩いた。
野山に咲くささやかに美しい野花が好きだった。
だが、摘もうとはしなかった。
やさしい男だった。とても、哀しいほどに。それはおそらく――もう、なにも望まない男だったからかもしれない。
鵺の森からやってきた玄狐――「孤月」は、女に化けたままの姿で、一叶と出会った。
一叶は一瞬で、この女は人間ではないとはっきりと分かった。
そして、約束をすることもなく、たびたび逢瀬をかさね、やがて、恋に落ちた。
どちらかが先に、というわけではない。
いつの間にか、と言ったほうが正しいかもしれない。
それから一年がたち、孤月は銀子を身ごもった。
それと同時期に、一叶は死んだ。
交通事故だった。
なんて、はかないのだろう。
なんて、命は短いのだろう。
孤月は思い、鵺の森のもうひとつの世界、波達羅盈がいる場所――「かがり」という場に戻った。
孤月はかがりの「女王」だった。
そう、ユキサの一族のあるじだったのだ。
側近だった波達羅盈は、孤月を叱咤した。
人間との間に子をなすとは、と。即座にその腹の中の子を殺せと迫った。
けれど、孤月は首を振った。
もう――孤月は狂っていたのかもしれない。
最初で最後の恋と愛。それをうしなった狐は。
彼女は狂気に満ちた目で、波達羅盈を見た。
この子は、鵺の森を守る存在になる。
そのためだけの存在に。
だって、そうすれば一叶が戻ってくるような気がするから。
その手で、わたしに触れてくれるような気がするから。
あのひとが守れなかったものを、わたしが守る――。
わたしがいちばん大切な、鵺の森を。
支離滅裂なことばに、波達羅盈は恐怖した。
だが思いもしない言葉に、彼女は逆に歓喜したのだ。
ユキサの一族の主を、波達羅盈にゆずる、と。
この子どもを産んだら、あなたに主の座をゆずりましょう。
そしてわたしはこの子をはぐくみましょう。記憶を操作し、鵺の森にとってよりよい存在となるために。
やさしい娘にしましょう。
うつくしい娘にしましょう。
そう、あのひとの魂のように。
そう言って、彼女はかがりの大広間にこもった。
やがて――2年の歳月を腹の中で育て、銀子を産んだ。
「俺が知っているのはここまで。俺は聞く力を持ってるからね。波達羅盈さまも知らない力さ。だから、聞くことも出来た……」
そこまで語りおえると、暁暗はそっと息をついた。
長い長い昔話。
占部は――息をのんだ。
銀子がいわゆる半妖ということを。
鵺の森を守るためだけの存在だったということを。
全身の力がぬけるようだった。
哀れだった。
かなしい娘だと、今まで以上におもった。
人間の家族に捨てられたという、むごい記憶以上の「運命」。
銀子がなにをしたというのだ。
憎たらしかった。
誰かは分からない。
叫びだしたい思いだった。
「……銀子」
かすれた声が、占部の喉からこぼれおちた。
「私は……私には、なにもできないのか……。娘ひとり、守れないというのか……」
こぶしを握りしめる。
悔しかった。
できることならば、銀子の場所へ今すぐにでも駆けていって、抱きしめたかった。
鵺の森を守ることができる力をもちながら、少女ひとり守れない。
それが辛かった――。




